2018年04月29日

商店街西、坂の上、縁結びアパート。(1)

 なんでもいい、なにものにでも縋りたい、そういう気分だった。
 第一志望の大学に落ち、第二志望もほぼ絶望的。わたしを掬ってくれたのは、念のために受けていた、進路相談担当の先生が薦めてくれた一校だけ。そんな状況で仕方なく、そこへ通うための準備を進めていた。実家からは遠い、田舎の町に学校はある。入学手続きと同時に、家探しをしなければならなかった。
 その町の不動産会社に問い合わせ、これでいいか、とあまり考えずに家賃の安いワンルームについてメールで尋ねてみたら、すぐに返事があった。

 宝泉茉莉花様
 このたびは物件についてお問合せをいただき、ありがとうございます。
 お問い合わせいただいた「コーポラス社台」には、現在二部屋の空きがございます。詳細を添付いたしましたので、参考にご覧ください。
 また、この物件にはおまけがございます。「コーポラス社台」は神社に近い立地でありまして、縁結びのご利益があるともっぱらの評判です。ぜひとも入居をご検討いただければと思います。
 常田不動産 担当:常田

 縁結びのご利益。その部分を繰り返し読んで、わたしはそろそろと添付されていた資料を開いた。


 思わず呻きが漏れる。地図の見方はこれで正しかったのだろうか。すでに駅を出て十五分が経過した。しかし「駅から徒歩十五分」のはずの目的地は、まだ見えない。
 地元から、列車を乗り継いで、降り立った駅。駅名の「礼陣」は、この町の名前でもある。春休みの駅前は子供からお年寄りまでいろいろな人がいて賑やかだ。駅前は全国展開の大きな店や、立派なビルが並んでいる。思っていたよりも「田舎」ではなさそうだ。
 けれども、私が向かったのは駅の裏。そこに東西に伸びる商店街があることは、不動産会社からのメールと、自分でも調べてわかっている。でも、問題はその先だった。地図上では整然としている商店街は、実際は細い道があちこちにあって、たぶんどこに行ったらどんなところに着くのかは、この町に住んでいる人にしかわからない。
 キャリーバッグをカラカラと引いて、ずっと同じ場所を行ったり来たりしているわたしをみかねたのか、とうとう親切な人が声をかけてくれた。
「礼陣大学方面? 社台のアパート? それなら加藤パン店の脇の坂道を上って行ったらすぐだよ」
「それは聞いて知ってるんです。でも、そのパン屋さんが見つからなくて」
「商店街の西のほうだし、少し歩くからね。この道をまっすぐ行って――」
 丁寧な道案内のおかげで、目印はやっと見つかった。「加藤パン店」の看板と、店から流れてきて鼻腔をくすぐる香ばしい匂い。わたしはホッとすると同時に、ごくりと唾を呑み込んだ。
「ちょっとだけなら……。あ、でも、約束の時間とっくに過ぎてるし。早くしないと運送屋さんも来ちゃうから、先に行かないとだめだ」
 独り言をこぼしながら、誘惑を振り切る。把手をぎゅっと握りなおしたキャリーバッグを引いて、パン屋の脇からのびる坂道――これはすぐにわかった、まさに真横だったのだ――を歩く。
 パン屋以外にも食べ物の匂いは、商店街に入ってからずっとまとわりついてきていて、それもわたしの足を止めさせる原因になっていた。店を覗こうかどうか迷って、ふらふらして道を見失うのだ。
 空腹を感じると、道のりは余計に長く感じる。目印が見つかっただけで、ゴールはまだ先だ。
「やっぱり不動産屋さんまで行けばよかったかな。現地のほうが近いっていうから、つい行けますって言っちゃったけど」
 こんなことなら意地を張らずにタクシーでも拾えばよかったな。印刷して持って来た地図をもう一度見て、坂をまた上る。間違っていなければ、この先は住宅地になっている。そして目指す建物にも、大きな目印があるはずだった。
 さほど急な坂ではなかったけれど、列車を乗り継いで遠くから来て、さらにここまでさまよった足にはこたえる。早く到着して休みたい。大きく一つ息を吐き、もう一歩大きく踏み出して、わたしは目印を探すために顔をぐっと上げた。
 はたしてそこには、大小さまざまな住宅が軒を連ねていた。どこを見ても縦や横に長い建物があって、そこには窓やドアがたくさん、規則正しく並んでいる。これらはみんな、マンションやアパート、下宿なのだ。そして奥にある最も大きな建造物は、外観からしてこれから通うことになる礼陣大学。サイトで何度も確認したとおりだった。
「ああ、ここが」
 ようやく少し、実感が湧いてくる。ここがわたしがこれから住む町なんだ。少し緩んだ口の中で小さく呟いた途端、そこに突然現れたかのように目に入ったアパートがあった。
 壁には単純明快な書体で大きく「コーポラス社台」と書かれている。これが探していた目印だ。わたしはキャリーバッグの把手を収納し、両腕に抱え込んで走った。限界に近かったはずの足は、そこまでちゃんと動いてくれた。
 ここが目指していた場所。やっと着いた。不思議な感動ににやけた表情を、建物の二階通路から、おそらくわたしを待っていたであろう人にばっちり見られた。彼は喜ぶでもなく、安心するでもなく、ただ真面目そうな表情でこちらへ声を投げかけた。
「宝泉さんですか。お待ちしていました」
 低すぎない穏やかな声と、すっきりとした顔立ちは、ちょっとばかりわたしの好みのタイプだった。
「さすが『縁結びアパート』……」
 さっそく素敵な男性に出会えるなんて。期待に膨らむ胸を抱えたバッグで強く押さえ、わたしはアパートの階段へ向かった。

 築二十年、耐震性能に問題なし。部屋は一階と二階に七部屋ずつ、計十四部屋ある。部屋番号に「四」がないので、階段から一番遠いわたしの部屋は二〇八号室。二階の部屋の前の通路には高い金属製の柵があり、ピカピカに磨き上げられている。
 ほんの少し身を乗りだすようにして、そこから見た景色は、各々違う形をしたアパートや下宿と、その向こうのところどころピンク色の混じる山だ。事前の内見をしなかったわたしのために、不動産会社の人が送ってくれたメールや添付してあった画像と、今のところは情報が違わない。
「こんにちは、宝泉さん。本日こちらのお部屋を担当いたします、常田と申します」
 深緑色をしたジャンパーを着た真面目そうな男性が「よろしくお願いします」と名刺を差し出す。わたしは「こちらこそ」と頭を下げてから、慌ててバッグを置いて名刺を受け取った。
 常田、という名前は、もうすでにわたしにとって馴染みあるものになっていた。この物件について確認するたびに何度もメールを返してくれた、担当者の名前。この人があの丁寧で、ちょっとお茶目なメールを送ってくれていたのかと思うと、ドキドキする。間近で見ると、想像以上に整った顔をしている。
 改めて名刺を見ようとしたけれど、その前にカチャリと部屋の鍵が開けられた。どうぞ、と常田さんに促されて、わたしは名刺をポケットにしまい、バッグを再び抱えて、部屋に足を踏み入れた。
 六畳のワンルームと聞いていたが、まだ家電を含めて荷物が何も入っていない部屋は、もっと広く見える。小さなクローゼットがありますとメールに書いてあったが、中にあとで届くはずの四段収納ボックスを入れられるだけの大きさだ。洗濯機と冷蔵庫、テレビとテーブルを入れれば多少は狭くなるだろうけど、初めての独り暮らしには十分なのではないだろうか。一口コンロが備えてあるささやかな台所も、電子レンジと炊飯器さえあれば自炊には事足りそう。
 部屋を床から天井まで見回して満足していると、背後から常田さんが声をかける。
「宝泉さん、鍵をお渡しします。それから何点か説明を。電気とガス、それから水道の業者もまもなく来ることになっていますので」
「あ、はい。お願いします」
 常田さんから鍵を受け取るとき、手が触れた。冷えていたのは、きっとわたしが大遅刻してきたせいだ。ずっと部屋の前で、わたしが来るのを待っていてくれたに違いない。そういえば、まだそのことを謝っていなかった。
「ではお部屋のご説明をさせていただきます。宝泉さんは内見にいらしていないということでしたので」
 わたしが口を開く前に、常田さんは至極真面目な調子で切り出した。こちらも思わず背筋が伸びる。
 わくわくするような新しい部屋の匂いの中、常田さんは部屋の設備の説明をする。玄関には靴箱、部屋は照明つき、ブレーカーはあそこに、エアコンの操作はこのリモコンで。設備は事前にメールを送ってもらったとおりだったので、すぐに頭に入った。
 でも、なぜだろう。わたしは先ほどから、常田さんに違和感を持っていた。メールの文面と本人の口調が、あまりにも違いすぎるせいだと気づいたのは、部屋の契約内容について話が及んだ頃だった。
 わたしが内見に行けない代わりに、と部屋の様子を説明してくれたメールは、読んでいて面白かった。何度もやりとりをしているうちに、感嘆符や星マーク、顔文字がしつこくない程度にあしらわれるようになって、引っ越し前日のメールなどは、まるで何年も知り合いだったかのように思えるほどだった。
 常田さんの説明は、丁寧で、淀みがない。ただ、仕事中であるということを差し引いても、あまりにも事務的で淡々としている。必要なことだけを箇条書きに並べてあるものを、読み上げているような印象だ。
 単純に風呂とトイレが別だということを説明するだけでも気の利いた一言が添えられて、部屋への興味をかきたててくれたメールとは、まるで別人のようだった。メールではおまけまで書いてくれていて、最終的にはそれが新生活への決定打となったほどなのに。
 しかし、メールのフッターにはたしかに担当者の名前が「常田」とあった。たしかにそういう記憶がある。
 それから、彼の顔立ちがすっきりしてはいるけれど、ちっとも笑わないことも気になった。わたしは説明を続けていた常田さんの横顔をじっと見ていたのだけれど、一度だって微笑んだりしなかった。
 やがて視線に気づいたのか、常田さんはわたしをちらりと見て、言葉を切った。
「何か分かりにくいことでもありましたか」
「いいえ。ただ、常田さんの印象がメールとは違うなと思って」
 正直に言ってしまってから、失礼だったかな、と思う。けれどもギャップがあるなら、それはそれで魅力的です。好みの顔に真面目な性格。そんな人と関わりを持てるのなら、この先の生活も期待大です。そう続けてしまいそうになって、慌てて口を閉じた。
 ところが常田さんは怪訝な表情で「メール?」と呟いてから、ふっとそれまでの無表情に戻って、説明を続けるように平坦な声で言った。
「宝泉さんとメールでやりとりをしていたのは、弊社の社長です。私ではありません」
「社長さん、ですか?」
「ええ。こちらの物件は弊社が直接管理しているもので、入居者がより住みよいように特に手をかけているんです。社長が」
 先ほど受け取った名刺をポケットから取り出し、今度こそじっくり眺めた。もちろん、目の前の彼に社長や代表などという肩書はついていなかった。スタッフ、常田在。――詳細で明るいメールを送ってくれていた、常田という人物ではない。別人のよう、ではなく、別人だったのだ。
 呆気にとられているわたしに、常田さんは続ける。
「メールは簡潔にと言っているんですが、若い方と話をするのが楽しいようで。基本的に家族経営なので誤解が生じやすいため、私はやめてほしいです」
「じゃあ、あなたは息子さんですか」
「孫です。祖父ほどユーモアがなくて申し訳ありません。こちらは仕事なので」
 言い切った。真面目な顔で、きっぱりと「仕事」と言い切る大人。そういう人がいることに、わたしは雷に打たれたような思いだった。
 そんな人には、今まで会ったことがなかったのだ。人を相手にする仕事をしている人は、たとえ見せかけだとしても、大抵は笑顔を浮かべているものだと思っていた。たとえば日々営業で駆け回っている父は、学校で進路相談に乗ってくれた教師は、疲れていてもにこやかにしていたから。それが仕事なのだと、当人たちも言っていた。わたしだってその大変さがわからないわけではないけれど、常田さんほど笑うことに力を使わない人は初めてだ。
 新居について教えてくれた常田不動産の常田さんという人は、きっとユーモアがあって、気が利いていて、優しい人なのだろうと考えていた。実際、メールをくれた「別の常田さん」はそうなのかもしれない。でも目の前で何事もなかったように説明を再開しようとする在さんという人は、わたしの考えていた「こうあるべき」「理想の」大人とは違うようだった。
 わたしと話すのは仕事。それはたしかにそうなのだろうけれど、でも。
「……いや、でも、楽しい話の一つくらいはありますよね。ここが『縁結びアパート』って呼ばれてることとか」
 わたしはメールから希望をもらい、期待していたのだ。常田さんに会うことに。会って実際に話をすることに。――このアパートの「ご利益」について、もっと語ってもらいたいと思っていた。
 このコーポラス社台というアパートには、縁結びのご利益があるという。それはメールにあったこの物件の「おまけ」であり、個人のブログやSNSでまことしやかに囁かれている噂だ。神社に近いこのアパートに入居した人々には、さまざまな縁に恵まれるという。
 たとえばそれは、住人同士の仲。このアパートに暮らす人々は自然と親しくなり、かけがえのない存在になるのだとか。住人同士で結婚したという話もある。
 たとえばそれは、仕事や学業での縁。コーポラス社台に入居してから、大きな企業と縁ができて、良い仕事が次々に舞い込んでくるようになったとか。あるいは、受講希望者が多くて必ず抽選になってしまう講義を、必ず受けられるようになるとか。
 その話の数々が、わたしの入居を決める後押しをしたのだ。大学受験にほぼ失敗していたわたしを慰めるように、それどころかこれも悪くない道なのだというように導いてくれた。落ち込んでいた気分はみるみるうちに盛り上がり、いつのまにか独り暮らしに期待を持つくらいの余裕ができていた。
 そうして、わたしにもそんなご利益が、縁があればいいなと思っていたのに。
「縁結び? まさかそんな話を信じて入居を決めたんですか」
 常田さん改め在さんの表情が、ほんの一瞬険しくなる。すぐに元の無表情になったけれど、続いて繰り出された言葉には一切の容赦がなかった。
「今更ですが、そんな曖昧な、うまくいかなければ簡単にそのせいにして文句を言えるようなものに頼って住まいを決めても仕方ないと、私は思います。大学に通われる間だけの短い期間かもしれませんが、あなたは本当にここで生活をするということを考えましたか?」
 抑揚のなさが、胸をぐさぐさと刺す痛みに拍車をかけた。その場で固まってしまったわたしを見ずに、在さんはさらに言葉を継ぐ。
「私は縁結び目的でこの物件への入居を希望してきた方には、そう尋ねるようにしています。すると皆さん、大抵引いていきます。家賃は安いですが、そう利便性の高い物件でもありませんし。ただ、社長はそういう噂も利用して人を入れようとするので、こちらは困っているんですよ」
 切った言葉の間に、深い溜息。そして、とどめの一発。
「念のため言っておきますが、その点について保証は致しかねますのでご了承ください」
 他への引っ越しをご希望ならご相談にも乗りますし、物件の紹介もさせていただきます。ついでのように在さんはそう付け足した。わたしは混乱しながら、なんとか告げられたことをゆっくり頭の中で反芻して、意味を捉えようとした。縁結びの噂は、在さんにとっては「曖昧」で「うまくいかなければ簡単にそのせいにする」ようなもの。こんなことで住まいを決めるのは、彼としてはいけないと思っている。だから今まで入居しようとした人にはそう話してきた。――それで引いていくのは、説明の所為ではないだろう。在さんが、入居希望者の期待を砕いてきてしまったように思われる。
 もしかしてこの人、とわたしは心の中で呟く。もしかしたら、あまりにも真面目すぎるのでは。そのために活用できるものを上手に使えていないんじゃないか。
 万が一にも再び物件の相談なんかできない。しっかりした物件を紹介してくれるとしても、会話をしているうちに心が折れてしまうかもしれない。
――どうしてこの人、この仕事できてるんだろう……。
 わたしはもう呆然としてしまって、そのあとの注意事項は半分も頭に入らなかった。ごみの分別と収集の曜日についてや、現在アパートは満室なので騒音などに気をつけてほしいなどといったことを言われた気がするけれど、よく覚えていない。ガスや電気や水道の業者が一斉に入ってきて、在さんとともに出ていくのを、生返事をしながら見送った。かろうじて常識的な応対はできていたはずだ。雑談を交えられた分、わたしのほうが在さんより常識的だった、と思う。
「それではこれからよろしくお願いします」
 そう言った在さんを思い出すと、なんだかがっかりしてしまう。
「あれじゃよろしくなんてできるかなあ……。真面目なのも考えものだよね……」
 今度はわたしが、深い深い溜息を吐く番だった。
 そうして結局、落胆したまま、到着した引っ越し業者さんたちを迎えることになった。業者さんの一人が元気がないわたしに気づいて、引っ越しは疲れますよね、と声をかけてくれた。その言葉がじんわりと胸に沁みる。こんなの、在さんとのやりとりには一切なかった。こちらも素直に「ありがとうございます」と言える。これが普通なんだよね、とわたしは頷く。
 揃った家具に安堵して、改めて新生活に思いをはせた。管理人がどうであれ、ここで暮らしていくと決めてしまったのだ。在さんがばっさりと斬り捨てただけで、このアパートに何らかのご利益があるという可能性が消えたわけではない。たとえば隣の人が在さんより素敵だったりして、わたしに親身になってくれたりして、心が躍るような毎日を送れるかもしれない。ネットで見た事例のように。
――良い噂があって、ここで暮らしたいと思う人がいるなら、それでいいと思うけど。どうしてあの人は、あんな言い方するんだろう。
 思い出すとまた心が萎んでしまう。働いてくれた引っ越し業者さんたちを見送るついでに、気分転換でもしよう。わたしは部屋から出ていく人々を追いかけるようにして外に出た。気持ちの良い日差しと春の暖かい風を浴びれば、きっと残念なことも忘れられるはず。
 けれども、吹いていたのはひやりとした夕方の風だった。もうそんな時間だったらしい。四月になる前の空気は、まだ肌寒い。
 腕をさすりながら、ふと隣の部屋へ目をやると、ドアが開いて人が出てきた。ぬうっと現れた影に、わたしは思わず後退った。相手が、でかい男の人だったのだ。
 わたしの身長は一五〇センチくらいだけれど、彼はおそらくゆうに一八〇センチを超えている。しかも身長が高いだけでなく、しっかりした筋肉がついていることが服の上からでもわかるくらい、体格がいい。彼はこちらに気づいて、わたしを見下ろした。その目は鋭くて、知っている範囲でたとえるなら猛犬。ちなみにわたしは犬が苦手だ。
 黒い長袖のTシャツに、これまた黒いジーンズ。そんな恰好の彼が、逆光のせいもあって巨大な魔物のように見える。彼はこちらを睨みながら、一歩近づいてきた。
「おい」
 声も低い。上から降ってくる音が重い。まさにそのまま重低音。そんなふうに何か話しかけられるとしたら、苦情しか思いつかない。さっきまで人が大勢出入りしてたので、騒がしくなるのは仕方がないのだけれど。神経質な人なら、耐えられないこともあるかもしれない。
「す、すみませんでしたっ! もううるさくしませんから!」
 絶叫して部屋の中に逃げ込み、素早くドアを閉めて鍵をかけた。ドアを叩かれたりしたらどうしよう、と思ったけれどそれはなく、しかし手は汗をかいている。
 ああ、怖かった。まだ心臓はバクバクしている。隣の人が素敵だなんてとんでもない。そんな妄想は一気に吹き飛んだ。あんな人と仲良くできるとは思えない。縁なんてもってのほか。あの人、絶対わたしのこと気に入らないよ――!
 管理人といい、住人といい、わたしの期待はみごとに良くない方向へ覆され続けている。こんなことで、このアパートでやっていけるのだろうか。縁って、ご利益って、なんだったんだろう。一日目にしてわくわくした気持ちは叩きのめされ、潰れてくしゃくしゃになっていた。積んだダンボール箱も開ける気になれず、引きずり出すようにして敷いた新品の布団にやっとのことで寝転んだ。
 わたし、独り暮らしできるのかなあ……。

 そうして気がついたら、すっかり陽が落ちていた。何時だろう、とスマホを見ようとしたけれど、電池が切れている。充電コードをバッグから探しだして繋げて、スマホを取り落としそうになるくらい仰天した。
「うそ……十時? こんな夜中じゃ、もうお店やってないんじゃない? そうだ、コンビニは……どこにあるんだろう、覚えてないや……」
 部屋の電気をつけて、地図を引っ張り出して広げる。ここからそう遠くないところに、コンビニが一軒あるようだ。それが大学の方向であることを確認してから、荷物からコートを出して羽織った。とりあえず、今夜と明日の朝の食べ物を確保してこなければ。お腹が空きすぎて、ちょっとくらくらする。とても明日までは耐えられそうにない。
 コートのポケットに財布を突っ込んで、まだ手に馴染まない部屋の鍵を握りしめて、玄関を出る。ドアにちゃんと鍵がかかったことを確かめて、階下へ続く階段へと視線を向けた。
 と、通路に誰かがいることに気がついた。柵に寄り掛かっているその人の手には缶。山のほうを見ながら、口をつけている。細い人だな、とわたしが思うのと、その人がこちらに気づいたのは、ほぼ同時だった。
「こんばんは。新入りさん?」
「あ、はい。はじめまして」
 きれいな声の人だった。少し掠れた、女の人の声。長い髪が、風にさらさらと靡いた。暗くてよく見えないけれど、美人のような気がした。
「はじめまして。そっか、もう二〇八号室は入ったんだ。ここは本当に、人が切れないね」
 くつくつと笑って、また缶を傾ける。おそるおそる近づいて、それがビールの缶であること、そしてその人が本当に綺麗な女の人であることがわかった。
「私、二〇三号室の相川秋華。よろしくね」
「二〇八号室に来ました、宝泉茉莉花です。よろしくお願いします」
 にっこり笑った顔につられて、わたしも名乗る。秋華さんはわたしの名前を何度か呟いてから、「良い名前」と頷いた。
「茉莉花ちゃんはどうしてここに来たの。進学?」
「はい、四月から大学生なんです」
「やっぱり若いね。いいなあ、若いって」
 秋華さんも十分若く見えますが、と返そうとしたけれど、代わりにわたしのお腹が盛大に鳴き声を発した。近所中に響いたんじゃないかというくらい大きな音で恥ずかしい。秋華さんにもクスクスと笑われてしまった。
「お腹空いたんだ。夜中だもんね」
「ええと、実はお昼から食べそこなってまして……。今からコンビニに買い出しに行こうと思っていたところです」
「ここ治安は悪くないけど、女の子の一人歩きは心配だなあ。よし、私も行こう。ちょうどビールも切れたし」
 空になった缶を振りながら、秋華さんは自分の部屋に入った。そしてすぐに、財布を持って出てくる。正直、道があやふやなのでありがたい。
 秋華さんと一緒に階段を下り、コンビニまでの道を教えてもらいながら歩いた。街灯の下で見る秋華さんはやっぱり綺麗で、思わず見惚れる。わたしもこんな大人になりたい、でも難しいだろうな、と思わされるほどの美人だ。
「茉莉花ちゃんは、礼大生?」
「そうです、礼陣大学です。……って、他に学校あるんですか、ここ」
「あるよ。北市女学院っていう、賢い女の子が通うところ。茉莉花ちゃんもそっちかと思った」
「とんでもない。わたし、第一志望も第二志望も落ちて、ここに来たんですよ。親は公立だから授業料が安く済むって喜んでましたけど」
 初対面にもかかわらず、秋華さんには何を話しても大丈夫だという気がしていた。途中、向かいからやってきた無灯火の自転車から庇ってくれさえした。「危ないなあ」と怒っても、美人は美人だった。
「……礼大、良い学校だよ。講義も面白いって、礼大生はみんな言う」
「そうなんですか。秋華さんは大学生じゃないんですか?」
「そんなのもうはるか昔に卒業したよ。私今年でもう三十五歳だもん」
 二十代かと思いました、と素直に言うと、秋華さんは「ありがとう」と笑った。そして到着したコンビニで、温かいコーヒーを一杯奢ってくれた。わたしたちは帰路でコーヒーを飲み、わたしは自分で買ったパンも齧りながら歩いた。普段ならこんな行儀の悪いことはしないのだけれど、お腹があまりにもうるさかったのだ。
 秋華さんの手には、ビール缶が三本ほど入った袋が提げられている。どれもあまり見ない銘柄だった。
「茉莉花ちゃん、アパートの印象はどう?」
 パンを口に含んでいたわたしに、秋華さんが尋ねる。印象か、初めて見たときは良かったのだけれど。
「ふぁい……、ええとですね、十分暮らしていけそうです。でも、隣の人と管理人さんが怖くて」
「隣?!」
 今までにこにこしていた秋華さんが、突然ふきだした。肩を震わせながら「隣ってあの子しかいないよねえ」と言う。秋華さんにとっては、あの大きくて怖い人も「あの子」らしい。それが少し意外だった。
「秋華さん、二〇七号室の人とお知り合いなんですか」
「アパートの人はだいたい知り合いだよ。私、あそこに来てから長いから。……でもまあ、戻ってきてから六年か。もっと長い人もいるからねえ」
 くつくつ笑いながら、気になることを言う。戻ってから六年。あのアパートを離れたことがあるのだろうか。わたしが考えているあいだに、秋華さんは話を元に戻した。
「隣の子、そんなに怖くないよ。管理人さんも優しいおじいちゃんだし」
「あ、わたしが会った管理人さんは、お孫さんのほうです。すごく真面目そうな」
「ああ、在君。たしかに真面目だね。そして迷信やおまじないを意地でも信じないタイプ」
「そう、そうなんです! わたしが縁結びのご利益のことを言ったら、呆れられてしまって」
「だろうね。一時期、そのご利益目当てにアパートの入居希望が殺到して、やっと入った人も『ご利益なんか全然なかった』って文句つけて出て行ったことがあるんだよ。それ以降慎重になってるの」
 そういうことなら、あの態度もほんの少しだけ納得できる。やはり仕事をする人としてはどうかと思うけれど、一応理由はあったのだ。
 あの子も根は良い子だから大丈夫、と秋華さんが言っているあいだに、わたしたちはアパートに到着した。静かに階段を上り、秋華さんの部屋の前で別れようとしたとき、奥の――二〇七号室のドアが開いた。私の部屋の、隣の。
「……お、秋華さんだ。またビール買いに行ったの?」
 低い声が、秋華さんに馴れ馴れしく話しかける。
「こんばんは、九鬼君。仕事が終わった後の一杯はどうしてもやめられなくてね」
 秋華さんも軽く笑って返事をした。
「一日くらい休肝日作ったら。また倒れるぜ。……で、なんで二〇八号室の新入りも一緒なの」
「コンビニ友達。昼から何も食べてなかったんだって」
「やっぱり。だから何か分けてやろうと思ったのに、逃げるんだよ、そいつ」
 大男は不満げに、いや、ちょっとがっかりしたみたいに言った。あれって、苦情を言おうとしたんじゃなかったの? 訝しむわたしに、大男はまたぬうっと近づいてくる。思わず秋華さんの後ろに隠れると、二人ともに笑われた。
「九鬼君、見た目が怖いもんね」
「うるせえ。……そんな警戒すんなよ、お隣さんだろ。仲良くしようぜ」
 秋華さんの陰から少しだけ出てきたわたしに、大男が手を伸ばす。
「俺の名前は九鬼慧だ」
 どうやら取って食おうというわけではなく、わたしと握手をしたかったようだ。こちらも名前を告げ、そっと手を伸ばすと、ぎゅっと握られて、ぶんぶんと上下に振られた。
「こら九鬼君、乱暴にしないの」
 叱りながら秋華さんが笑う。見た目は怖いけど、大男、いや、九鬼という人は、実はそれほど怖い人ではないのかもしれなかった。
 ……いや、こちらを見下ろしてにやりと笑う表情は、やっぱり怖い。




続きを読む
posted by 外都ユウマ at 20:13| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月23日

真昼の魔法使い

「あっちの方から」
君が指さしたのは、久しぶりの快晴。僕は顔を空に向け、指の先を見ようとした。
太陽の光が眩しい。
目を細めた隙に、こつり、と足に何かが当たった。
俯いて見れば、僕の座る木陰に、小さく輝くものがある。手を伸ばして触れようとすると、それはすうっと光を失い、見えなくなった。地面を撫でてみても、手にはそこらの砂粒の感覚しかなく、何があの輝きのもとであったのかわからない。
仕方なくもう一度顔を上げると、君は「ね?」と首を傾げて言った。
「つまらない魔法でしょう」
つい先程、僕が見せてくれるよう頼んだのだった。
君の『星を降らせる魔法』を。
誰も信じなくても、僕だけは君を信じようと思って。
けれどもこれでは、信じようにも確証がない。これが魔法だと、起きたことだとわかっているのは、結局君だけだ。
「せめて曇りや雨の日にやればいいのに」
僕が地面を撫でた手を払いながら呟くと、君の目が弓の形になった。
「僕の魔法は太陽の光が源だから」
慣れたような口調に、僕はもう誰かがこの言葉を口にしていたのだということを覚った。少しだけがっかりした。
「光がなくちゃ、僕は星を降らせられない。どんなに星が光っていても、その光だけを見ることが誰にもできない。落ちた星はすぐに他の石と同じようになってしまうから、見つけられない」
だから僕の魔法は誰も信じられないんだよ、と君は最初に説明してくれたことを繰り返した。
それでも僕なら、君の使う魔法を信じられると、星の光を捕まえられると思ったのに。
唇を噛むと、君は笑ったまま「いいんだ」と緩くかぶりを振った。
「見えないままでいい。これは僕だけの魔法だから」
「でも、信じてもらえないのって、嘘つきだって思われるのって、嫌じゃないの?すごいって思われたくないの?」
縋る僕に、君は弓の目を木の実のように丸くした。
「そんなこと」と言って切り、「少しは」と言い直す。
「考えたことがなかったわけじゃないけれど、知ったところでどうにもならないから」
ならないだろう、ではなく、はっきりとした「ならない」。
きっと本当に、どうにもならなかったのだろう。
僕はまた、君にとってのはじめての人になりそこねた。僕がしていることは、すでに誰かがしたことで、君はもう飽きてしまっているのだろう。
星なら降らせられるよ、と冗談みたいに言ったのは、たとえば「その町になら行ったことがある」というような、会話のきっかけにすぎなかったのだ。その程度にしか扱えないと、君はもう知っていて。「期待外れでごめんね」
それももう、何度も繰り返した終わりの言葉なのだろう。
「夜にできれば良かったのにね」
「そうだね」
「太陽電池みたいに光をためて」
「そうだね」
僕は誰かの言葉をなぞり、君は用意してある返事を並べる。
僕がなぞった轍は深くなり、君の心はまた少し削れたのかもしれなかった。
そしてとうとう、僕は「信じるよ、すごい魔法だ」という、用意していた台詞を言うことができなかった。
posted by 外都ユウマ at 20:26| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月31日

2017年作品鑑賞まとめ 文芸作品編

引き続き、今年の作品鑑賞文です。いつもと同じく、読んだ本について、漫画とは分けてお送りします。
今年は慌ただしくてなかなか本を読む時間がとれず、読んだ冊数は昨年よりずっと少ない、再読含めて70冊。うち新規は56冊で昨年と同じくらいなので、新刊ばかり一所懸命追って読んでたことになりますね。つまり年間50冊以上本を買ったり借りたりしているということか……。
ここでは新規の中から、私が今年特に心に残った作品をいくつか選んで紹介します。ルールは以下。
ちょっと流行に乗り遅れていることもあります。
ネタバレがあることがあります。作者敬称略。
以上ご了承ください。


*小説

『お節介屋のお鈴さん』(堀川アサコ)
ファンタジーコメディーミステリーホラーと盛り沢山。独居老人、セクハラ、教師バッシングなど社会問題もするっと入ってきます。
杜の都仙台を舞台に、強気な幽霊お嬢お鈴さんが、ごく普通の銀行員カエデを捕まえ振り回し様々な事件に首を突っ込ませます。
ぼけぼけ系ヒロインのカエデは無意識に人を傷つけてしまうところもあるのが、可愛らしくもリアルでとっつきやすいです。お鈴さんは私の大好きな強ヒロイン。恋敵の末裔が早産しそうともなれば、それまでの恨みつらみも放り投げ、家の前に地下鉄を召喚して助けちゃうくらいお節介で気風が良い。(このシーンかっこよくてとても好きです)カエデの彼氏こんちゃんは癒し、泰平さんと貸本屋もとても素敵。キャラクターがとにかく魅力的なのです。
現実問題は解決できる範囲で、という加減が絶妙です。(地下鉄召喚除く)
お鈴さんの衣装がくるくる変わるお洒落さにも注目です。

『嘘つき女さくらちゃんの告白』(青木祐子)
今年一番の衝撃作でした。女の、作家の、業という業を凝縮したような、最後まで鳥肌の立つ作品。
盗作疑惑のイラストレーターを負い、その遍歴を本にするために彼女の知人をあたって取材をする。それによってイラストレーター「sacra」さくらの嘘の数々が明らかになっていくが……。
おそらくさくらにとって全ては「嘘」ではなくて、彼女の中で「そういうことになっている」のだろうなと思ってしまう。それを顔と体で裏付けられるのだとわかってしまっている。すぐ嘘だとわかりそうなものなのにたくさんの人が騙されてしまうのは、「こんなにきれいな子が悪いわけない」と信じたいものを信じてしまうからでしょうし。さくらの行動が計算によるものなのか、そういう悪癖なのかわからないところがまた怖い。
自分では何も作らないし考えないさくらが自分のことを「0から黄金を生み出す」と言ってしまうのが、怖いのだけど気持ち悪くはなくて、寧ろどんどん惹かれて行ってしまうのは、さくらに堕ちた男たちや「才能はあるけどさくらほど美しくないと思ってしまった人たち」の心境に近いのかしら。
ラストには圧倒されました。なんて巧みで、なんて屈託ないんだろう。その瞬間の鳥肌を気持ちいいと思ってしまったら、この作品にドМにされていると思います。

『装幀室のおしごと。〜本の表情つくりませんか?〜』(範乃秋晴)
昨年から「本に関わる仕事」の作品に注目して読むことが続いていましたが、装幀は初めてでした。
本の中身に合わせたものか、確実に売れるものか。読者が手に取らなければ本は存在しないも同じなら、強い印象を与えて手に取らせる装幀がより有利で確実な「商品の売り方」かもしれない。そのほうが本は存在していられるのかもしれない。でもやっぱりそれだけじゃ中身との違いが出てしまって「作品」としての存在は欠けてしまう。
主人公わらべちゃんの「作品主義(売れるよりも作品を表現することが大事、でも売れなきゃ本は生き残れない)」と巻島さんの「商品主義(まず手に取られないと意味がない、けど作品を蔑ろにしているように見える)」がぶつかるバトルかと思いきや、わらべちゃんは作品の世界を愛し、巻島さんは作品を作り出す人を大切にしようとしていたことが徐々にわかってきます。わらべちゃんの装幀は作品と読者への愛で、巻島さんの装幀は作家と作品への愛。
互いに知らない間に「装幀」を通じてファンレター、あるいはラブレターともいえるかもしれない、そんな想いの送り合いをしていたのだということがわかった瞬間に、泣けて仕方なかったです。
本を通じて繋がる物語、本当に好きですね。本の装幀が愛しくなる作品です。

『百貨の魔法』(村山早紀)
装幀のお話を読みましたが、本作の装幀は本当に美しいですよ。イラスト、フォント、そしてカバーを外したところまで細部にわたってこだわりが感じられる、まさに逸品。今年最も飾っておきたい本です。
斜陽の百貨店で働く人々、その人生を描いた作品。長くないのではといわれる中小の、地元に根差した百貨店(呉服店が始まりというのはよくあるタイプ)を題材、舞台とするならば、近年なら「画期的なアイディアで売り上げを伸ばす」「経理関係など財務の見直しによって経営を立て直す」「ひらめきと人望で社内を奮起させる」などといったサクセスストーリーが流行しそうなものです。世の中のいわゆる働いた「結果」に着目する人々には、もしかしたらそのほうがうけるのかもしれません。
しかし本作は、その場所と町の人々の暮らしの過去や現在を、いかに心の面から豊かにするかということ、相手を喜ばせることこそが働くこと、そして居場所を守るということの本質であるということを、複数の人間の目とコンシェルジュ結子さんの「幸福な」人生を通して描いています。
人の生き方、人情、つながり、そして「人の手で成しえる夢」に希望を見出す人にはとても温かく優しく接してくれる物語だと思います。
私が本作を読んでいるとき、ちょうど「ウルトラマンはどうにもならないときにしか来ないものだから、そう頼りすぎるものじゃない」ということが話題になっていました。(日本人のヒーロー観が云々、という話に対する反論じゃなかったかな)この百貨店に現れる「金目銀目の白猫」は、それに似ているなと感じました。自分で叶えられるところは全力で取り組んで、どうしようもないもの、過去の変えられないものには夢を見せる。そんな「ある程度諦めることを知った大人の夢」に、本作は寄り添ってくれます。
しかし福利厚生が手厚く、従業員みんなが仕事が好きで、いつも笑顔が溢れている……職場として究極の理想で、とても眩しく感じました。そういうお店なら、お客さんもストレスフリーでいられるだろうな。

『活版印刷三日月堂 海からの手紙』『活版印刷三日月堂 庭のアルバム』(ほしおさなえ)
昨年、シリーズ一作目『星たちの栞』を挙げましたが、今年出た続きの二作も素晴らしかった。
川越の活版印刷工場を訪れる人々と、そこの店主である弓子さんの物語。
『海からの手紙』は「見えないものをかたちにすること」がテーマになっているように思いました。特に「あわゆきのあと」は号泣。いない子を、会ったことのない子を「名前」というかたちであらわす。たしかに存在したんだよという証明みたいだと思いました。両親の悲しさ、特にお母さんのつらさも心に刺さって。ちょうど自分でも、いなくなってしまった子供の話を書いていたので、重ねた部分もありました。
『庭のアルバム』では「仕事への向き合い方」も書かれていたのかな。「チケットと昆布巻き」や「川の合流する場所で」はそれが濃く出ていたように思います。そして、弓子さんのお母さんの生きた足跡も。「死んでしまった人」ではなく「生きていた人」だったんだ、ということを確かめるようでした。そうして三日月堂の物語に共通する「かたちとして残すこと」がはっきりしてくる。
表題作の「庭のアルバム」に、一番心に残った言葉があります。「わたしはわたし。楓もそうだよ。一生楓として生きていくしかない」。この話の語り手である楓ちゃんの、おばあちゃんの台詞です。その前に父親が「周りとちゃんとやっていけないんじゃ、どれだけ考えても意味ない」と言っていて、それが楓ちゃんの心だけでなく私にもとても刺さる言葉だったので、おばあちゃんがそう言ってくれたことで楽になったんですよね。そのかわり、自分にちゃんと責任を持つこと。これってとても大事なことだと思います。
もちろん仕事をして生活していくということは大事で、必要なことです。お金のことも考えなきゃいけません。でも、その中に自分にとって大切なものをいつでもしのばせておけるようにしたい。自分を大切にしたい。そう思わせてくれる作品でした。

『君の嘘と、やさしい死神』(青谷真未)
ボーイミーツガール。頼まれごとを断れない男の子が強がりの女の子と運命の出会いをする……と、単にこれだけではないのです。恋愛小説ではあるけれど、それよりも個人の悩みや少年少女の生き方に焦点を当てています。「記録」じゃなく「記憶」に残りたいというのは、「彼女」の忘れられたくない(生きていたい)という想いそのもの。そして彼女が残していったものが、「僕」がずっと囚われていたものからラストで解き放ってくれる。
落語を絡めたストーリーが非常に良かったです。青春に落語。こんなに切なく扱えるものなのか、と感銘を受けたのですが、よく考えたら落語だって物語なんですよね。
青谷さんの青春と恋愛の描き方が、『鹿乃江さんの左手』からずっと好きです。本作は『四月は君の嘘』を彷彿とさせました。

『ゆめみの駅遺失物係』(安東みきえ)
夢見ることにちょっと拗ねてしまった女の子が、なくしてしまった「お話」を遺失物係に捜しにいきます。大人も子供も入っていきやすい短編集。ちょっと懐かしさのある、それでいて心に沁みたり刺さったりする、私が昔から好きだった「童話」ってこうだったなと思い出させてくれる作品でした。
内容だけじゃなく、装画とフォントもすごくきれいでほっこりします。
「本当に伝えたいと思ったら、こつこつと文字に刻むしかなさそうです」この言葉にとても共感しました。主人公の女の子とは気が合ったかもしれないです。
「ずっと心にかかっていたことを物語にして、それで気持ちをひとつ終わらせる」というのはいつも私がやりたいと思っていて、たまにやっていることでもあります。なので私はこの物語に認めてもらえたような気が、勝手にしているのですよね。


*ドキュメンタリー

『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生、日本製紙石巻工場』(佐々涼子)
どうしてもこの本を読んだ話はしたかったので、ちょっと分けてやります。読み終えたのは三月に入ってからでした。ちょうど東日本大震災から六年が経とうとしていた頃です。
ノンフィクションを読むのは、私にしては珍しいことです。(エッセイはたまに読むんですけどね)しかし本書は、単行本が出たときから読みたいと思っていて、文庫になってやっと手元に迎えることができたのでした。
物語のように流れがまとまっていて読みやすい、と感じたのですが、あの日の現実は物語よりも衝撃的だったんですよね。ずっと泣きながら読んでいました。悲しいからとか感動したからとか、そういう「他人事」みたいな涙だったことも否めないけれど、私自身があの日からの「しばらく」を思い出したのです。
2011年3月11日以降しばらくのこの国にいて、それを支えるとか言っている余裕もなく、ひたすらがむしゃらに生きるため、生かすために動いている人々がいたことを確認して、ただただ「そうだよなあ」と思いながら読んでいました。
書かれているひとつひとつの場面に手に汗握り、「良かった」と思っては涙を流し、再現された日々を映像で見ているような気持ちになりました。人々の声と文章の力を強く感じたドキュメンタリーです。


以上の9冊が、今年の私的ベストでした。
堀川さんの作品はかなり迷った……。今年最初に読んだ『おちゃっぴい』も、新撰組を描いた『月下におくる』も良かったもの。
『活版印刷三日月堂』シリーズは、例年シリーズ一作目を一度出したら二作目以降の感想はまとめに入れていなかったのを無視するくらい、一つ一つが素晴らしかった。
『紙つなげ!』は絶対に入れたかったのでどうやって入れようかというところから考えました。私自身が学生時代にインタビューの書き起こしや語りの分析などを専攻していたので当時の知識と、震災のときの記憶、現地にいないから当然わからなかったことを文章からどう受け止めたらいいのかということなど、頭から色々引っ張り出して模索しながら読みました。
『百貨の魔法』を読んだのは、ちょうど仕事を辞めて新しい場所へ向かう準備をしていた頃でした。ここまで理想的な職場には(私が接客が非常に苦手なので)出会えなくても、相手を慮って動く、ということはどこに行っても大事にしたいと思わせてくれました。また、地元には現在百貨店は存在しないのですが、かつてあった頃(もう随分昔です)のことを思い出して懐かしかったです。今はバスに乗れば百貨店や大型商業施設が多く並ぶところに40分程度で行けるようになったので、機会があって覗くたびに、従業員の笑顔に星野百貨店を想うようになりました。落としものをしたときに助けていただいたその対応に、リアル百貨店だ、などと変な感動を覚えたほどです。
『嘘つき女さくらちゃんの告白』はのめりこみましたね。恐ろしいほどはまりました。こういう人が本当にいるから、余計に怖い。まさに沼に足をとられ引き込まれる、その瞬間を体験した気がします。本作がきっかけで『幸せ戦争』も読んだのですが、これまたすごかった……。「良い人」がほとんどいなくても、読後の快感ってあるんですね。
来年も良い作品にたくさん出会えますように! すでに今から楽しみがいくつかあるのです。さて、何から読み始めようかしら。
posted by 外都ユウマ at 11:21| Comment(0) | 作品鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年作品鑑賞まとめ 漫画・映像作品編

今年全然ブログ動かしてませんでした。秋に何かやる予定も結局できないままだったので、来年に色々持ち越しです。
しかしこれは毎年の課題みたいになってきたのでやり残すわけにいかない。
まずはいつものルールです。
私が今年楽しんだ作品から選んで紹介します。なのでちょっと流行に乗り遅れていることもあります。
ネタバレがあることがあります。作者敬称略。
以上ご了承ください。


*映像作品編

『pk』
インド発、SF風宗教コメディー。インド映画らしいキレキレの踊りと歌、恋、家族愛が盛り込まれていて、とても濃い二時間半。
このご時世、そしてインドの環境で、真正面から「宗教の中のルール」に疑問を投げかけている作品です。pkは酔っ払いを表す言葉なのですが、そう呼ばれる彼(宇宙人)が地球人の宗教酔いをコミカルに醒ましていきます。
作中でもテロが起き、たくさんの人が悲しみ、憤ります。それまで宗教指導者をおちょくることでその理不尽さに対抗していたpkの、その後の台詞。
「神様は守るものじゃない。ただ信じていればいい」
他宗教の国で訴えた宗教の捉え方に、とても納得できました。
笑える程度の下ネタもあり、ほぼ緊張せずに見ることができる作品です。

『彼らが本気で編むときは、』
母親がふらっと出ていってしまったために、叔父のマキオのもとにしばらく世話になることになった、小学生のトモ。マキオには介護士をしている恋人、リンコがいた。三人の同居生活が始まるが、トランスジェンダーであるリンコを異常だと見て、良く思わない人もいるのだった。
性の事、家族のかたち、親子の関係などを丁寧に描いた作品です。全てに人と人との間の溝があって、けれどもそれをきちんと受け止めていく。マキオの「親子関係も人と人」という台詞が、じんわりと響きます。
そしてトモが、同性を好きになったことを母に咎められた同級生ケイに言った「あんたのママはたまに間違う」という言葉が、とても印象的でした。怒ることはある。悔しいこともたくさんある。でも、相手を全く否定することはしない。吐き出せなかった、我慢した気持ちは、リンコのように口に出さずに編み物に込める。とても優しい人たちでした。
リンコがあまりに自然に女性で驚きました。演技力すごい。
リンコの母の作った毛糸の偽乳が、これが作品の着想のもとだったそうなのですが、とても可愛いんです。この毛糸、リンコには自分を認めて守ってくれた母の思い出があって、トモの母には両親がうまくいかなかったという思い出があるという対比も良かったです。
どこにでもある家族の話だったんだなあ。子供が大人になりきれない大人に苦労するのがちょっとつらかったけれど、幸せなシーンは輝いてました。普通って何なんだろう、ということをとても考えました。
食事がいつもながらとても美味しそうです。美味しい食事をみんなで囲むことが、幸せの象徴なんだと思います。

『この世界の片隅に』
昨年公開された本作が、地元まで公開が追いついたのは年明けでした。初日のレイトショーを見に行ったのですが、館内のお客さんは結構泣いていましたね。
構成、演出、音楽、お芝居の全てにおいて良かった。色がついて動いて喋るすずさん、本当に生きてると感じました。
原作の漫画が我が家にあったので何度も読み返してたんですが、それでも映画は新鮮。先の効果のせいかしら。映画では原作から「普通の生活」を上手に取り出して、丁寧に描いていました。
料理シーンは粗食のはずなのにお腹が空いたし、原作ではなかった(でもおそらく一般家庭ではあったであろう)部分もちゃんとすずさんらしい。
驚いたのは絵の表現。すずさんから見る世界を、映画で描き切っている。
そしてエンディングの「その後」と、リンさんの一生の演出。どこかでは入れてくると思っていたけれど、あれは良かった。
一緒に行った母が、「普通の日々にすごく泣けてしまう」と言っていました。「普通」を愛おしくなるほど丁寧に描いてくれた作品だと思います。あの頃のすずさんの見たものを、そのまま持ってきたかのようでした。永く残ってほしい作品ですね。

『有頂天家族2』
この狸たちの物語はなんて面白いのかしら……! 熱のこもったアニメ最終回視聴後の感想が残っていたので、長いけどそのまま載せます。
アニメが始まると同時に原作(文庫版)も読みました。まず原作の身悶え度が高すぎて。全部好きなシーンといってもいいくらいなんだもの。矢一郎兄さんの結婚相手、玉瀾が読む前から気になっていたのだけれど、とてもよいお姉さんでお嫁さんなんだなあ。すごく好きなタイプのキャラクター。
クライマックスの矢一郎兄さんとの「俺は阿呆だ」「だから私がいるんでしょう」のやりとりがすごく好き。
原作のラストは、矢三郎が弁天に失恋する(狸ではだめだと認めてしまう)切ない終わり方で、それはそれで好きなのだけれど。
さてアニメ。ちょいちょい削ったり順番が入れ替わってはいたけれど、ワンクールアニメとしてまとまりが非常に良い構成の仕方でした。先述の矢一郎と玉瀾のシーンは本当に良すぎて泣いた。ありがとうございますありがとうございます。
ラストに矢三郎と海星ちゃんの許嫁復活を持って来るとは。アニメのラストとしては爽やかで良かった。原作が弁天エンドなら、アニメは海星エンドといったところだろうか。アニメ11話から12話は本当に最高でした。
そして天狗バトルですよ。二代目は原作でもアニメでもかっこよかった。そして可愛かった。赤玉先生に「強うなれ」といわれて泣くシーンがすごく好きなんだなあ。
惜しむらくは、原作できゅんとした矢三郎に「友達になれないか」と言うシーンがアニメではなかったこと。これ見たかったんだけど、アニメに入れちゃうとこれまた切なくなっちゃうから、あれはあれでいいのかな。
弁天と二代目のバトルは夏の第一戦も年末の最終戦も最高でした。原作では矢三郎視点だからかなり切なげに、激しいんだろうけれどいくらかは落ち着いて読めたのが、アニメではあの激しさ。なんてかっこいいんだろう。
呉一郎がアニメ1話から登場していたので(原作では早雲の葬式からの登場)どうするのかなと思ってたのだけど、ちゃんとまとまるものだねえ。どっちの展開も良かった。
原作とアニメ両方大好きだー。有頂天家族、いつか出る第三巻も、アニメ化するといいなあ。
アニメエンディングの弁天の物語がとても良い演出で、原作既読だと「そうかあのときの」と思えるし、アニメだけでも「今まで弁天はこう動いていたのだな」と思い返せるつくりになっていて素晴らしいのです。fhanaさんの「ムーンリバー」がかなり弁天で素敵。
milktubさんのオープニングは矢三郎というか下鴨一家だね。ほんと良作。

『宝石の国』
原作漫画を一巻が出た頃から読んでいます。この美しい線の世界を、アニメではどう表現するのだろうとかなり期待していましたが、想像以上でした。
きらきら輝く! 滑らかに動く! そしてストーリーがわかりやすい! というのも、漫画はいつも数回読まないと自分なりの理解が組み立てられなかったのです。衝撃の連続と、フォスフォフィライトの姿がよく変わるので、なかなか追いつけなかったのですが。アニメを観た後にもう一度原作を読み返したとき、すんなりと頭に入ってきたのです。アニメで読み方をおさらいさせてもらった感じです。
アニメ8話の特殊エンディングも素晴らしかった。アンタークが連れ去られるあのシーンは、初見じゃないはずなのにショックでした。
原作もみんなかなり美しいのに、それがあんなにきらきらしながら動くの、アニメの作り方が本当に凄い。語彙が追いつかない。宝石たちだけでなく、アドミラビリスや月人の質感も良かった。
あの世界の再現度の高さとキャラクターの可愛らしさ美しさ。まだまだ見ていたい!


*漫画作品編

『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)
今年に入ってすぐの頃に、やっとまとめて読みました。聞こえてくるあらすじなどを聞く限り、きっと好みの作品だろうと思っていたのですが、遅ればせながら四巻が出たタイミングで手を出しました。
(なかなか手を出せなかったのは、昨年まで自作で集中して鬼を扱ってたから、少しでも影響を避けようとしていたためです。結論から言って、展開が読めなさ過ぎて影響も何もなく、ただもっと早く読むんだったと思っただけでした。連載開始当初から応援してる方々の熱がすごくて眩しい)
もう読んだ端からぼろぼろ泣いてしまって。だってあまりにも「慈しい」。(各所で言われてますが、このコピーすごいですね)炭治郎たちの戦いの中で、鬼たちの心がちょっと動く、あの瞬間にすっかりやられてしまったところからのスタートです。
個人的に一番ハッとしたのが鼓屋敷でして。炭治郎が床に落ちた原稿を踏まないよう避けたシーン。最新の九巻まで読んできて、たぶんあそこが最も泣いたシーンだったと思います。響凱に感情移入してしまって。彼を炭治郎が認めてくれて。(次点で煉獄さん関連かな)というか新刊が出る度に泣かされている。ギャグもキレがあってとても好きです。善逸のツッコミほんと好き。
友情、努力、勝利の超王道少年漫画。今後の展開も目が離せない!

『夜さんぽ』(木村いこ)
不安障害と呼ばれる状態があります。他人から見ればちょっとしたことが気になって怖くなったり、音や光といったあらゆる刺激に対して過敏になったりと、人によって症状は様々です(そもそも不安障害というのがとても大きい枠の呼び方なのですよね)。本作は作者である木村いこさんの、不安障害になってからの夜の散歩のお話。
読みながら何度「ああ、そうそう、こういう感じ」と頷いたことか。光刺激に敏感になったり、自律神経の不調からカフェイン中毒になってしまったり(コーヒー好きなのに)。でも時間の経過とそのあいだの支えと何かしらの楽しみや目的を持つことなどを段階的にしていって、少しずつ良くなっていくのですよね。いこさんがいろんなことを「大丈夫」になっていくにつれて、私も希望をもらったものです。
それを置いておいても、夜の散歩のわくわく感はたまりませんね。人が少ない静かな通りを、優しい光を目指して、気になるものを追いかけて、ゆっくり自分のペースで歩く。せかせか焦らず、のんびりじっくり行く。学生時代に、夜中思い立ってアパートの近くにあった歩道橋にのぼってぼーっとしてたのを、ちょっと思い出しました。ああいうの、面白いですよね。あとは冬の夜中にこっそり家を出て、町内一周してきたりとかも。人がいないから誰にも何も言われないし思われない、静かで強い刺激がない。好きなところに(行ける範囲で)自由に行ける。
漫画のふんわりとしたタッチも相まって、心に優しい作品です。

『さめない街の喫茶店』(はしゃ)
夢の中の街「ルテティア」にある喫茶店「キャトル」で、お菓子やおつまみ、軽食、たまにお酒などを作る。そうしているうちに、現実のことを、そうだったはずのことを、ゆっくりと思い出せなくなる……。
ごはんを作って街の人にふるまったり、逆に料理を教えてもらったり。主人公スズメの日々は穏やかに過ぎていくけれど、それが夢だということはわかっている。ところどころで思い出す現実のことも、だんだんぼやけてくる。
優しくほのぼのとしているのだけれど、このままだとスズメはどうなるのだろう? なんてふと考えてしまう。
好きな小説の挿絵で見て以来、偶然再会した作家さんでした。(『三ツ星商事グルメ課』シリーズ、2014年のまとめで取り上げてます。オススメ!)以前から絵柄は可愛くて、食べ物の絵は美味しそうだったけれど、本作ではさらに温かな(それでいて少し不安な)ストーリーがあって、非常に私好み。食事を丁寧に作って美味しそうに食べる作品は良いですよね。お酒もあるのがさらに良い。レシピを見るのも好きです。
いろんな想像ができる舞台設定とストーリー、そのラスト。カバー裏はきれいで切ない。
「居心地が良すぎる」街での、ゆったりとした時間を過ごしていると、美味しい朝食とコーヒー、おやつが欲しくなること間違いなしです。私も翌日忙しいのにしっかりコーヒーを淹れてしまった……。
何度でもルテティアに飛び込みたくなる、非情に中毒性の高い作品です。


以上、映像と漫画でした。メディアミックス入れたので、小説も入ってますね。
このほか、ドラマスペシャル『地味にスゴイ!DX』もとても面白かったです。えっちゃん素晴らしい。『校閲ガール』は昨年取り上げましたが、原作もドラマも本当に良いです。
『夜さんぽ』は不安障害持ちの助力でもありました。漫画そのものも面白いのに、精神的にかなり救ってもらってます。
『彼らが本気で編むときは、』はそのすぐ後に『リリーのすべて』を観て、改めて心と体の性について考えさせられました。そのうえ『チョコレートドーナツ』も思い出したりして。
『有頂天家族』に対する熱が凄まじいですね。アニメではカットされてしまった部分は脳内再生だ。あの狸たちにまた会えるのを楽しみにしています。
今年は結構映画を観る機会があったのですが、環境が変わったので来年は少なくなるかも。でも良いものはなんとか探してきて、観て考えてを続けていきたいです。
posted by 外都ユウマ at 11:17| Comment(0) | 作品鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

夏祭鬼異譚

鬼は暑さを人間ほどに感じない。けれどもこの薄暗い部屋は、きっとひやりと涼しいのだろうなと思う。
長く人間と一緒に暮らしてきたから、その空気は五感で味わうように伝わるのだ。
『葵さん、こんにちは。今年も夏祭りがやってきたね』
町に響き渡る囃子の笛や太鼓の音色を、美和は楽しく、そして葵は鬱陶しく感じる。うきうきした美和を気だるげに睨み、葵は『そうね』と短く返した。

美和と葵は、若い娘の姿をした鬼である。頭には二本の角、瞳は赤い。この礼陣の町に、彼女らは人間とともに暮らすもう一種類の「ひと」だ。しかしその性質は異なっている。
美和は町を守る鬼。力の及ぶ範囲、この町の中で、人々を慈しみ手を差し伸べる。
葵は町を呪う鬼。力の及ぶ範囲、この町の中の全てを、憎んで恨んでときには命を奪う。
そんなふたりが一緒にいるのは、ほかならぬ美和の酔狂であり、葵の気まぐれであった。封じられている部屋から動けない葵のもとを、美和は足繁く訪れている。
今日、この礼陣の最大の行事、夏祭りの日にでさえ。

夏祭り初日の午前、神輿行列は礼陣神社から始まるが、そこに地区ごとの子供神輿が合流する。小学生までの子供たちが担ぐ小さなものと、それより少しだけ大きな中学生の神輿。高校生以上になると大人たちに混じって、神社の大神輿に加わっている。
神輿行列は神社での祭囃子に見送られて、町中をまわる。そのあいだ、担ぎ手たちは神輿唄を朗々と唄うのだ。
――やまさとに、すみしありたる、れいのたみ。とわにわすれじ、おおおにのおん。
『私、あの唄、大嫌いだわ』
この近所、遠川地区の子供たちが唄う声が聞こえてくると、葵は眉を顰めた。美和はその隣で、神社の社務所から失敬してきた缶ジュースを開ける。
『まあねえ、葵さんは好きじゃないよね。だってあの唄、大鬼様への恩を忘れませんって内容だし』
恩なんて感じてないもんね、と缶に口をつける。ドロッとした温く甘い液体が、口の中に広がった。
『葵さんが呪い鬼になった原因に、感謝なんかできないよね』
『美和は唄える? あの腹立たしい唄』
『詞を覚えちゃってるから、唄うことはできるよ。でも大鬼様に手放しで感謝できるかと言われれば、それはまた別問題かな』
あっさりと答える美和に、葵は目を眇める。優しくはなく、馬鹿にしているのでもなく。ただただ彼女は、美和が不思議なのだ。
『相変わらず変な鬼ね。大鬼のおかげで、あんたはここにいるんでしょうに』
『簡単な話だよ、葵さん。世の中には自分を産んだ親に感謝しなくていい子供がたくさんいる。産んでくれたから敬いましょう、感謝しましょう、なんて単純な話が通るなら、虐待だって容認することになっちゃう。そんなのおかしいでしょ』
『あんたは……。まあ、そうね。私も自分の父親は恨んでたし、殺したし』
神輿唄が少しずつ遠ざかる。離れることなく止まないのは、夏の最後まで生き延びていたセミたちの合唱だ。あれらもじきに死んでいく。かつての美和や葵のように。
美和はこの世に生を受けたとき、人間だった。だがその命は数分ももたず、魂だけがこの世に残った。それを紆余曲折を経て鬼の形にしたのは、この町の持つ法則だ。
葵は二十歳を過ぎるまで人間として生きていた。しかしある大雨の日、山で自動車事故を起こして死んだのだ。もともとこの町に強い恨みを持っていた彼女は、この町の持つ法則に従って鬼と成ったが、その性質は災いをもたらす呪い鬼だった。ゆえに、この場所――自分の生家に封じられている。
この町の持つ法則とはすなわち、人間の魂が肉体を失った後に鬼として再びの生を得ること。通常、人間にその姿は見えなくなるが、この町の人々が鬼の存在を認めているために、「在る」ものとして扱われる。ただし、鬼たちが一度死んだ人間であるということは、あまり知られていない。
人間として生きた時間が極端に短い美和などは、この仕組みに甘んじてもかまわないはずだった。だが、呪い鬼が存在すること、鬼となった魂がこの町に縛りつけられて輪廻に入れないことなどを知るにつれ、彼女もまたこの町の法則に疑問を持ち、その大元となっている大鬼に疑念を抱いていた。
大鬼――鬼の元締め、総大将であるそれは、この町で人間の姿をして暮らしている。礼陣神社の神主として、人間たちとも交流している。千年近い昔から、全く変わらぬ若い男の見た目で。人々は神主は大鬼様であると認識している。
この町は、よそから見れば奇妙なのだ。現代、それを隠すように生きてはいるけれど。
『神輿唄、もうあんまり聞こえないね』
『こっちに行列がまわってきたら、また聞こえるでしょう。ああ、鬱陶しい』
『ちょっとの辛抱だよ、葵さん。私は大鬼様に特別感謝してるわけじゃないけど、人間が元気に楽しそうにしてるのは好きだな』
『あんたは呪いを持っていないから』
疑問はあれども、美和は鬼としてこの町を守っている。それはこの町に、守りたいものがあるからだ。大鬼云々は関係なく、美和が大切に思っているものがある。
葵にはそんなものは何一つとしてない。この町を、力さえあれば壊してしまいたいと考えている。だが、それほどまでの力は、ここ数年で少しずつ削られていた。いや、変質しているというべきか。端的に、美和の気にあてられて、浄化されているのだった。町を恨みに思うことは変わっていないが、放っておいてもどうせいつかは滅びるだろうと、むやみに力をふるうことをしなくなった。
酔狂も、気まぐれも、悪くない方向に働いている。この町にも都合が良いが、それよりもふたりの鬼にとって良かった。
『人間が楽しそうにしているのが好きなら、神輿行列を見に行けばいいのに』
『もう何年も見てきたから、たまには見ない年があってもいいかなと思ってね。それにさ』
美和は言葉を切り、視線を泳がせる。その仕草が妙に人間らしく、葵を苛立たせる。
『それに、何よ』
『夏祭りに行けない葵さんを放っておいて、私だけ楽しむわけにはいかないでしょ』
『今までそうしてきたのに、どうして今年だけそうなの。腹が立つ言い訳はやめなさい』
『ああ、やっぱり言い訳だってわかるか』
さすがは葵さんだな、と美和は笑う。その表情にいつもの無駄な明るさがないどころか、沈んでいるように感じ、葵は訝しんだ。
そしてふと気づく。こんなに他人のこと――美和は鬼だが――を推し量ろうとしたことが、生前から数えてもあっただろうか。記憶にない。
『町にいれば、どうしても弟たちに目がいっちゃうから。今年はあんまり、外にいたくないの』
『弟……ああ、あの人間の』
その存在のことは、葵も昔から知っていた。美和は人間として生まれたとき、双子の弟と一緒だった。彼は美和の死後も人間として生き続け、高校を卒業してからしばらく故郷であるこの町を離れたが、昨年の夏に戻ってきた。今は実家の呉服屋を手伝っている。
鬼のくせに実家への思い入れが強い美和は、弟のこともずっと気にかけていた。それなのに、今年は会いたくないのだろうか。では、最近は?
『いつから弟を見ようとしていないの』
『ずっとってわけじゃないんだ。たまには様子を見に行くし、店の手伝いだってする。でもねえ、この時期はちょっと、見てられない』
『どうして』
葵がここまで美和を問い詰めるのも珍しいが、美和から笑顔が消えるのも珍しい。あまりない状況にありながら、ふたりは並んで宙を見る。
『……去年の祭りのあとね、犬が死んだの』
平坦な声で、美和は言う。
『うちで飼ってたわけじゃないよ。でも、弟と幼馴染が、すごく可愛がってた犬。寿命だったってわかってるんだけど、弟も幼馴染も、それ以来いわゆるロスってやつになっちゃって』
『ロス……ああ、喪失感のこと』
『そう。それで、あんなに祭り好きだった二人が落ち込むものだから、なんだかつまらなくなっちゃってさ。私が楽しいと思う夏祭りは、あの二人が笑いながら町を歩いて、みんなに声をかけられてそれに応えて、特設ステージに飛び込んで場を盛り上げるような、そういうものだったから』
今年もそれがなさそうだからね、と目を伏せた美和の横顔を、葵は目の端で見ていた。
人間のことを祭り好きだったと語る美和こそ、この夏祭りが大好きだったくせに。人間と一緒に神輿行列を追いかけ、出店をまわり、花火を見て。葵が人間だった頃より、ずっと楽しんでいたくせに、こんなことで「つまらない」などと思ってしまうのか。
葵は人間だった頃から、礼陣の夏祭りが大嫌いだった。幼かった時分ですら、祭りを楽しいと思ったことはない。祭りの時期は残暑がきつく、体の弱い母がいつも臥せっていたからだ。「葵もお兄ちゃんと一緒にお祭りを見ておいで」と言われても、母の傍を離れたくなくて、行こうとしなかった。
母を置いて友人と祭りに出かけてしまう兄の神経を疑った。笑いながら出店で買ってきたあれこれを母に見せて、溶けかけの氷菓子を食べさせているときだけ、母思いの子供に戻る。そんなずるい兄が嫌いだった。
――葵、お兄ちゃんが買ってきてくれたから、お食べなさい。御仁屋の鈴カステラですって。
そうして母が勧めるから渋々口に含んだ鈴カステラの甘さが、今でもべたついて離れない気がして、葵は唇を噛んだ。
夏祭りは嫌いだ。母と自分を置いて、誰もが何も知らずに笑っている。父と兄は同じ家にいるくせに、何も知らないふりをする。それをよしとするこの町が、心の底から憎かった。
『犬がどうしてそんなに大事にされるの』
黒い鬼の気を纏いながら、葵は呟く。美和は葵に振り向き、それを優しく払うように手をかざした。
『犬……オオカミって名前だったんだけどね。子犬の頃から、弟たちが成長するまで、人間を見守ってくれてたんだ。弟と幼馴染が町を出てからも、家でずっと帰りを待っていてくれたんだよ。大事にされてたのはオオカミじゃなく、周りの人間だったんだ』
そんな犬が死んで、一年経っても悼まれている。互いに愛情とか呼ばれるそういうものを持っていたのだろう。犬の気持ちなど知らないが。
葵の母は、死んですぐに「鬼」という代替品を用意されたというのに。この町で「親を亡くした子供は鬼が守ってくれるようになる」といわれるそのままに、周囲の人間はこぞって母の位置に鬼を、当たり前のように座らせようとした。それが許せなかった。葵が、この町を呪うようになったきっかけだ。
だから鬼は嫌いだ。鬼を崇拝するこの町の人間も嫌いだ。もちろんそこに含まれていた、父と兄も嫌いだった。
『そんなに大事にされてたのに、どうして犬は鬼に成らないのかしら』
皮肉を込めて言った葵に、美和は苦笑する。
『犬は人間ほど、鬼に頼っていないからじゃないかな。この町の人間は、鬼に何でも頼りすぎだよね。きっと犬は、鬼なんか飛び越えて、そのまま自分で神様になっちゃうんだ』
この町の法則なんかに縛られずに。――葵も人間でなければ、大事にされたのだろうか。この町から自由になれたのだろうか。
再び神輿唄がこちらに近づいてきた。大神輿を担ぐ大人たちの声だから、子供のものよりよほど重く響く。この町の、鬼を強く信じている人々のものだ。眉を顰めた葵の肩を、美和が抱いた。
『……何よ』
『何もわからずにただ唄ってる人もたくさんいる。もしかしたら、そういう人が今はどんどん増えてるのかもしれない。あんな唄、無視しちゃえ』
自分も町の人に親しまれている、特に子供の人気が高く名の知られている鬼のくせに、美和は言う。変な鬼だ、と葵は目を細め、美和の手から逃れた。
無視しちゃえ。――あの唄は、葵には関係がないのだから。大鬼の恩などしらない。恨みすらも鬼のかたちにしてこの町に留めおく、あれこそが真の呪い鬼なのではないか。人間たちはそんなことを知らないで、ただ受け継がれている詞を唄っているのだ。
『愚かなこと』
『大抵の人間はそんなものだよ。伝統を重んじるってのは、意外と難しいんだ、きっと。時代は流れるものだし』
流れても残るこの町の大鬼信仰は何なのだ、と葵は思う。疑う者がいないというのは、不気味なことなのだと、どうしてわからない。
また、神輿唄が遠ざかる。

待っててね、と美和が出て行ったかと思うと、かき氷を持って戻ってきた。ただの氷の山のように見えたけれど、曰く、透明なシロップがかかっているらしい。
『結局出店に行ったんじゃないの』
『かき氷だけは食べたかったんだよ。弟が買ってくれたんであって、出店には行ってない』
『弟に会ってるし』
『顔を見ただけが、会ったって言うかな。もう向こうは私の姿が見えないから、会ったことにはならないんじゃない?』
けれどもかき氷は、美和のために用意されたものだ。ストローでできたスプーンで氷の山を崩し、口に運ぶ。
『ねえ葵さん、知ってる? かき氷のシロップってね、色だけが違うんだよ。味は同じなの』
『食べたことないんだから知らないわよ』
『じゃあ今食べてみよう。あーん』
『やめてよ、子供じゃないんだから』
嫌がる葵に、美和は子供のように笑う。見た目は子供ではないけれど、二十近く年の離れた葵からすれば子供みたいなものだ。
『みんな、私のことは美和鬼様って呼んで、葵さんのことは呪い鬼だっていうけど。私たち、同じなのにね。そんなに大鬼様には恩を感じてない鬼。ちょっと強い力を持つ、この町の鬼』
美和だって、呪いを持てば葵のように町全体を災いに陥れられるような、強力な呪い鬼に成る可能性がある。それは大鬼からも言われていることだ。だから呪いはもたないようにと。
でも呪いは、ちょっとしたことで生じる。この町の鬼が不安に囚われ人を恨めば、簡単に呪い鬼になってしまう。元に戻す方法はあるが、少々手荒い。
夏祭りの時期は、呪い鬼は減るという。人間たちの「恩」とやらで守られるらしい。
けれどもそれをもとから感じないのなら、仕方がない。葵は生前から恩を持てなかった。だからいつまでも呪い鬼のまま、この場所に封じられている。
『忘れられちゃえばいいのにね、大鬼の恩なんか』
『……別に、勝手にすればいいわ』
あんまり鬼を否定すると呪いを溜めるわよ、と言った葵に、美和は笑顔を返した。葵さんは優しいね、と言ってくれるのは、母以外には美和だけである。
遠くからは祭囃子、近くには風鈴の音。明日の夜には花火が響く。今年も礼陣の夏が過ぎていく。賑やかに、しかしひっそりと。



続きを読む
posted by 外都ユウマ at 12:45| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする