2016年08月21日

祭りの道を並んで歩く

町を歩けば生徒にあたる。なぜか他校生までもが、自分の存在を知っていた。剣道場に通っている者ならまだしも、全く面識のないはずの者にまで覚えられている。
「日暮先生、こんちゃーっす」
「おう、お前ら宿題終わったのか」
「……もーちょっと」
昨日からこんなやりとりを、何度していることだろう。そのたびに隣を歩く雪に笑われた。
「黒哉君、大人気の先生だね」
「この町の子供たちのネットワークはすごい。さっき話した奴、たぶんあれが初対面だぞ」
「そんなもんだよ、ここは。学区を越えて遊ぶから」
夏祭りの二日目、つまり最終日なのだが、今は初日の午前ほどの人出はない。次に混むのは花火大会の時間が近づく夕方からだ。出店を覗きながら歩くにはちょうどいい。この外出は雪とのデートでもあり、教師としての町の見回りでもある。もっとも、この町の子供なら、祭りの日に危ないことはしない。気をつけるべきはよそから来た者が起こす事件に巻き込まれないかどうかだ。
「でも、よその人は町で見張ってるからね。そういう事件もめったに起きないよ。……あ」
見回りの説明をしたとき、雪はそう言ってから気まずい顔をした。よその人が見張っているはずなのに、起きてしまった事件。高校生だった黒哉がそれに巻き込まれて、現在がある。そのことを思い出したのだ。別に、気にしなくても良かったのに。
その時は、そのとおりだな、と彼女の頭を撫でて終わった。
「雪、何か食うか?」
「カラフル綿飴」
「あのでっかいやつかよ。食いきれるのか?」
「コーヒーに溶かして飲んじゃう」
「うわ、オレなら絶対無理なヤツ」
あれから事件がどうのという話はしていない。昨日だって、今だって、祭りを見に行こうと誘って出てきている。生徒と会うのは必然のこと。
「わー、可愛い。黒哉君、写メって」
「はいはい」
平和ならそれで良い。子供たちや雪が楽しそうに笑っていれば良い。それが続くことを切に願う。
「……綿飴、結構持ち歩くの大変だね」
「ほら見ろ。持ってやろうか」
「いいよ。生徒さんに笑われるよ」
「笑いきゃ笑え」
祭りの日の賑やかな町を、こんなに穏やかな気持ちで歩けるようになったのだと、黒哉は母に知らせたくなった。

毎年祭りの日は祖父の営む不動産屋の事務所にいたのだと、在は初めて莉那に告白した。人混みは苦手で、莉那に誘われた時以外は隠れていたのだと。
「恥ずかしい話だけど、僕はどうもこの町の行事を楽しめないようで。あ、莉那さんといるときは別だから、気にしなくてもいいですよ」
取り繕うように付け加えたけれど、莉那は笑わなかった。真面目な顔をして、在を正面からじっと見る。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか。私、そんなこと知らずに、毎年誘っちゃいましたよ。困った顔してたのは、照れてたんじゃなくて、本当に困ってたんですね」
「いや、それは」
「私、思い込みが激しいの自覚してます。たまたまそれがいい方向に転がったことが多いだけで、どこかでみんなに迷惑かけてるんですよね」
「そんなことはないですよ」
「あるんです。だから今年は、花火まで大人しくしてます」
どうせ昨日、神輿行列を見に行ったのだし。そう言って膝を抱えている莉那が、本当はとても祭り好きで、だからこそ先輩である流や和人と気が合ったのだということを、在はちゃんと知っている。莉那に我慢はさせたくない。元はといえば、今年は事務所に引きこもることはなさそうだと、つい口が滑った在のせいでこうなったのだ。
「……御仁屋の限定饅頭」
ぽそ、と呟くと、莉那の肩がぴくんとはねた。毎年、夏祭りデートのときは必ず買って食べていた。在も御仁屋の菓子は嫌いではない。それに限定なのだから、今年は今日しか食べられないのだ。
「莉那さん、甘いもの欲しくないですか?」
「か、買い置きのお菓子があるので」
「それは普通にお店に行けば、生産終了しない限りはいつでも買えるものでしょう。でも限定饅頭は昨日と今日だけ。しかも昨日は買い逃してしまった」
「観光客が年々増えてるからしかたないです。今年はガイドブックとかにも載っちゃったみたいなので、あれが目的で来た人も多いらしいですよ」
「じゃあやっぱり食べておかないと」
在が笑って言うと、莉那の顔が真っ赤になる。昔は立場が逆だった。高校生の頃は、莉那の押しが強くて、在はいつも照れて戸惑ってばかり。けれども慣れれば、在が普通に莉那と話せるようになれば、実はこちらのほうが相手の弱点をとらえて翻弄するのは得意だということに気づいてしまった。
自分にそんな特技があったなんて、在はそうして初めて知ったのだった。
「買いに行きましょう、莉那さん。というか、僕は一人で留守番するのも一人で行くのも嫌なんですから、ついてきてもらわないと今度こそ困ります」
困るということを武器にするのは卑怯だとわかっている。でも、卑怯なのは今更だ。胸を張れることでもないが、卑下してそれまでにしてもどうしようもないことは学んだ。利用できるものなら利用してしまえと開き直る術は、これもやはり高校時代に身につけ、大学生活で浸透させたものかもしれない。
「……じゃあ、一緒に行きます。競走率高いので、人混みの中に突撃することになりますよ」
「いいですよ、ちょっとなら。じゃあ、さっそく」
あれから七年。莉那と親しくなってからなら六年。成長したといっていいのか、図太くなったというべきか。とにかくいい方向に転がったのは間違いないと、在は思っている。
「今年からはもう、黒哉も付き合ってくれないし」
「黒哉君? 去年は一緒にいたんですか?」
「事務所に引きこもってるときに差し入れしてくれたんですよ。でも、もう雪さんがいるから」
「在さんには私がいますよ」
「そうですね。頼りにしてますよ、僕の奥さん」
通ってきた道がどうであれ、今ここにあるのは幸福だ。
もう、祭りの日に事務所に引きこもることはないだろう。それは祭りが好きになったからではなくて、祭りが好きな人が傍にいるから。
この町への違和感に屈したわけではない、と在はこっそり抵抗し続けている。

駅裏商店街の入口のアーチの下、入江新と牧野亮太朗は炭酸飲料をちびちびと飲んでいた。待ち人が来ないので暇を持て余していたところ、ばったり出くわしたのだった。
「お前らな、もっとがーっと飲めよ。せっかく奢ってやったのに」
その様子を見て溜息を吐くのは、中央中学校教員の井藤幸介。祭りの賑やかさの中、アーチ下でぼんやりと立っていた二人を見つけて事情を聴き、元教え子たちを元気づけてやろうと思ったのだが。
「飲み終わってなくなったら、これ以上何して春を待てっていうんですか」
「俺は待つのはかまわないけど、新と何もせずに二人でいるのがいたたまれない。井藤ちゃん、なんか面白いことやってよ」
「人に何期待してんだよ牧野……」
井藤はパフォーマーではない。面白いものが見たければ、駅前大広場でやっているステージを見に行けばいい。今年はたしか、何年かぶりに瑠月樹里が来ているはずだ。いちアイドルから大人気のトップアーティストへと進化を遂げた彼女を呼ぶのは大変だっただろう。だが、きっとこの二人は自分の彼女以外に興味はない。昔からそういう生徒だった。
大広場から明るい曲と力強い歌声が響いてくる。ちょうど出番のようだ。おかげで出店の並ぶ商店街からは人がいくらか引いている。みんな広場のほうへ行き、今頃はタオルか何かを振り回しているのだろう。
「須藤も渡辺ももうすぐ来るだろ。人混みに邪魔されることもないだろうし」
「今メッセージきて、春はあと三十分かかるそうです。おじいさんの手伝いだから仕方ないけど」
「連絡来るだけ良いだろ。俺なんか来るかどうかもあやしくなってきたぞ。親戚が来るのはいいけど、ちびっ子の面倒見るのは大変だよな」
「……お前ら、それ手伝いに行ったほうがいいんじゃないの?」
そのほうが早く会えるし用事も済むしで、こうしてぐだぐだしていることもなくなっていい……と思ったが、それは井藤だけの考えではなかった。直後にステレオで喚かれたことによると、新は手伝いを申し出たが「工芸のことだから新には難しいよ」と断られ、亮太朗も「親戚に先輩のことどう説明したらいいかわからないし、あとでからかわれると面倒なので」とこれまた断られたそうだ。終わったら必ず行くから、と言われているだけましで、半ばふられたようなものだ。
だが井藤も、彼らのことばかり言っていられないのが現状だった。
「井藤ちゃんはそもそもなんでここにいるんだよ」
「そうですよ、井藤先生こそ何か用事があってここに来たんじゃないんですか」
「俺は教師としての見回り……のついでに嫁さん待ってんの」
「嫁さん? どっか行ってんの?」
「盆からずっと実家に帰ってるよ。処分しなきゃいけないものがいっぱいあるからって、俺は一緒に行ったのに先に帰されたんだ。今日の花火大会には間に合うようにするって言ってたんだけどな、夕方の列車で来なかったらアウト」
「井藤先生の新婚生活も大変ですね」
そう、井藤は一応新婚で、新と亮太朗もそれは知っている。なにしろ井藤の入籍の報せは当日のうちに町中に広まり、急遽同窓生で相談をして、一週間以内にほぼ全員がお祝いのメッセージを送ったのだ。現役の頃より団結していた、と元教え子たちの中では語り草になっている。
「みんな待ちぼうけかー」
「せっかくの祭りなのにな」
遠くから歓声が聞こえる。この小さな町に押し寄せた瑠月樹里ファンが盛り上がっている。彼女のおかげで、今年の祭りはすでに去年の来場者数を超えたそうだ。先ほど商工会議所の職員がそう話していた。
「牧野、暇ついでに訊いていいか?」
「何、井藤ちゃん」
「この町で生まれ育って、良かったと思ってる?」
「あ、それオレも聞きたい。春見てればわかると思ってたけど、マキとしてはどうなんだよ」
「今更だな」
たしかに新と井藤はこの町の生まれではない。中学からこの町にいた新はともかく、井藤は教員になってこの町に赴任してきたのだ。ここで生まれ育った亮太朗に比べれば、住んでいる期間は短いし、生まれたときにどうだったかなんてわからない。もっとも、それは亮太朗だって憶えていないのだけれど。
でも井藤や新に子供ができたら、その子は礼陣の子供になる。だから聞いておきたいのだろう。この町が住みよいかどうか。
「近隣の市より福祉関係はいいらしいし、子供最優先だから、中学卒業するまでは良いんじゃないのか。あとは高校以降の進路次第。俺みたいによその学校に行くことになって金がかかるかもしれないし、大学は礼大狙いじゃない限りまずほとんど山の向こうだ」
「それは一般的な話だろ。マキはその人生で良かったのか?」
「人生って、まだ二十年ちょっとだぞ。……でも、良かったんじゃないの。この町なら友達はわんさかできるし、井藤ちゃんみたいな先生や大人もいっぱいいるし」
亮太朗がそう言って笑うと、新も井藤も安心したような表情を見せた。だから今は、お前ら次第だぞ、という言葉は飲みこんでおく。
炭酸飲料の刺激が少なくなってきた。かわりに、人が増えてきた。ステージが一段落したのだろう。それぞれのスマートフォンに着信があったのは、ほぼ同時だった。
待っているだけは、もう終わり。そろそろ動き出さなければ。

夕方には駅裏商店街の出店が片付けを始め、人々は遠川河川敷や色野山展望台、礼陣神社境内などの花火観賞スポットに向かう。
加藤パン店も夏祭り限定の蒸しパンを売りきり、出店を片付ける。洗い物なども手早く済ませ、あとは明日の仕込みを残すのみとなった。これは両親がやるという。
「だから詩絵はちゃんと支度して、花火見てきなさい」
母が差し出す浴衣を、しかし詩絵は拒否した。浴衣で山を登るのは、整備された登山道を通るとしても難しい。今年の花火も色野山展望台で見るつもりなのだ。
「浴衣動きにくいし、普通の恰好でいいよ。もたもたして松木君に迷惑かけるのも嫌だし」
「俺は別に迷惑じゃないよ。詩絵さんに合わせる」
「花火に間に合わなかったら嫌でしょ。場所取りのことも考えると、絶対浴衣は不向き」
どうやら今年も、詩絵の浴衣姿は拝めないようだ。肩を落とした松木の背中を、詩絵の弟である成彦が慰めるように叩いた。
「二人で温泉でも行ったら見られるかもね、浴衣」
「成彦君、さらっとすごいこと言うよな」
「伝手ならあるから場所も紹介できるよ」
にやり、と笑う成彦。苦笑いで返しながら、さて本当にどうしようか、と悩む松木。大学四年の、今年が最後のチャンスだと思っていた。詩絵と二人の花火大会ももう四回目なのに、未だに告白すらできていないのだ。加藤家の人々はほぼ公認なのに。
「松木さん、自信持っていいよ。今年頑張れば大丈夫」
成彦に見送られ、松木と詩絵は色野山展望台までの道を歩く。一緒に歩く四年目は、もう松木が詩絵を追いかけることもなくなって、完全に並んで行くことができた。本当は二年目からそうだったのだけれど、この一言は今日まで言えずじまいだった。
「詩絵さん、手繋いでいい?」
これで勇気を使いきってしまってはいけないのだけれど、きっと半分以上費やした。
詩絵は目をしばたたかせ、言われたことを反芻する。頭で考えるよりも行動の方が早くて、気がつけば手を出していた。
「……ん。繋ぎたいならどうぞ」
「あ、ありがとう。失礼します」
互いに汗ばんでるなと思った。夏だからだ、緊張しているからかもしれないけれど、理由の大部分はきっと季節のせいだ。そう言い聞かせながら、他の二人連れに混じって進む。
色野山展望台は今年も人が多い。けれども例年通り、地元民や礼陣出身者らしい人たちばかりだ。昼間のステージや出店を目当てにやってきた人たちは、交通機関の都合などもあってほとんど帰っている。翌日は平日だから、そうせざるをえない。
いつもの場所に到着して、まもなく一発目が打ち上がる。まだ手は繋いだままだ。詩絵からも松木からも離そうとすることはなかった。今なら、と松木が口を開きかけたとき。
「松木君さ、アタシのこと好き?」
詩絵が先手を打った。答えが一種類しか出せないやり方で。
「……好き、です」
「うん。アタシも好き」
花火の音が、周りの声が、遠くなる。単調な告白が、頭の中を駆け巡る。ああ、好きなんだ、と。それだけがマッチの灯のように暗闇に浮かぶ。
「好きになったよ、松木君のこと。どこが、とか、何が、とかそういうのはよくわかんない。でも、早くバイトに来ないかな、とか、休みになったら会えるのが楽しみだな、とか、そんなふうに思う。そういうのが好きになることなら、アタシは松木君が好きなんだと思う」
このよくわからない気持ちをわかってほしいと思う、それも「好き」の一部だろうか。
「詩絵さん。俺、最初に詩絵さんと会ったときから、詩絵さんのこと好きだったよ」
「それは周りから婿さんだのなんだのって言われてたからじゃなくて?」
「その前から。だから今、詩絵さんから言われてびっくりしてるし、……嬉しすぎて花火どころじゃない」
「いや、花火は見といた方がいいよ。だって、今ここにいるアタシたちの特権なんだからさ」
そして花火を見るたびに、今夜のことを思い出そう。

音なら聞こえる。光も微かに届く。いつも見ていた花火を見ずに、今年は野下家の縁側に、流と和人と桜が並んで座っていた。
庭には老犬が寝そべっている。その様子をただ、静かに見守る。
「桜、あっしと花火見なくて良かったのか」
「原稿中だから見れないって。だから私もオオカミを見てるの」
こんなに静かな祭りは、生まれて初めてなんじゃないだろうか。お祭男と称された流が、今年はステージにも出ず、軽く出店をまわっただけだった。
オオカミが心配だった。でも、それだけじゃない。今まで海外に旅に出て、夏祭りに帰って来る生活をしていたのが、これで一旦終わってしまうという現実を見なければならなかった。
世界情勢をみるにつけ、一度旅の生活は諦めなければならないと結論を出した。家族や友人に心配をかけたくなかったし、和人を道連れにしてしまうことにも罪悪感が募りつつあった。
もうしばらくは、この町にいる。そのための生活のことを考えなければならない。それは、和人も同じだった。
「長い旅になると思ったんだけどな」
「長かったよ。……落ち着いたら、また行けばいい」
それはいったい、いつになるだろう。
祭りが終わる。終わってしまう。もうすぐ花火の時間も、終わる。
「仕切り直すのもいいんじゃないかと、僕は思うよ」
そう言う和人だって、本当に納得したわけではない。
世界は動く。ちっぽけな二人は、結局それに翻弄されるしかなかった。それが悔しい。
「大口叩いて、これだもんな。和人を連れまわしただけだった。ごめんな」
「それは違うよ。行くと決めたのは僕で、歩いたところで得られたものは僕らのものだ」
無駄ではなかったかもしれない。けれども犠牲にしたものは、けっして小さくはない。
たとえば、目の前の犬とか。
「……もう、らしくないなあ、お兄ちゃんも和人さんも。そもそも一緒にいたくて始めた旅なんだから、これからもそうすればいいじゃない。留まる場所がまた礼陣になっただけよ」
桜が愛猫を撫でながら言う。――そういうことにしておこうか。旅はまだ終わったわけではない、ということに。
「……さっきのが最後の一発だったのかな、花火。もう聞こえないね」
「そうだな。オオカミ、わかったかな。花火の音」
「吠えないから、わかんないね」
ひとまず、ただいま。


礼陣の夏が過ぎていく。祭りの夜が明けたなら、その先に次の季節が待つ。
そうしてまた時が巡れば、祭りの季節はやってくる。
それを見届け、鬼たちは、この町を守り続けるのだ。
『それが私たちの役目だものね』
それを確かめ、夜を過ごす。



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2016年08月20日

神輿と人々

神輿行列の囃子に合わせ、朗々と唄う声響く。
「今年も人多いね」
「足もと気をつけて、小さい子いる」
夏の最後を飾るのは、礼陣の町の伝統行事。
「手をつないでてね、はぐれないように」
「あとでいちごあめ食べたい」
大鬼を祀る、夏祭り。

「ちょっとー須藤さーん、なんか御神輿の部品欠けてるってー」
階下から呼ばれて、春はあわてて階段を下りる。足はどちらかといえば遅い方なので、一所懸命に走ってもなかなか行きたいところへ辿り着けないのが、長年の悩みだ。
「欠けてるって何が」
「ほら、飾りが左右で違う。昨日までちゃんと対称だったのに」
「あー……すぐに直すね」
北市女学院大学はまだ夏休みの真っ最中だ。けれども課題を進めたい学生やサークル活動の合宿などで、一部施設は申請をすれば使えるようになっている。
春の所属する芸術学部工芸専攻の学生は、一部で集まって、夏祭りに合わせて御神輿を作っていた。とはいえ本当に担いでまわるものではなく、机の上に置けるようなミニチュアだ。これを子供神輿が展示される駅前大広場公園に、一緒に置いてもらうことになっていた。
この試みは今年が初めてだったが、祭りの運営をする商工会などにはすんなり受け入れられた。というより、大歓迎だった。そういうわけで、それぞれの卒業制作や他の課題と同時進行で作っていた。
今日がとうとうお披露目の日なのだが、持ちだす直前になってこの始末。欠けた部分を慎重にごまかして、最後にもう一度全体を見てから、これでよしとした。
「もう持ってっちゃおう。神輿行列終わっちゃう」
「了解。……てゆーか、須藤さん、ここにいて良かったの?」
一緒に制作をしていた同級生に尋ねられ、春は首を傾げる。いて良いも何も、このミニ御神輿を持って行かなければならないのだから、必然的に来ることになっていたはずだが。
「ここじゃなかったらどこにいるの」
「音楽専攻の……園邑さんだっけ。あの子と仲良いでしょ。一緒にいなくて良いの?」
「ああ、千花ちゃん。あっちはあっちで用事があるから。私の今の用事はこれ」
そしてこのあとも、千花とは合流する予定がない。あの子には、もっと大切な用事がある。
もちろん、春にも。
「これ置いてきたらどうするの」
「そこで解散かな。私、人と待ち合わせてるから。だから鍵は返して出よう」
「待ち合わせって誰? 彼氏?」
興味津々の目。期待の声色。簡単に肯定するのはちょっとあっさりしすぎかな、と思ったので。
「どうかな」
笑って、ごまかしておいた。

神輿行列は人出が多く、かつ移動するため、地元民のほとんどはTシャツにスニーカーだ。これに法被を羽織れば完璧な祭りスタイルになる。
子供から大人まで、成長すれば法被を買い替え、この恰好を貫くのだ。海もそういう大人になりたいと思っていた。礼陣に生まれ育った者としてそうありたいと、半ば意地になっていた。
この町が嫌いだった、産みの母への反発もあった。今年は素直に、そうだったんだなと思える。そして彼女がこの町を嫌いになった理由も、今なら少し理解してやってもいい。一度自分が、周りを信じたくなくなったから。つまりはそういうことなんだろうと、解釈している。
「千花」
彼女のために、そうすることにした。
「あ、おはようございます、海さん。……ふふ、法被、お揃いですね」
「町のものなんだからお揃いなのは当然だろ」
はたして今日、同じような恰好の自分たちは、恋人同士と兄妹とどちらに見えるだろう。どちらでも正解という妙な状態を、自分たちは受け入れつつある。
もっと早くに知っていたはずの親たちのほうが混乱している。おかしなものだ。
「……最後の夏祭り、だっけ」
「お仕事が始まればそうなりますね」
人混みと喧騒、唄う声。どんなに騒がしくても、互いの声はしっかり聞こえる。千花はともかく、海には人間だけでなく鬼の声まで聞こえるのに、一番聞きたいものをとらえることができた。
「ずっと一緒にいるようになれば、最後じゃなくなりますよ。いつかまた、二人でお祭りを見られます」
ぎゅ、と握った手に込めたのは、どの種類の愛情だろう。
「さて、大神輿を追いかけるか」
「そうですね。それがこの町の人間の習いですからね」
恋人でも妹でも何でもいい。このまままっすぐ進めば、いずれ辿り着くのは家族だ。歪な道だけれど、それを選んだ。この町を守っているという鬼たちは、どうやらそれを静かに見守ってくれるらしい。これまで真相を黙っていたことの詫びのつもりなのかもしれないけれど。
「一緒に祭りに来てくれてありがとう」
「こっちこそです」
とりあえず約束を果たせた。まずはそれでいい。これからに続く第一歩だ。
二人で一緒に、地面を蹴る。

大勢の人にも、囃子に混じる太鼓の音にも、四か月の赤子は動じない。これは大物になるわね、と言った義姉の子も、こちらはもうすぐ二歳になるが、そういえば祭りに泣いたことはなかった。
もしかして鬼があやしてたりするんだろうか、でも普通の子供には見えないはずだけど、などと大助は考えを巡らせる。なにしろもう見えないので、本当のところがわからない。見えた頃は、こんなことは気にしたこともなかった。
「大樹、真剣に御神輿見てるね。楽しいのかな」
「それにしては笑いもしねえぞ。変なもんがある、くらいの認識じゃねえ?」
この春に生まれた我が子を抱いて、亜子と一緒に神輿行列を見に来た。途中で兄夫婦とも合流して、少し人から離れた場所で、大神輿が動くのを眺める。
兄夫婦の子供である紅葉は、神輿に向かって手を伸ばしていた。成長するにつれてあまり乳幼児用のおもちゃに興味を示さなくなったかわりに、昔話の読み聞かせや神社までの散歩を喜ぶようになったらしい。絶対に母親の影響だ、と大助は思っている。
自分たちの子、大樹は、どう成長するだろうか。今はまだぼけっとしているか泣くか、たまに笑うかといったところだが、そのうち好き嫌いをするようにもなるんだろう。
「適当なところで、神主さんに挨拶しに行かなきゃね。愛さんも待ってるだろうし」
「神輿行列が終わったらな。当分は忙しいだろ。その前に大樹が腹空かすかも」
「じゃあやっぱり、一回うち戻ったほうがいいか。恵さんとよりちゃん先生も寄ってく? 遠川の家よりは近いよ」
「それじゃ、お言葉に甘えさせてもらっちゃおうかな。恵君、いいでしょ?」
「いいけど、僕らはもうちょっと神輿行列見てからだね。紅葉がもっと見たそうだから。大樹に差し障りあるようだったら、大助たちは先に帰りなさい。あとでお邪魔させてもらうよ」
本当に紅葉は母親似の礼陣マニアになるんじゃないだろうか。ほどほどにしろよと思いつつも、今自分が心配しなくてはならないのは、大樹のほうだ。むずかる様子もなく神輿行列を見ているが、肌に汗が浮いてきている。夏もそろそろ終わりとはいえ、太陽は容赦なく地上をやいていた。
「亜子、大樹に水分とらせないとだめだ」
「バッグに入れてきたけど、やっぱり帰ったほうが良いね。じゃあ、恵さん、よりちゃん先生、またあとで」
去年より気を遣うことが増えた。その分慌ただしくなって、でも、賑やかになった。さすがに大樹くらいの頃の記憶は大助にはないけれど、もしかしたら今はもういない両親も、こんな気持ちになったんだろうか。大変で、たまに面倒で、でもそれが幸せだと感じる瞬間があったんだろうか。
「大樹が生まれてから、父さんと母さんのことを考えるようになった」
思っていたことをそのまま口に出す。亜子はそんな唐突な話に慣れていて、うん、と相槌を打つ。
「全然憶えてねえんだよな。でも、俺が生まれてしばらくは、家族全員揃って家にいるようにしてたらしい。母さんは仕事を休んで、父さんも家にすぐ帰れるような仕事をさせてもらってたって。母さんの産休が明けたらまた二人での海外出張が多くなるから、それまではちゃんと俺の世話をしておきたかったんだと。全部兄ちゃんから聞いたんだけど」
「恵さん、当時もう小学六年生か。そりゃあ憶えてるよね」
「大樹も忘れるんだろうな。今日のこととか、いつかは」
「全部は憶えてられないよ。わたしだってそんな記憶ないもん。でも、大樹はまだまだ人生始まったばかりだから。大きくなってから、お祭りの日にずっとお父さんに抱っこされてたこととか、話したらいいよ。恵さんと愛さんがそうしたみたいに」
だから生きてね。言葉にはしなかったが、たぶんそう続く。
ちょうど一年前、大助は鬼たちの声を神社で聞いた。亜子の胎に命が宿ったことを知らせるもので、それから少しして、亜子もそのことに気づいた。
そのときから、生まれてくる子を鬼の子にはするまいと思ってきた。亜子を生かして自分も生きようと、子供が大人になって鬼が必要なくなるまで見届けようと、決意した。
つい最近、一人で神社にいる神主を訪ねたときに、ついでにそんなことを話した。すると神主は「万が一」と前置いて、告げた。
――人間としてそうすることが不可能になってしまった場合、大助君は鬼になることができます。君も知っているでしょう、人間の魂が鬼と成り、この町に留まるということを。進道家の葵さんは少々特殊なケースですが、君の場合は根代家を守る鬼のように、家憑きになると思われます。
もちろんそれを望むわけではありませんが。そう締められた「行き先」の話を、誰にも言えなかった。言えるわけがない。
鬼の子になり、家を守る鬼が父だと知った子が、心の底から喜んだわけではないということを、よく知っている。その家族が、鬼の見えない人々が、どんなに胸を痛めたかを知っている。
「ウザがられても話してやる。俺が、自分で」
大物になるらしいこの子の成長を、人間の親として、見届け支えていこう。
鬼の子として、鬼追いとしての役割をとうに終えた今、それが大助の役目だ。

神輿行列が終わり、移動する人々で道路が混雑する。人の波はこれから駅前と駅裏商店街の出店へと流れていくのだ。
町の安全を守る警察官に、休む暇はまだ訪れそうにない。
「先輩、わたし渋谷とかのDJポリスみたいなのやってみたかったです」
「ここは渋谷じゃないからねー。ていうか、やっこちゃんにはまだそんな余裕ないでしょ」
「ないですね……」
いつも祭りは遊ぶ側だった。神輿行列を追いかけ、神社の迎え太鼓を聴き、出店へ向かう。今年からはそれができない。大人として礼陣を守るとは、そういうことだ。
「ああ、かき氷……いちごあめ……チョコバナナ……イカ焼き、焼きそば、お好み焼き、加藤パンの蒸しパン、御仁屋の限定饅頭……」
「やっこちゃん、こっちまでお腹空くから、食べたいもののリストアップは頭の中でお願い」
礼陣の一年で一番賑やかな日は、この町で働くおまわりさんにとって、一年で一番忙しい日になる。
「やっこちゃーん、お仕事頑張ってねー」
声をかけられれば笑顔で応えるが、内心はやはり羨ましい。その手に持っている綿飴の、ひとつまみでもいいから分けてほしい。
そんなことを考えていても、鍛えられた目と耳はしっかりと非常事態をとらえる。人混みの中、誰かが走って子供にぶつかった。小さいその子は転んで、周りには気づかない人たちが。
「やば……っ、待ってください、止まってくださーい!」
駆け寄ろうとしたその時、やつこはたしかにその瞬間を見た。
危うく踏まれそうになった子供を、抱き起こしたものがいた。それは人間とはかけ離れた姿をしていて、頭には二本のつのが。しばらく見ていなかったそれは、たしかにこの町にいる鬼だった。周りの人々は気づかない。見えていない。でも子供はふわりと、人の波から少し離れた場所におろされた。
もう、そんな光景は見られないと思っていた。鬼の子ではなくなった自分には、もう一生、神主と呼ばれる大鬼以外の鬼を見ることはないだろうと。
でも、力は残っていたのだ。ほんの少しだけ、その奇跡を見ることができる分だけは。
「……大丈夫だった?」
不思議そうにしている子供に近づき、目線を合わせて尋ねた。子供はこくりと頷き、もう一度首を傾げてから、また人の中へ戻っていった。これから駅裏商店街のほうへ向かうのだろう。
「礼陣は、変わってないね……」
鬼は子供を助け、守る。それがこの町の「常識」。
今日は夏祭り。鬼たちが主役の日。だからその「常識」が、大人になったやつこにも見えたのかもしれない。
「わたしも頑張らなくちゃね。鬼のみんなと一緒に」
なんだか励まされたような気がして、やつこは仕事に戻っていった。



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posted by 外都ユウマ at 14:08| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月14日

水無月家の怪談

仏壇に置いておいた桃が、忽然と消えていた。
詩緒も和孝も店に出て仕事をしていて、家には誰もいなかった。息子の和人は海外にいる。誰かが勝手に食べるということはないし、桃がどこかに転がり落ちているということもない。
これが初めてではない。ちょうど和人が大学を卒業し独立した頃から、こんな現象が頻繁に起こっている。そしていつも通りなら、まもなくしてテーブルの上にメモが置かれていることだろう。詩緒にも和人にも似た字で、「ごちそうさまでした」と。
よそなら、まず不法侵入を疑い、それで説明がつかなければ幽霊や妖怪の類が起こす怪現象だ。しかしこの町、礼陣では、たった一言で説明できる「常識」がある。この町で生まれ育った詩緒も、それはよく知っていた。
水無月家に起こるこの怪現象の正体は、鬼。それもおそらくは、詩緒がよく知っていなければならないはずの鬼なのだ。

一番最初の異変は、息子が海外へと旅立った年の春に起こった。
名前の上では呉服店、その実態は扱う品を先代が大幅に増やし大改造を行なった、衣料品店。それが現在の水無月呉服店であり、学生服が大量に必要になる冬の終わりから春にかけてはとても忙しくなる。加えて通常の着物や反物、小物といったものも出るので、目がまわる。
そういうわけで、礼陣を囲む山々を彩る桜をのんびりと楽しむことは難しい。もうすっかり慣れてしまったが、それらは店先から目の端に映すのみだった。それでも祭り好きな礼陣の人間の血が、花見ができるものならしたい、と体をうずうずさせるのだ。
その年も、そんな気持ちを我慢しながら、いつもの通りに仕事をしていた。学生服のシーズンはようやく落ち着き、今度は花見会の着物の相談や購入、それから早めの成人式の振袖などの案内が始まる。何を買うということはなくとも、常連客の相手も大事な仕事だ。水無月の家に嫁に入ってから、いや、ここで働くようになったのはそれ以前からだから、もう随分と長くこの流れの中にいる。
息子が完全に手を離れてしまって、「しなければならないこと」が一つ減った。するとできた隙間をどう活用したらいいのか、ふとわからなくなることがあった。今まで通りに店を切り盛りしていればいいのだろうけれど、本当にそれだけでいいのだろうか。
詩緒の人生は、町の名門女子校である北市女学院を出て、水無月呉服店に勤め、結婚して出産して、子育てをしながら働き続けるという、それだけなのだろうか。それに不満はないけれど、どこか不足を感じるようにはなっていた。
お茶会にでも出てみようか、いや、そんな時間がどこにある。そんなことを考えていた折に、「異変」が訪れた。
仕事の合間に食事の仕込みをしなければならないので、母屋に戻ったときだった。テーブルの上に、妙なものがあったのだ。
桜の枝。それも満開の花が眩しいほどにわんさとついたものが、背の高いコップに生けてあった。
家に人間はいない。誰かが勝手に入ったにしても、こんなことをする意味がない。念のため貴重品を確認したが、他のどこにも手をつけられていないようだった。
ただ、桜の枝は、折られたのではなく切り口がすっぱりときれいなそれは、たしかに人の手によって用意されたものだ。詩緒は首を傾げて、ちょん、と花をつついた。薄緋色の花弁が、笑うように揺れた。
このような不可思議な現象を、この町では「鬼」の仕業だとして納得することがある。普通の人間には見えないが、たしかに存在して、この町に住んでいるのだという鬼。町を守ってくれているのだという、神様。詩緒も幼い頃から、鬼にまつわる話をよく聞かされたものだ。
でも、こんなにはっきりとしたかたちで存在を主張してくる鬼なんて、いるのだろうか。鬼はこっそりと人間を助けてくれるものだと、だから過剰な願い事はしてはいけないと、詩緒は母から教わってきた。いくら花見がしたいと思ったところで、こんな立派な桜の枝を持ってきてくれるなんて、そんな話は今までにない。
「ねえ、和孝さん。居間に桜があったんだけど。枝ごと」
「なんだい、それは。僕ではないよ。パートの誰かじゃないのかい」
「それなら私かあなたに一言かけるでしょう。ちょっと見てきてごらんなさいよ、すごく立派な桜なんだから」
桜の枝を見に行き、それからまた店に戻ってきた和孝は、首を傾げながら「山の桜だと思うけど」と言った。
「鬼の仕業……にしては大胆だね」
やはりそう思うのだ。同じく礼陣の、それも歴史ある店の子として育ったこの人でも。
さらに不思議なことには、その桜の花は普通よりも長く咲き、五月の連休を迎える頃にようやくはらりと散ったのだった。

夏になり、水無月呉服店にも取引先やお得意様から御中元が次々に届くようになった。いくつかは仏壇にあげてから、いただいたりおすそ分けをしたりすることになる。夫婦二人では、特に食べ物や飲み物は、なかなか消費できない。和人がいれば友達に配ってくれたのだろうけれど、帰ってくるのはもう少し先だ。夏祭りの頃には帰って来るらしいが、それは八月の、お盆も過ぎた頃のことなのだ。
届いた桃を仏壇にあげて、詩緒と和孝はそっと手を合わせる。この店を守ってきた先祖たちと、産まれてすぐに亡くなってしまった娘のための仏壇だ。娘は和人とは双子だった。
この桃も、娘が生きていれば食べただろうか。仏壇に何かを供えるたびに、詩緒は娘のことを思う。忘れたことなんかない。
桃は仕事が終わったら冷蔵庫に入れて、明日の朝にでも食べようか。そんなことを思って店に出て、昼頃に一旦母屋に戻ったときに、何気なく仏間を覗いて目を瞠った。供えていたはずの桃がない。転がり落ちたかと思ってあたりを探してみたが、どこにも見当たらない。忽然と消えてしまったのだった。
食べ物が消えれば、それは鬼が持って行ったのだ。それが礼陣の「常識」である。けれども仏壇のものを勝手に持って行くなんてことは、これまでの水無月家では起こったことがなかった。
「和孝さん、仏壇の桃がないんだけど」
「またか」
「また?」
「昨夜に僕が供えたゼリーも、今朝になったらなくなっていた。まあ、これは鬼だろう」
「でも仏壇のものを持っていくなんて、今年が初めてよ」
「じゃあ今年からそうすることにしたんだ、きっと」
鬼が関わっていると判断したことに対しては、和孝は暢気だ。礼陣の人間を極めた人で、詩緒もそんな和孝が好きなのだが、今年から、というのがどうにも引っかかる。しかも桜の枝といい、仏壇のお供え物といい、大掛かりで、神に言うのもなんだが、不遜なのだ。
そんなことを考えていたら、仕事が終わってから家に戻ると、もっと奇妙なことが起こっていた。誰もいなかった室内のテーブルに、電話の横に置いてあるメモ用紙が一枚、置いてあった。近付いてみると、そこにはっきりと文字が書かれているのがわかる。
『ゼリーと桃、ごちそうさまでした』
その筆跡は、どこか和人のものに似ていて、でもそれよりも少し丸みを帯びているようだった。
いくら怪奇現象をおおらかに受け止める礼陣の町でも、今までになかったことが発生するというのは少々気味が悪い。遠くにいる和人に何かあったのではと、気になってメッセージを送ったほどだ。どうやら何事もないらしいが、息子もこの事態を不思議がっていた。

気になる名前を耳にしたのは、夏祭りの近づいた八月。夏休み中ということで、真昼間でも商店街や神社に入り浸る子供たちの姿が当たり前になる。水無月呉服店には、夏祭りに着る法被や浴衣を見に来る親子連れや中高生が出入りするようになっていた。
「こんにちは」
「あら、雛舞さん。いらっしゃいませ。今日はお仕事はお休み?」
「はい。せっかくだからこの子の法被と浴衣をと思いまして」
店を訪れた雛舞という客は、その年の春から姪を引き取っていた。噂があっという間に広まる町なので、詩緒も彼女らのことはよく知っている。姪の沙良は、丁寧に頭を下げて「こんにちは」と言った。礼儀正しく、忙しい伯母をよく手伝う良い子だと、商店街ではすでに評判の娘だ。
「こんにちは。沙良ちゃんはどんな浴衣がいいかしら。小学四年生でしたっけ。でも、ちょっと大人っぽい柄も似合いそうね」
「あ、ええと……」
沙良は視線を横に泳がせ、それからそこにかすかに頷くと、浴衣のコーナーを指さした。
「そこに、桔梗の柄の浴衣があるから、それが似合うんじゃないかって……」
見えない誰かと行動を共にしているような、行動と口調。礼陣にいる子供の一部には、ときどきこんな傾向がある。大抵それは「鬼の子」と呼ばれる、片親あるいは両親を亡くした子供に見られるものだ。そういう子供には、鬼が親代わりになるという言い伝えがあり、実際その子供たちには鬼が見えるらしい。
詩緒は鬼を見たことがない。けれども、このような子供はこの町では珍しくないので、これもまた普通だった。
「桔梗のね。これかしら」
「あ、はい。それだって、美和さんが」
「美和?」
その名前を、知っていた。詩緒が忘れるはずがなかった。珍しくもない名前だが、特別思い入れのある名前なのだ。――亡くした子供につけるはずだった、名前。
「美和、って? 沙良ちゃんの知り合い?」
「鬼です。ええと、わたし、このお店にいる鬼が見えてて……その鬼が、美和さんっていうんです。そう名乗ってました」
店にいる? 美和と名乗る鬼が、ここに? 本来、鬼には名前がないものだそうだが、その鬼には名前があるのか。亡くした娘と同じ名が。
「今、子供たちのあいだで有名みたいですよ。子供の疑問と願いをきいてくれる美和鬼様。神社とこの店によく現れるって、他の鬼の子も言ってるそうです。知りませんでした?」
雛舞の言葉に、かろうじて「初耳だわ」と頷く。ちらりと和孝に視線をやると、彼も目を丸くしていた。
「名前がある鬼なんて、珍しいわね」
「美和さんは、名前が大切なんだそうです。人から貰ったものだから」
外から聞こえてくる、子供たちの声を意識した。名前が会話の中に混じっている。――美和鬼様、宿題の答え教えてくれないかな。いや、勉強は自分でやれっていうんじゃないの。
「……おばさんのね、娘の名前も、美和っていうの。随分昔に亡くなったんだけれど」
気づけば、口をついていた。沙良は浴衣を見ていた目を詩緒に向け、こくりと頷いた。
「だから美和さん、ここにいるんですね」

店の小物の並びが崩れたと思ったら、次の瞬間には直っている。反物を出そうと思って忘れてしまっていたら、いつのまにかきちんと用意されている。気をつけてみれば、店の中でも不思議な現象はたくさん起きていた。それも、今年の春を境にして。
店じまいをした後、詩緒は和孝にことわりを入れて、礼陣神社に赴いた。ここには鬼が祀られていて、何年経っても姿の変わらない神主が常駐している。神主こそが大鬼だと、昔からそういわれている。
詩緒は社務所の戸を叩き、出てきた青年――詩緒が子供の頃から青年だった――に頭を下げた。
「神主さん、遅くにすみません。どうしてもお尋ねしたいことがありまして」
「ええ、中へどうぞ。……詩緒さんか和孝さんか、どちらかいらっしゃるのを、待ってたんです」
全てお見通しであるかのように、神主は笑った。詩緒が多くを語らなくても、この人は、いや、大鬼様は、この町で起こっていることを知っているのだろう。
冷たい緑茶を供され、詩緒は神主と向かい合った。何から話そうか迷って、一番手っ取り早そうなものを選ぶ。
「美和鬼様って、何なんですか」
神主は笑みを浮かべて答える。
「今、子供たちに大人気の鬼です。鬼の子を通じて、勉強や遊びのことを尋ねたり、願い事を言ったりする子が多いですね」
「それはお客様から聞きました。そうじゃなく、私が聞きたいのは、その……美和鬼様が、うちの美和なんじゃないかって、いうことなんですけれど」
そこまで口にすると、あとは堰を切ったようにこれまでのできごとが言葉になって溢れた。知らぬ間に桜の枝が生けてあったこと。店の棚がいつのまにか整えられていること。気がつくと仕事が進んでいること。仏壇に供えたものが消えて、代わりにメモが残されていたこと。
それらを、神主は黙して、頷きながら聞いていた。微笑みを保ちながら。
「美和鬼様は、よくうちにいるそうです。鬼の子の接客もしてるみたいで。……それって、私が思い描いていた、もしもうちの子が、美和が生きていたらこうだったんじゃないか、って姿に重なるんです。それに、思い出したんです。和人はよく、私たちには見えないものに話しかけていました。美和、と呼びかけていました。あれは私から双子だった話を聞いて始めたごっこ遊びじゃなく、もしかして本当に美和がいたんじゃないでしょうか」
もしもそうだとしたら、自分はずっと娘に気がつかなかったことになる。そこにいたのに、もういなくなってしまったものとして扱っていたことになる。
膝の上で拳を強く握った詩緒に、神主は柔らかく微笑んでいた。
「鬼は、礼陣を守るものです」
穏やかに語りだす言葉が、焦り走った詩緒の心を、ゆっくり宥め始める。
「水無月呉服店と、店を営む貴方たちも、礼陣の一部です。それを気にかけるのは、鬼として当然のこと。本来はもっと静かに人間を見守るものですが、美和という鬼は人間が大好きで、手を出さずにいられないんでしょう」
一瞬だけ、神主が苦笑したように見えた。でも、本当にそうだったかどうかわからないほど、すぐに表情を元に戻す。
「詩緒さんと和孝さんは、和人君が旅立ってから寂しそうでした。大学に進学した時は休みになれば帰省するという確信もあったし、国内にいましたから、会おうと思えばすぐに会えます。けれども今はそうではない。それはさぞ心配でしょう。……美和鬼様と呼ばれる鬼は、それが気がかりだったのかもしれませんよ」
鬼として普通のことだ、と神主は言いたいのだろう。たぶん、美和鬼様と美和を同じに考え、今まで気づかなかったと自分を責める詩緒に、そうではないと告げているのだ。
詩緒は頷き、それから今度は深く頭を下げた。
「気にかけてくれてありがとうございますと、美和鬼様にお伝えください」
「私が伝えるまでもなく、ちゃんと聞いてますよ。なにしろ鬼です」
「……そうですね」
鬼は礼陣の守り神。主に子供たちを守るというが、神にとって人間など、子供のようなものなのかもしれない。詩緒たちもまた、鬼に守られていたのだ。
そう納得して、詩緒は神社をあとにした。
見送る神主は、傍らに佇む女性の姿をした鬼に、溜息交じりに言う。
「美和さん、あまり水無月家に干渉しすぎるとこうなるんですよ。和人君がいなくなって、自分は鬼に成ったからといって、張り切りすぎましたね。あと、お供え物をもらうのはどうかと」
『だってお父さん、美和はゼリー好きかな、って置くんだもの。お母さんもそうやって桃を置いたから、食べて良いのかと思って』
「鬼であることをわきまえなさい」
『鬼だけど、私は水無月の娘ですから。和人の代わりに店を守るって決めたし、これからもお父さんとお母さんを困らせない程度に接触は続けます』
「しかたのない人ですね……」
娘が鬼になったことを、詩緒たちは知らなくていい。ただ、美和という娘がいたことを、憶えていてくれるだけで十分だ。
あとは美和が、両親にしてあげたいことをするだけ。迷惑じゃなければ、いくらでも。今までできなかった分を足して、めいっぱい。

水無月家にはいつも怪奇現象が起こっている。仏壇のお供え物は消えるし、テーブルにメモが置かれる。店の品物は手を触れなくてもきちんと並べられている。けれども主はそれを微笑ましく思って、放っておいている。
いや、ときどき呟く。言いたくても言えなかった言葉を、ぽつりと。
「まったく、美和はしょうがないわね。お手伝いしてくれるから、特別よ?」
歌うような詩緒の声に、美和は見えないながらも、幸せそうに笑っている。



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2016年08月07日

安居酒屋に屯する・5

夏の夕方、商店街は家へ帰る人々や買い物客で賑わっている。日が長いので、神社で遊んでいた子供たちも、ようやく帰る気配を見せ始めたところだ。
一方で大人の時間はこれからで、居酒屋が店を開け始める。それを狙って、四人の若い女性がやってきた。
背の低いロングヘアは須藤春。肩までのふわふわの癖毛は園邑千花。二人はこの町の女子大に通う四年生だ。同じ芸術学部だが、専攻はそれぞれ工芸と音楽で、まるで方向性が違う。伸びた髪を頭の後ろにまとめているのは加藤詩絵、普段はよその大学の学生だ。ベリーショートで一番背が高いのは笹木ひかり、こちらは唯一の社会人で、この町で働いている。
学生組は夏休み、ひかりは仕事終わり。詩絵が帰省しなければ揃うことはないので、このメンバーで集まるのは久しぶりだった。
春が予約を確認しているあいだに、千花と詩絵が仕事終わりのひかりを労う。疲れたよー、とは言いつつ、笑顔を絶やさないひかりの生活は、本人曰く充実している。
通された席で、それぞれの一杯目を注文して、それからはとめどないお喋りの時間。話題はいくらでもあるが、最近はメッセージアプリのタイムラインでも恋愛の話が多い。
「千花と海先輩、うまくいって良かったよねー。そもそも拗れてることすら、アタシと笹は知らなかったけどさ」
「事情が事情だったからね、うまく説明できなくて。拗れてるあいだは春ちゃんにお世話になったよ」
「お酒飲みながら電話するの、ちょっと楽しかったよね」
「あたしもやってみたいなー。詩絵、今度やろう」
「酒飲みながら喋るなら今からやるじゃん」
運ばれてきた酒を配る。春は地元の日本酒を冷で、千花は梅酒をロックで、詩絵はカシスオレンジ、ひかりは生ビール。かんぱーい、とグラスやジョッキを軽くぶつけて、話を進める。そうしているあいだにも手元にはメニュー注文用のタブレットがあって、食べたいものをどんどん入力していく。
「それで千花は、来年から海先輩のところに住むことにしたの?」
とりあえずご飯ものは欲しいよね、に続けて、詩絵が自然に尋ねる。
「まだ決まってないよ。これからお父さんとはじめ先生の話し合いとか、海さんと私で説得するとか、やることはたくさんあるもの。でも進道さんちにお世話になれるなら、たしかに食事の面で困らないんだよね」
サラダもお願い、と付け加えて、千花は苦笑いした。未だに料理が少し苦手なのは、やはり悔しいのだ。
「海にいのところが駄目ならうちはどう、って千花ちゃんにも提案したんだけど、それは断られちゃった。うちは何人いても歓迎するのに」
タブレットを詩絵から受け取った春が、ものすごい勢いでメニューを追加しながら言う。それを見ていたひかりは若干引きつつ、そりゃそうだ、と頷いた。
「だって春のとこ、入江君も来るんでしょ。あ、結婚したら入江君じゃないのか。そこに入っていくのは難しいよね」
「ひかりちゃんもそう思うでしょう。春ちゃんたちの邪魔にはなりたくないの、私も」
春の家に、入江新が婿入りしてくるという話は、もう仲間内に知れ渡っている。そのために春が入江家との関係を築いてきたことも、本当は嫁に行こうが婿をとろうがどうでもよかったということだって。大学を卒業したらすぐに結婚して、新が須藤の家に入るというのは、新の希望だ。
「邪魔にはならないよ。でも、うちに住むのもはじめ先生と暮らすのも、そんなに変わらないか。親戚じゃないけど親戚みたいなものだし、はじめ先生はうちに入り浸ってるし」
「須藤家と進道家の関係もすごいよね。こりゃ、春のほうが海先輩の妹らしいのも仕方ないか」
「そうすると、千花は春の義理のお姉さんみたいな感じになるのかな」
「そうだね。ややこしいけど」
実際、このあたりの関係は複雑だ。千花が恋人として付き合っていた進道海は、千花の実の兄だった。そして海と春は幼馴染で、兄妹のように育ってきた。事情を説明するのが難しかったのは、判明した事実があまりに突飛であったことと、人間関係の入り組みようのせいだ。おかげで全てを詩絵とひかりが知ったのは、本当につい最近、数日前のことだった。
「ま、がんばれ。アタシたちは千花を応援するから」
「ありがとう。私も詩絵ちゃんを応援してるよ」
「そうだよ、私たちのことはいいから、詩絵ちゃんとひかりちゃんの話を聞きたいな」
にやり、と春が笑う。詩絵は怪訝そうに首を傾げたが、ひかりは覚悟を決めたようにビールを一気に飲み干した。だん、と音を立ててジョッキをテーブルに置き、長く息を吐く。
「……今日は、それを聞いてもらうために来たのもあるから。話すつもりではいたんだけど」
タブレットの注文ボタンを押す前に、二杯目のビールを追加する。この後来るであろう大量の料理は、はたして全てテーブルに収まるのだろうか。春の腹にはきれいにおさまるのだろうけれど。
「特に詩絵、ちゃんと聞いてよね。あんたがふった男の話なんだから」
「そういう言い方されるとあんまり聞きたくない」
「だって事実じゃん」
ひかりには今、付き合っている人がいる。この関係になってまだ一年も経っていないけれど、彼のことは昔から知っていた。――相手はかつての同級生、浅井寛也なのだ。
彼が小学生の時からずっと詩絵に想いを寄せていたということを、詩絵は成人式の日に知ったのだった。
当時の彼には、ひかりではない、別の彼女がいたはずなのだが。喧嘩ばかりしていたという彼女が。
「結局その子とだめになったって話を、去年聞いたんだ。この近くにさ、バーあるでしょ。昼間喫茶店やってるとこ。あそこで偶然独り飲み同士が出会って、お互い昔話と近況報告をしたんだよ」
俺じゃやっぱり、だめだったよ。笹木も知ってると思うけど、いつもそうなんだ。せっかく加藤に励ましてもらったのにな。
そう言って浅井は笑っていた。泣きそうな顔で。本当はまだ詩絵が好きなんだろうなと、ひかりは思っていた。中学生の時に、詩絵と仲が良くて男女の別なく接することができる人物として、彼の恋の相談相手に選ばれた。そのときから、こいつは一途だな、という感想を抱いていた。
「それなのに、だよ。あたしが酔っぱらって、過去の恋愛なんか忘れてあたしと付き合っちゃえよ、なんて言ったのを真に受けて、よろしくお願いしますって頭下げるの。……だからね、付き合ってるというか、あたしはきっと詩絵の代わりなんだろうなって思ってる」
「そんなことないよ、笹。だって一年近く付き合ってるんでしょ? 浅井は笹のこと大事にしてるんだよね?」
「優しいよ。気が利くし、あたしが仕事で忙しい時は珍しいお菓子とか買って送ってくれる。連休には出かけたり泊まったりしてる。そういうことを、本当は詩絵としたかったんだろうなって、あたしが勝手に思ってるだけ」
詩絵は悪くないよ、と言いながら、気付かなかった罪はある、ともひかりは言っている。苦い顔をする詩絵に、春がフライドポテトを差し出した。
「気づいてたとしても、詩絵ちゃんにその気がないなら仕方ないじゃない。ひかりちゃん、浅井君にもびしっと言ってあげた方がいいよ」
「ひかりちゃんも卑屈になってない? 詩絵ちゃんのこと意識しすぎてる気がする」
千花の言葉を、ひかりは否定しない。そうだねえ、とガパオライスの皿を引き寄せ、全員に取り分け始めた。最近人気があるというから頼んでみたが、食べるのは初めてだ。
「あたしは詩絵の友達で、同時にライバルだと思ってる。自分と同じくらい運動ができて、成績も昔からどっこいどっこいで、対等に話せる人間。意識はしてるよ。詩絵はそうじゃないかもしれないけど」
「アタシだって、笹には負けたくないっていつも思ってたよ」
「でも詩絵のそれは昔の話でしょ。土俵が違えば意識しなくなるって、詩絵の得意な考え方だったよね」
あたしは今もなんだよ。皿を配り終えて、ビールを思い切り飲むひかりを、詩絵は眉を寄せて見ていた。一触即発? いや、これは大丈夫なパターンだ。
「……と、まあこんな感じに吐き出したわけだけど。浅井とはうまくやってるよ。あんな良い人ふるなんて、詩絵ってば贅沢ー」
「なんだよー、だってアタシのこと女子として見てる男子がいるなんて思わなかったんだよ。中学の時なんか特にそう。今だってよくわかんないし」
口をとがらせた詩絵に、ひかりは声をあげて笑った。嘘だー、と。
「だって気になる人いるんでしょ? 気にされてるの知ってるんでしょ? 春や千花から聞いてるよ、礼大の彼のこと」
じとり、と睨むと、春と千花はにやにや笑っていた。この二人は彼のことをよく知っている。長期の休みには詩絵の実家であるパン屋のバイトに来る、この近所の大学に通う彼。どうも初めて会ったときから詩絵のことが好きらしく、次第にそれを露骨に出すようになってきたので、いいかげん気づかないふりをするわけにいかなくなってきた。
そして多分、互いに大学四年である今年が、区切りになる。
「松木君は今年もバイト来てくれてるんでしょ」
「うん、すっかりうちの婿さんみたいな扱いになってる。違うってのに」
「でも詩絵ちゃん、まんざらでもないんだよね」
「……まあ、最近は、ちょっと」
実家や親戚と折り合いが良くないとかで、長期休みも帰省しない彼には、詩絵がこの町に戻ってきたときに会える。顔を合わせると嬉しそうに「詩絵さん」と声をかけてくる、どこか大人しい大型犬を思わせるようなその人が、詩絵はたぶん好きだ。恋愛だとかそういう以前に、人間としていいなと思う。
「松木君は結構頑張ってるんだけど、告白するまでいかないんだよね。……私二杯目いこうかな。千花ちゃんも何か飲む?」
「あ、じゃあ私は杏子酒ロック。詩絵ちゃんから不意打ちで告白したらどうかなって思うんだけど」
「だから、アタシは気持ちがそこまでかたまってないんだって。それじゃ松木君に失礼でしょ。アタシも二杯目頼んで、ファジーネーブル」
「詩絵、カクテルばっかりだよね。飲めないわけじゃないのに。あたし三杯目、ウーロンハイお願い」
「はいはいっと。私は芋焼酎にしよう。でもまあ、そんなに待たなくても、今年は松木君から何かあるだろうなって思ってるよ。夏祭りの花火のときとか」
「あの時間に成立するカップル多いよね。春ちゃん、鶏の味噌漬け分けて」
彼氏持ち三人に押されて、詩絵はさほど飲んでいないのにダウンしそうな心地だった。今日の飲み会は詩絵弄りの会だったのか。なんて厄介な。
「春、手羽餃子一個寄こしなさいよ。せっかくの女子会なのに、みんなでアタシを攻撃して……」
「ごめんって。詩絵ちゃんとも恋バナしたかったの。一個といわず二個持っていっていいから」
「恋バナで済むならまだいいんだよ、詩絵。みんな働くようになって、結婚とかもしたら、そのうち仕事や家庭の愚痴ばっかりになるんだから。今のうちだけだって」
「今のうちだけ、か。でも私は聞きたいな。恋バナだけじゃなくて、その先も、ずっと」
無事ならば、まだまだ人生は長いはず。ときどきこうやって集まって、話ができるなら、それはきっと幸せなこと。
また一緒にテーブルを、美味しい料理とお酒を囲もう。それぞれの話を持ち寄って。
「詩絵ちゃん、松木君と進展あったらすぐ教えてね」
「まだ言うか。……言うけどさ」
どうやらその日は、まもなくすぐに。



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2016年08月06日

あなたを待ちましょう

目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、気配はいつだってわかる。あまり家にいることのなくなったその人が帰ってくると、私の尻尾はぱたぱたと反応するのだ。
「オオカミ、流ちゃんが帰ってきたわよ。和人ちゃんも一緒みたいね」
トラ殿が教えてくれる。私の感覚もまだまだ大丈夫だ。ゆっくりと立ち上がって、こちらへ向かってくるにおいを確かめた。
「オオカミ、ただいま」
おかえりなさい、流殿。お待ちしておりました。

私はオオカミという名の犬だ。もう随分と昔にこの野下の家にやってきて、生活を共にしている。
そのあいだに、私を助けてくれた流殿は、小学生から中学生、高校生、大学生となり、それも終わればこの家を出ていった。でも、こうしてときどき帰ってきてくれる。私に元気な姿を見せてくれる。
とはいえ、私の目はもうほとんど見えなくなってしまっているのだが。同じくこの家に住む猫のトラ殿によると、私たちは随分と年をとってしまったようだ。
そして私のほうが、トラ殿よりも早く、体が弱ってきていた。
「もうオオカミも、すっかりおじいさん犬だもんね。トラも結構おばあちゃんだけど、まだ元気だね」
流殿の親友、和人殿が体を撫でてくれる。トラ殿が「ええ、おかげさまで」とすまして返事をするのが聞こえた。近くにいるはずなのに、声はどれも遠い。
「ごめんな、オオカミ。もっと早く帰って来ればよかったよな。こんなになるまで、待たせちゃったな」
寂しくなかったとは言わないが、待つのは苦ではなかった。必ず来てくれるとわかっていたから、私は流殿に会えるのをいつも楽しみにしていた。だからときどきの注射も、食事と一緒に与えられる薬も、受け入れてきた。そうすれば、また流殿に会えると、会える時間が長くなると、流殿の妹である桜殿が何度も言い聞かせてくれたのだった。
たぶん、今年が最後の夏になる。私を診てくれている人間は――医者という人だ――そう言っていた。桜殿はそれを流殿に伝えたようだ。
「桜、オオカミは散歩は……」
「もう足が弱っちゃって、家の周りをゆっくり歩くのでせいいっぱい。ここのところ急に体調を崩しちゃってね」
「そっか。天気、不安定だったらしいしな」
昔はずっと向こう、地区を越えて河川敷のほうまで走っていけた。流殿とならどこまでも行ける、そんなふうに思っていた。日が照っていても、小雨が降っていても、流殿と歩けるなら平気だった。でももう、それもできない。体がいうことをきかない。それは至極残念なことだ。
私は力を振り絞り、流殿に体を摺り寄せた。散歩に行きたいときにそうするように、前足で流殿を叩こうとした。よろよろとした動きでも、流殿にはちゃんと意味が通じたようで、目を見開いてから早口で言った。
「桜、リード持ってきてくれ。オオカミが散歩に行きたがってる」
「ええ、そんな体で? ……疲れたら帰ってくるのよ。お兄ちゃん、オオカミを抱っこできるよね」
「任せろ。行こうか、オオカミ」
「僕も行くよ。桜ちゃん、ちょっとのあいだ、荷物を置かせてね。お土産は開けちゃっていいから」
おや、和人殿も一緒か。それは嬉しい。まるで昔に戻ったみたいだ。

私がまだ元気に走り回れた頃、流殿は私を朝と晩の二回、散歩に連れて行ってくれた。それにはよく和人殿や桜殿が一緒に来てくれて、私は賑やかなお喋りを聞きながら楽しい時間を過ごしたものだった。
あんまり楽しくて走りすぎると、流殿も笑いながら走った。和人殿も、桜殿も、みんなで駆けた。そうして決まってこう言うのだ。「オオカミのおかげでいい運動になったね」と。
もう、その言葉は聞けない。流殿がいないあいだは桜殿が散歩に連れて行ってくれたが、最近では優しくも寂しそうな声で言うのだ。
「もう昔みたいには走れないよね」
同じ台詞を、今日は和人殿が口にした。
「ゆっくりでいいだろ。俺たちも年だし」
「それもそうか」
私よりはずいぶんゆっくりだが、流殿も大きくなられた。成長なされる流殿に、私は日々、いたく感激したものだった。それを流殿は知っているだろうか。
いつからか、流殿は私の恩人から、弟のようなものになっていたのだと、きっと犬の言葉で言っても通じないのだろう。たった一言でも人間の言葉を話すことが許されるなら、私は流殿に、「私はあなたが大切です」と伝えたい。とてもとても、大切に思ってきたのだと。
……ああ、足が追いつかない。すぐに疲れてしまう。立ち止まった私を、体の大きな流殿は、ひょいと持ち上げた。
「でっかいなあ。子犬の頃は、もっと簡単に抱えられたのに」
「ダンボール箱から抱きかかえて、獣医さんに連れて行って、それで流の家で引き取ったんだったよね。あれからもう十年以上経ってるんだから、早いね」
ええ、本当に、矢のように過ぎていきました。全てが懐かしい。この思い出を持っていけるなら、私は幸せだ。この世で一番幸せな犬だったと、自負できる。
流殿。流殿の体は、温かいですね。前は私のほうが――。

大きく強くなるように、オオカミ。そんな名を与えてくれた流殿に、感謝している。
こまごまと世話をやいてくれた桜殿、頻繁に会いに来て優しくなでてくれた和人殿にも。
私を野下家の犬にしてくれて、ありがとうございました。
私を幸せにしてくれて、こんな生き方をさせてくれて、ありがとうございました。


「おやすみ、オオカミ」
最後の散歩から数日。夏祭りが終わった次の日に、オオカミは眠るように息を引き取った。
苦しんだ様子がなかったから良かったと、桜は泣きながら言う。それが言えるのは、オオカミの様子を、これまで離れることなく見てきたからだ。
海外へ行くために、オオカミを置いていった。そのことを、今ほど悔やんだことはない。せめてもっと帰ってきて、オオカミの世話をするべきだった。
「……流、後悔はしちゃだめだよ。流が選んだんだから。オオカミはきっと、流が後悔することを望まないよ」
こちらの考えを見抜いて、和人が言う。自分も目を潤ませながら。本当は和人だって、もっと会いに来ればよかったと思っているんだろう。
捨てられていた子犬だったオオカミ。野下家で飼うことになり、どんどん元気になっていったオオカミ。成犬になり、河川敷を駆けまわり、町の子供たちにも親しまれていたオオカミ。その姿を見て、いつだったか、和人は「流とオオカミはそっくりだね」と言っていた。
オオカミのほうがずっと立派だよ、と思う。つらいことや痛いことに耐えて、帰ってきた俺たちをきちんと出迎えて。それがどんなに楽しみで、ありがたいことだったか。
オオカミのおかげで、俺がどれだけ成長できたか。先に大人になったオオカミは、きっと俺のことを、途中から仕方のない子供みたいに思っていたんだろうな。だって、あんなに優しい目をして、俺を見ていたんだから。
「ありがとうな、オオカミ。俺が帰ってくるまで、待っててくれて」
最後の夏だった。オオカミにとっても、俺にとっても。俺はもう、この町に「帰ってくる」ことはない。これからずっと、ここにいるつもりだから。それはオオカミのせいじゃなく、そうせざるを得ない理由が、俺たちの周りに次々に起こってしまったからなのだけれど。
でもその決断がもう少し遅かったら、きっとオオカミを看取ることができなかった。
「ペットの火葬、予約した……。お兄ちゃん、オオカミを連れて行こう」
「サンキュ、桜。和人も来てくれるか?」
「もちろん行くよ」
なあ、オオカミ。お前はよく俺を勇気づけてくれたよな。前に進もうと決めたとき、いつも傍に来て顔を舐めてくれたよな。
じいちゃんと一緒に時代劇を見て、父さんと一緒に新聞を読んで、まるで人間みたいに振る舞ってたこともあったな。
そんなとき、お前は何を考えていたんだろうか。少しでもわかったら良かったんだけど。
俺には犬であるお前の言葉はわからない。でも、ときどき俺の言ったことに、返事をしてたよな。あれは、返事だったよな。
結構思い出、あるなあ。十三年、よく生きたな。よく、生きてくれたな。
トラがオオカミの傍に来て、にゃあ、と一度だけ鳴いた。そのたった一度でどうしようもなく泣けてきてしまった俺を、桜と和人が支えてくれた。


めったに泣かない人なのに。流殿、泣かないでくだされ。私はいつでも、流殿のお傍におります故。
「馬鹿ね、アンタ。流ちゃんは意外と泣き虫よ。今は泣かせてやりなさいよ。人間って、泣くとすっきりするらしいわよ」
そういうものか。さすがトラ殿、私の先輩だけあって、ものをよく知っておられる。
それでは今しばらく、流殿に寄り添って、涙がおさまるのを待とうか。
大丈夫、待つのは慣れているゆえに。そして私は、それが苦ではないのだ。



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posted by 外都ユウマ at 13:37| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする