2017年08月20日

夏祭鬼異譚

鬼は暑さを人間ほどに感じない。けれどもこの薄暗い部屋は、きっとひやりと涼しいのだろうなと思う。
長く人間と一緒に暮らしてきたから、その空気は五感で味わうように伝わるのだ。
『葵さん、こんにちは。今年も夏祭りがやってきたね』
町に響き渡る囃子の笛や太鼓の音色を、美和は楽しく、そして葵は鬱陶しく感じる。うきうきした美和を気だるげに睨み、葵は『そうね』と短く返した。

美和と葵は、若い娘の姿をした鬼である。頭には二本の角、瞳は赤い。この礼陣の町に、彼女らは人間とともに暮らすもう一種類の「ひと」だ。しかしその性質は異なっている。
美和は町を守る鬼。力の及ぶ範囲、この町の中で、人々を慈しみ手を差し伸べる。
葵は町を呪う鬼。力の及ぶ範囲、この町の中の全てを、憎んで恨んでときには命を奪う。
そんなふたりが一緒にいるのは、ほかならぬ美和の酔狂であり、葵の気まぐれであった。封じられている部屋から動けない葵のもとを、美和は足繁く訪れている。
今日、この礼陣の最大の行事、夏祭りの日にでさえ。

夏祭り初日の午前、神輿行列は礼陣神社から始まるが、そこに地区ごとの子供神輿が合流する。小学生までの子供たちが担ぐ小さなものと、それより少しだけ大きな中学生の神輿。高校生以上になると大人たちに混じって、神社の大神輿に加わっている。
神輿行列は神社での祭囃子に見送られて、町中をまわる。そのあいだ、担ぎ手たちは神輿唄を朗々と唄うのだ。
――やまさとに、すみしありたる、れいのたみ。とわにわすれじ、おおおにのおん。
『私、あの唄、大嫌いだわ』
この近所、遠川地区の子供たちが唄う声が聞こえてくると、葵は眉を顰めた。美和はその隣で、神社の社務所から失敬してきた缶ジュースを開ける。
『まあねえ、葵さんは好きじゃないよね。だってあの唄、大鬼様への恩を忘れませんって内容だし』
恩なんて感じてないもんね、と缶に口をつける。ドロッとした温く甘い液体が、口の中に広がった。
『葵さんが呪い鬼になった原因に、感謝なんかできないよね』
『美和は唄える? あの腹立たしい唄』
『詞を覚えちゃってるから、唄うことはできるよ。でも大鬼様に手放しで感謝できるかと言われれば、それはまた別問題かな』
あっさりと答える美和に、葵は目を眇める。優しくはなく、馬鹿にしているのでもなく。ただただ彼女は、美和が不思議なのだ。
『相変わらず変な鬼ね。大鬼のおかげで、あんたはここにいるんでしょうに』
『簡単な話だよ、葵さん。世の中には自分を産んだ親に感謝しなくていい子供がたくさんいる。産んでくれたから敬いましょう、感謝しましょう、なんて単純な話が通るなら、虐待だって容認することになっちゃう。そんなのおかしいでしょ』
『あんたは……。まあ、そうね。私も自分の父親は恨んでたし、殺したし』
神輿唄が少しずつ遠ざかる。離れることなく止まないのは、夏の最後まで生き延びていたセミたちの合唱だ。あれらもじきに死んでいく。かつての美和や葵のように。
美和はこの世に生を受けたとき、人間だった。だがその命は数分ももたず、魂だけがこの世に残った。それを紆余曲折を経て鬼の形にしたのは、この町の持つ法則だ。
葵は二十歳を過ぎるまで人間として生きていた。しかしある大雨の日、山で自動車事故を起こして死んだのだ。もともとこの町に強い恨みを持っていた彼女は、この町の持つ法則に従って鬼と成ったが、その性質は災いをもたらす呪い鬼だった。ゆえに、この場所――自分の生家に封じられている。
この町の持つ法則とはすなわち、人間の魂が肉体を失った後に鬼として再びの生を得ること。通常、人間にその姿は見えなくなるが、この町の人々が鬼の存在を認めているために、「在る」ものとして扱われる。ただし、鬼たちが一度死んだ人間であるということは、あまり知られていない。
人間として生きた時間が極端に短い美和などは、この仕組みに甘んじてもかまわないはずだった。だが、呪い鬼が存在すること、鬼となった魂がこの町に縛りつけられて輪廻に入れないことなどを知るにつれ、彼女もまたこの町の法則に疑問を持ち、その大元となっている大鬼に疑念を抱いていた。
大鬼――鬼の元締め、総大将であるそれは、この町で人間の姿をして暮らしている。礼陣神社の神主として、人間たちとも交流している。千年近い昔から、全く変わらぬ若い男の見た目で。人々は神主は大鬼様であると認識している。
この町は、よそから見れば奇妙なのだ。現代、それを隠すように生きてはいるけれど。
『神輿唄、もうあんまり聞こえないね』
『こっちに行列がまわってきたら、また聞こえるでしょう。ああ、鬱陶しい』
『ちょっとの辛抱だよ、葵さん。私は大鬼様に特別感謝してるわけじゃないけど、人間が元気に楽しそうにしてるのは好きだな』
『あんたは呪いを持っていないから』
疑問はあれども、美和は鬼としてこの町を守っている。それはこの町に、守りたいものがあるからだ。大鬼云々は関係なく、美和が大切に思っているものがある。
葵にはそんなものは何一つとしてない。この町を、力さえあれば壊してしまいたいと考えている。だが、それほどまでの力は、ここ数年で少しずつ削られていた。いや、変質しているというべきか。端的に、美和の気にあてられて、浄化されているのだった。町を恨みに思うことは変わっていないが、放っておいてもどうせいつかは滅びるだろうと、むやみに力をふるうことをしなくなった。
酔狂も、気まぐれも、悪くない方向に働いている。この町にも都合が良いが、それよりもふたりの鬼にとって良かった。
『人間が楽しそうにしているのが好きなら、神輿行列を見に行けばいいのに』
『もう何年も見てきたから、たまには見ない年があってもいいかなと思ってね。それにさ』
美和は言葉を切り、視線を泳がせる。その仕草が妙に人間らしく、葵を苛立たせる。
『それに、何よ』
『夏祭りに行けない葵さんを放っておいて、私だけ楽しむわけにはいかないでしょ』
『今までそうしてきたのに、どうして今年だけそうなの。腹が立つ言い訳はやめなさい』
『ああ、やっぱり言い訳だってわかるか』
さすがは葵さんだな、と美和は笑う。その表情にいつもの無駄な明るさがないどころか、沈んでいるように感じ、葵は訝しんだ。
そしてふと気づく。こんなに他人のこと――美和は鬼だが――を推し量ろうとしたことが、生前から数えてもあっただろうか。記憶にない。
『町にいれば、どうしても弟たちに目がいっちゃうから。今年はあんまり、外にいたくないの』
『弟……ああ、あの人間の』
その存在のことは、葵も昔から知っていた。美和は人間として生まれたとき、双子の弟と一緒だった。彼は美和の死後も人間として生き続け、高校を卒業してからしばらく故郷であるこの町を離れたが、昨年の夏に戻ってきた。今は実家の呉服屋を手伝っている。
鬼のくせに実家への思い入れが強い美和は、弟のこともずっと気にかけていた。それなのに、今年は会いたくないのだろうか。では、最近は?
『いつから弟を見ようとしていないの』
『ずっとってわけじゃないんだ。たまには様子を見に行くし、店の手伝いだってする。でもねえ、この時期はちょっと、見てられない』
『どうして』
葵がここまで美和を問い詰めるのも珍しいが、美和から笑顔が消えるのも珍しい。あまりない状況にありながら、ふたりは並んで宙を見る。
『……去年の祭りのあとね、犬が死んだの』
平坦な声で、美和は言う。
『うちで飼ってたわけじゃないよ。でも、弟と幼馴染が、すごく可愛がってた犬。寿命だったってわかってるんだけど、弟も幼馴染も、それ以来いわゆるロスってやつになっちゃって』
『ロス……ああ、喪失感のこと』
『そう。それで、あんなに祭り好きだった二人が落ち込むものだから、なんだかつまらなくなっちゃってさ。私が楽しいと思う夏祭りは、あの二人が笑いながら町を歩いて、みんなに声をかけられてそれに応えて、特設ステージに飛び込んで場を盛り上げるような、そういうものだったから』
今年もそれがなさそうだからね、と目を伏せた美和の横顔を、葵は目の端で見ていた。
人間のことを祭り好きだったと語る美和こそ、この夏祭りが大好きだったくせに。人間と一緒に神輿行列を追いかけ、出店をまわり、花火を見て。葵が人間だった頃より、ずっと楽しんでいたくせに、こんなことで「つまらない」などと思ってしまうのか。
葵は人間だった頃から、礼陣の夏祭りが大嫌いだった。幼かった時分ですら、祭りを楽しいと思ったことはない。祭りの時期は残暑がきつく、体の弱い母がいつも臥せっていたからだ。「葵もお兄ちゃんと一緒にお祭りを見ておいで」と言われても、母の傍を離れたくなくて、行こうとしなかった。
母を置いて友人と祭りに出かけてしまう兄の神経を疑った。笑いながら出店で買ってきたあれこれを母に見せて、溶けかけの氷菓子を食べさせているときだけ、母思いの子供に戻る。そんなずるい兄が嫌いだった。
――葵、お兄ちゃんが買ってきてくれたから、お食べなさい。御仁屋の鈴カステラですって。
そうして母が勧めるから渋々口に含んだ鈴カステラの甘さが、今でもべたついて離れない気がして、葵は唇を噛んだ。
夏祭りは嫌いだ。母と自分を置いて、誰もが何も知らずに笑っている。父と兄は同じ家にいるくせに、何も知らないふりをする。それをよしとするこの町が、心の底から憎かった。
『犬がどうしてそんなに大事にされるの』
黒い鬼の気を纏いながら、葵は呟く。美和は葵に振り向き、それを優しく払うように手をかざした。
『犬……オオカミって名前だったんだけどね。子犬の頃から、弟たちが成長するまで、人間を見守ってくれてたんだ。弟と幼馴染が町を出てからも、家でずっと帰りを待っていてくれたんだよ。大事にされてたのはオオカミじゃなく、周りの人間だったんだ』
そんな犬が死んで、一年経っても悼まれている。互いに愛情とか呼ばれるそういうものを持っていたのだろう。犬の気持ちなど知らないが。
葵の母は、死んですぐに「鬼」という代替品を用意されたというのに。この町で「親を亡くした子供は鬼が守ってくれるようになる」といわれるそのままに、周囲の人間はこぞって母の位置に鬼を、当たり前のように座らせようとした。それが許せなかった。葵が、この町を呪うようになったきっかけだ。
だから鬼は嫌いだ。鬼を崇拝するこの町の人間も嫌いだ。もちろんそこに含まれていた、父と兄も嫌いだった。
『そんなに大事にされてたのに、どうして犬は鬼に成らないのかしら』
皮肉を込めて言った葵に、美和は苦笑する。
『犬は人間ほど、鬼に頼っていないからじゃないかな。この町の人間は、鬼に何でも頼りすぎだよね。きっと犬は、鬼なんか飛び越えて、そのまま自分で神様になっちゃうんだ』
この町の法則なんかに縛られずに。――葵も人間でなければ、大事にされたのだろうか。この町から自由になれたのだろうか。
再び神輿唄がこちらに近づいてきた。大神輿を担ぐ大人たちの声だから、子供のものよりよほど重く響く。この町の、鬼を強く信じている人々のものだ。眉を顰めた葵の肩を、美和が抱いた。
『……何よ』
『何もわからずにただ唄ってる人もたくさんいる。もしかしたら、そういう人が今はどんどん増えてるのかもしれない。あんな唄、無視しちゃえ』
自分も町の人に親しまれている、特に子供の人気が高く名の知られている鬼のくせに、美和は言う。変な鬼だ、と葵は目を細め、美和の手から逃れた。
無視しちゃえ。――あの唄は、葵には関係がないのだから。大鬼の恩などしらない。恨みすらも鬼のかたちにしてこの町に留めおく、あれこそが真の呪い鬼なのではないか。人間たちはそんなことを知らないで、ただ受け継がれている詞を唄っているのだ。
『愚かなこと』
『大抵の人間はそんなものだよ。伝統を重んじるってのは、意外と難しいんだ、きっと。時代は流れるものだし』
流れても残るこの町の大鬼信仰は何なのだ、と葵は思う。疑う者がいないというのは、不気味なことなのだと、どうしてわからない。
また、神輿唄が遠ざかる。

待っててね、と美和が出て行ったかと思うと、かき氷を持って戻ってきた。ただの氷の山のように見えたけれど、曰く、透明なシロップがかかっているらしい。
『結局出店に行ったんじゃないの』
『かき氷だけは食べたかったんだよ。弟が買ってくれたんであって、出店には行ってない』
『弟に会ってるし』
『顔を見ただけが、会ったって言うかな。もう向こうは私の姿が見えないから、会ったことにはならないんじゃない?』
けれどもかき氷は、美和のために用意されたものだ。ストローでできたスプーンで氷の山を崩し、口に運ぶ。
『ねえ葵さん、知ってる? かき氷のシロップってね、色だけが違うんだよ。味は同じなの』
『食べたことないんだから知らないわよ』
『じゃあ今食べてみよう。あーん』
『やめてよ、子供じゃないんだから』
嫌がる葵に、美和は子供のように笑う。見た目は子供ではないけれど、二十近く年の離れた葵からすれば子供みたいなものだ。
『みんな、私のことは美和鬼様って呼んで、葵さんのことは呪い鬼だっていうけど。私たち、同じなのにね。そんなに大鬼様には恩を感じてない鬼。ちょっと強い力を持つ、この町の鬼』
美和だって、呪いを持てば葵のように町全体を災いに陥れられるような、強力な呪い鬼に成る可能性がある。それは大鬼からも言われていることだ。だから呪いはもたないようにと。
でも呪いは、ちょっとしたことで生じる。この町の鬼が不安に囚われ人を恨めば、簡単に呪い鬼になってしまう。元に戻す方法はあるが、少々手荒い。
夏祭りの時期は、呪い鬼は減るという。人間たちの「恩」とやらで守られるらしい。
けれどもそれをもとから感じないのなら、仕方がない。葵は生前から恩を持てなかった。だからいつまでも呪い鬼のまま、この場所に封じられている。
『忘れられちゃえばいいのにね、大鬼の恩なんか』
『……別に、勝手にすればいいわ』
あんまり鬼を否定すると呪いを溜めるわよ、と言った葵に、美和は笑顔を返した。葵さんは優しいね、と言ってくれるのは、母以外には美和だけである。
遠くからは祭囃子、近くには風鈴の音。明日の夜には花火が響く。今年も礼陣の夏が過ぎていく。賑やかに、しかしひっそりと。



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2017年04月02日

鬼の娘の帰宅

僕には娘がいたことがない。息子だって、実の息子ではなく、正確には甥だ。
女の子がうちにまったく出入りしなかったわけではない。なにしろうちは剣道場で、子供たちを集めて稽古をしている。その中には女の子だっているのだ。
それに昔は、――そう、だいぶ昔のことになってしまったけれど、僕には妹がいた。気は強く、けれども人嫌いで、この町も出られるようになったら出て行ってしまった妹。彼女はもう、生きてはいない。
そういうわけでこの家に女の子が住むことは長らくなかったのだが、このたび、新たに入居することとなった。
「本日よりお世話になります。よろしくお願いいたします」
育ちが良いことは、彼女を見ても、彼女の父――唯一の家族だった――を見ていてもわかる。大切にされてきた娘さんを、はたして僕が預かっても良いものか。
いや、もう議論はし尽くした。彼女の父親が家を手放してこの国を離れ、彼女がこの町に残ると決めた以上、住む場所は必ず必要だ。そしてそれは、妹が生きていればこの家だったかもしれないのだ。
園邑千花。彼女には僕と同じ血が流れている。彼女は、僕の姪である。

事情は少々複雑だ。そして多分、普通ではない。
僕が育てた甥、いや息子は、もとはといえば妹の子だ。僕の知らない人との間にできた子を、妹が連れ帰って、この家に置いていった。それからは僕の子として育てていた。
その次の年に、妹は事故で命を落とした。だが、その直前に出産していたらしいのだ。生まれたはずの子供がどうなったのか、それから十五年はわからなかった。しかし、本当はすぐ近くにいたのだ。
乳児は同じ町の夫婦の手に渡り、育てられていた。育ての母は早くに亡くなったそうで、父が一人で彼女の成長を見守り続けてきた。彼にとって、突然に授かった子は、大切な宝だった。
まさか僕の息子として育った海と、よその娘として育った千花さんが、高校で出会い恋愛関係になるなんて、誰も予想できなかったことだった。
海と千花さんは自分たちが本当は兄妹であるということを知ってもなお、付き合い続けることを選んだ。そしてあろうことか、大学を卒業し、父とも離れなければならなくなった千花さんを、僕のところに住まわせるという提案をしてきたのだ。
もちろん話し合いは、家族ぐるみで慎重に進めた。本人たちの意志が固く、改めるつもりなど全くないということがわかってしまってからは、僕も園邑さんも何も言葉を返すことができなかった。
元はと言えば、彼らが兄妹であることを知ってからも隠し続けた、僕らに非があった。子供たちは十分に悩み苦しんで、乗り越えようとしたのだ。
僕らはその責任をとらなければならなかった。これがそれにあたるかは、まだわからないけれど。

「千花さんにはこちらの部屋を使っていただきます。客間ですが、今日からはここがあなたの部屋ですから、自由にしてください」
この家は広い。空いていた部屋に彼女を通すと、「ありがとうございます」と丁寧に頭を下げ、持参した荷物を広げ始めた。そして、ふと手を止める。
「先に運んでいただいた荷物は、どちらに?」
「ああ、まだ部屋に入れていなかったんです。先に入れておくべきでしたね」
「いいえ、あまりお手を煩わせてもいけませんから。どうせ本や洋服ばかりなので、とくに急ぐこともありません」
にっこりと笑う彼女は、妹に――葵に似ているような気もするし、そうでもないようにも思う。なにしろ葵が笑ったのを見たのは、子供の頃以来だ。まだ僕らの母親が生きていた頃。それは随分と遠い日で、僕の記憶にはほとんど残っていなかった。
千花さんはすでに二十二歳。今年で二十三歳になる。幼い葵の面影を重ねられないのも、当然のことだった。ただ、海によれば、声は似ているのだという。
海は葵を知っている。葵は人間としては死んでしまったけれど、鬼になってこの世に留まっているのだ。強くこの家と町を呪う、呪い鬼として。普段、彼女はこの家に封じられている。海は葵と関わることのできる鬼の子だが、彼女のことを憎んでいた。
それでも千花さんを選んだのだ。彼女を愛しいと思って。ずっとそばに置くつもりで。
「はじめ先生、どうかしましたか? まだ、私を住まわせること、迷ってます?」
我に返ると、千花さんが僕の顔を覗き込んでいた。僕は驚きを表さないようにして、首を横に振る。
「いいえ、なんでもありません。それより、先に食事にしましょう。手伝っていただけますか」
「もちろんです。私がお役に立てるかどうかはわかりませんが……」
料理は苦手で、と言う彼女に、大丈夫ですよ、と笑う。なんとか笑ったつもりだ。
千花さんは葵には似ていないかもしれない。けれども、母には似ているような気がした。

海はまだ学生だ。今年が最後の年になる。だから千花さんと二人の生活は、これから一年だけ。
そのあいだに慣れておかなくてはならない。僕も、彼女も。
道場をやっていることもあって、この家の生活は少々変わっている。それを千花さんに教え、僕も千花さんのことを知らなければならない。なにしろ今まで暮らしてきた環境が大きく違うので、生活の齟齬は必ず生じるだろう。
そう思っていたのだが、千花さんはすでに海からこの家のことをよく聞いているようで、家の前や道場の掃除のことも、多くの人が出入りする都合も、こちらが思っていた以上に把握していた。
「海さんのお部屋は掃除しておかなくて大丈夫なんでしょうか」
「したほうがいいけど、たまにでいいですよ。本人が触られたくないものもあるかもしれないので」
「触られたくないものって何でしょう? 興味あります」
そして僕に対しても、あまり遠慮がなかった。戸惑っているのは僕ばかりのようだ。
女の子にどう接していいかわからないので、千花さんが来る直前は須藤家に通い詰めて相談をしたりもしたものだけれど、そういえばそのたびに、春さんに叱られたっけ。
――はじめ先生、千花ちゃんなら大丈夫です。そんなに心配しすぎたら、千花ちゃんが過ごしにくいですよ。決めたのならしっかりしてください。
そう言う春さんは、すでに自宅に同居人を入れるための準備を進めていた。須藤さんの家も、春さんの結婚を機に環境が変わるのだ。早すぎるような気もするのだけれど、結婚。
「はじめ先生」
「はい、なんですか」
「先ほどから、度々遠い目をされるので。やっぱり、私が来るのはご迷惑だったのでは」
千花さんが申し訳なさそうに僕を見る。いけないいけない、春さんの言う通り、しっかりしなければ。僕が彼女と二人で暮らすのは、海が帰ってくるまでだ。それまで気を確かにして、落ち着いて対応していれば、きっと僕も慣れるはず。
「迷惑ではないですよ。葵が今も生きていれば、千花さんはここで育ったかもしれないんですから」
「葵さんが……。そうですね、葵さんは私を手放すためにこの家に向かう途中で事故に遭ったのでは、と言われているのでしたね」
いけない、話題を間違えた。僕が別の言葉を探していると、千花さんは何故かちょっと笑った。笑う要素なんて、どこにあっただろう。
「あ、すみません。実は以前、私も葵さんに会おうとしたことがあったんです。まだ葵さんが私を産んだ人だと知らない頃ですが」
知らなかった。それに、彼女は葵に会えるのだろうか。おそるおそる、僕はもう一度口を開く。
「……千花さんは、まだ鬼が見えるんですか。海のように」
「いいえ、私は高校生の頃にはほとんど見えなくなっていました。春ちゃんと同じです。たぶん、葵さんのことも見えないと思います」
親を亡くした子を、この町では「鬼の子」と呼ぶ。鬼が親代わりとなって、子供の前に姿を現すからだ。僕と葵もそうだった。小学生の頃に母を亡くし、しばらくは鬼が見えていた。
ただ、僕は高校生になる頃にはあまり鬼を見ることはできなくなり、葵は鬼を見続けていた。鬼を嫌っていた葵のほうが、鬼の子としての力は強かったのだ。その力はどうやら海に受け継がれたようで、海は二十四歳になろうとしている今でも、礼陣に帰れば鬼を見る。
千花さんは葵よりも僕寄りだったのかもしれない。ごく一般的な、年齢を重ねれば自然と鬼を見ることがなくなる鬼の子。兄妹だと力が偏るのだろうか。
「見えないとわかっていて、どうして会おうと?」
「海さんのお母さんだから、ですかね。あの人は頑なに認めようとしなかったけれど、血が繋がっているのはたしかです。私は、両親と血縁にありませんから。勝手に羨ましがっていたのかもしれません」
たとえそれが呪い鬼でも、千花さんにとって葵は海の母に違いなかった。けれども、海はそう思ってはいなかったから。
「会おうとして封印の部屋に行こうとしたら、怒られてしまいました。危ないからって」
「そうですね。……今の葵は、普通の人間が近づいても危険です。そうしてしまったのは、僕ですが」
葵の呪いは僕らが彼女の味方をしなかったから生じたものだ。彼女の悲しみを理解しようとしなかったからああなってしまったのだ。最初から葵についててやったなら……とは、何度も思ったことだった。
「はじめ先生のせいじゃない……なんて無責任なこと、私には言えません。でも、あんまり自分を責めていはいけないと思いますよ。だって、葵さんがこの町を恨むことがなければ、海さんや私はいなかったかもしれないんですから」
もう考えても仕方ないことです、と千花さんははっきり言った。僕よりも、海よりも、毅然とした態度。これは育て親のおかげだろう。
「千花さんは、葵を母親だと認めてるんですか?」
「産みの親であることはきっと事実なんだろうなと思っています。でも、私が母と呼ぶのは、私を育てると決めた人だけです。葵さんは、葵さんです」
そしてこういうところは、少し海に似ているな、と思う。

千花さんと二人の夕食は、静かなものになるだろうと思っていた。けれども千花さんがあれこれと話してくれたおかげで、寂しくはなかった。話題の引き出しが多いのは、ラジオに関わっている人間だからだろう。常に話すことを考えているのだ、この子は。
「千花さんはお父さんとも、こうしてお喋りを楽しみながら食事を?」
「それができればよかったんですけど。父は仕事が忙しくて、あまり一緒に食事をすることがなかったんです。ご飯はもっぱらお隣の、葛木さんのお家でいただいていました。お喋りが多いのも、葛木さん一家のおかげです」
そういえばそうだった。しかし、僕の失言を千花さんは気にせず、笑顔で応じてくれるのだった。そしてまた楽しい話を始める。海も、彼女との会話は楽しいだろう。
なにしろ僕も海も、あまり話すのは得意ではない。葵もそうだった。……いや、葵はきっと、言いたいことがあっても言えなかったのだろう。話す相手がいなかったのだ。
千花さんなら、葵と話せただろうか。まだ、彼女に葵が見えたなら。
「……千花さん。良かったら、葵の部屋の前でも、何か話してやってくれませんか。僕らにはできなかったことを、君なら……」
ずるいことだとわかっている。僕がこれまで逃げてきたことを、来たばかりの彼女に押し付けようとしている。それでも千花さんは、嫌な顔一つしなかった。
「お話しても、いいんですか? 葵さんと?」
「ええ、ぜひ。部屋の中は危ないので、外から話しかけることになりますが」
「もうあんまり危なくないって、春ちゃんからは聞いてますよ。呪いは弱くなっているって」
そうらしい。けれども、僕にはそれがわからないから、正しい判断ができない。それに葵は、まだ僕を恨んでいるはずなのだ。
「……ねえ、はじめ先生。一年かけて、一緒にやりませんか」
「一緒に?」
「葵さんの呪いを弱めるんです。一緒にお話するんです。お兄さんのあなたが、諦めちゃだめですよ。それじゃあ、葵さんが生きてた頃の繰り返しになってしまいます」
千花さんが微笑む。この子は、どこまで知っているんだろう。きっと春さんや海が、話せることは全て話したのだ。そうして千花さんは、進道の家に入ることを決めたのだ。
「この町には鬼がいる。……人が不慮の死によって鬼と成り、第二の人生を生きる。やり直しがきくんです、それを利用しないでどうするんですか」
可愛らしく儚い、花のような外見で、なんてしたたかな子だ。
彼女は確かに礼陣の子だった。
「だから、一緒にお話しましょうね。一年かけて、ゆっくりと」
彼女の存在で、進道の家は変わる。臆病だった僕らを、彼女が支えてくれる。
僕は彼女を支えられるよう、この家の長として、立っていなければならない。海が帰ってくるまで。

進道家に、この家の血を引く女性が帰ってきた。



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2017年03月04日

赤青メゾネットシェア

 築十年、一棟三戸のメゾネット。リノベーション済みで内装もきれい。一階にリビング、キッチン、風呂とトイレがあり、二階に洋室が二つ。これで家賃五万円に共益費が月二千円。水道代が定額。通信費は不動産屋での契約時にサービスで割安に。先立つものが少なく済むのはありがたいし、このあたりの相場からいってもこれはたぶんお得。近くに学校があるから、学生向けのシェア可能な物件として出しているのかもしれない。
 しかし、実際に住んでいるのはそんな時代なんぞ終えてしまった人間だったりする。すまない、学生諸君……。
「こきひ。こきひってば。何寝ぼけてんの、今日出勤じゃなかったっけ」
「……しゅっきん? はなちゃん、今何時?」
「七時半」
 うぇあ。土曜日だからアラーム鳴らなかったんだ。いつもなら休みだものね、土曜日。跳ね起きたわたしの奇声も慣れたもので、はなちゃんは開けたカーテンをタッセルでくるりとまとめている。飾りのビーズが、朝日を反射して輝いた。
「はなちゃん、起こしてくれてありがとう! はなちゃんいなかったら遅刻だったよ!」
「いいから、朝ご飯食べな。もう下に用意してある」
「何から何までありがとう!」
 どたどたと階段を駆け下りても、階下の人に怒られることはないというのがメゾネットのいいところだ。もしかしたら隣の人には迷惑をかけているかもしれないけれど、苦情は今のところはない。
 リビングに用意してあったトーストにミニオムレツをのせ、ケチャップをかけて頬張る。オムレツはチーズ入りで嬉しい。食べながら、ハンガーにかかっているブラウスにアイロンがかけてあることを確認する。昨日の夜、きちんと準備したはずなのに、目覚ましのアラームだけを忘れたらしい。二度寝の癖があるわたしは、アラームをかけていても時々寝坊するのだけれど。
「帰りに玉子と台所用洗剤買ってきてくれる?」
「オーケー! でも一応メッセージ送っといて!」
「スマホ忘れないようにね」
 ベッドの上に置きっぱなしだったスマホは、いつのまにかテーブルに移動していた。はなちゃんが持ってきてくれたのだ。支度を超高速で終わらせ、スマホを引っ掴んでポケットへ。
慌ただしい朝でも、玄関での儀式は忘れない。
「いってきます、はなちゃん」
 見送りに出てくれた彼女に抱きつかないと、わたしの気力はフルチャージできない。呆れたような「いってらっしゃい」がないと、職場までダッシュする気にならない。
 まあつまり、わたしとはなちゃんは、少なくともわたしは、はなちゃんにラブラブなのである。すまない、真面目な学生諸君。

 わたし、南瀬深緋と同居人の北杜縹が知り合ったのは、就職活動中のことだった。とある企業の書類選考を突破した先の一次面接日、それがわたしたちの運命の日だ。
 まったく通過できる気配のない散々な面接を終えたわたしは、会社のロビーで転んで鞄の中身をぶちまけた。周りの人にも笑われて、人生最悪の日だと泣きそうになったそのとき、助けてくれたのがはなちゃんだった。黙って素早くわたしのノートやらペンケースやらを拾い、差し出してくれた姿はさながらリクルートスーツの女神だった。彼女を追いかけて社屋を出たわたしは、すぐにアタックを仕掛けたのである。――お礼がしたいので、もし時間があったらお茶でもしませんか。
 今思い出しても恥ずかしいほどの勢いを、はなちゃんは「次の面接まで少し時間があるから」と受け止めてくれた。そうして近くにあった喫茶店に入り、自己紹介と、連絡先の交換をしたのであった。これからも一緒に就職活動頑張りましょう、とそう言ってその日は別れた。でも、わたしはそれ以降、はなちゃんのことで頭がいっぱいだった。就職活動の進捗状況報告にかこつけて、毎日メッセージを送るくらいには。
「北杜さん」が「縹ちゃん」になり、ついに「はなちゃん」と自然に呼べるようになった頃、わたしたちにそれぞれ内定が出た。結局、出会ったところは二人とも不採用で、それぞれ別の企業、別の業種に就くことになったのだが、それからがミラクル。なんとわたしたちを採用した会社は、同じ町にあったのである。社屋の距離もそう遠くはなかった。そもそも同じ圏内で就職活動をしていたのだから、そういうこともあり得るのだろうけれど、わたしにとってはこの上ない幸運で、口実だった。
「はなちゃん、春から一緒に暮らそうよ。同じ部屋借りて、二人暮らししよう」
 さすがにこのメッセージを送るときは緊張した。スマホの画面に指先を近づけたり離したりして、やっとのことで送信アイコンをタップした。けれどもそんなわたしの気持ちなどつゆ知らず、はなちゃんの返事はあっさりしたものだった。
「それいいね。家賃折半できたらありがたい」
 当時、わたしは実家暮らし、はなちゃんはひとり暮らしをしていた。どちらも会社には少し遠く、これを機に引っ越した方がいいかもね、なんて話は出ていたのだ。ルームシェア可能な物件を探し、二人で待ち合わせて内見に行き、惚れ込んだのが現在の住居。二人の意見が一致して、めでたく同居することになった。
 それからわたしとはなちゃんのラブラブ生活が幕を開けたわけだけれど。まさかわたしが就活中から片思いしていたなんて、はなちゃんは思うまい。


 休日出勤のこきひの代わりに、家事の一切をやるのが、今日の私の仕事だ。買い物だけは頼んでしまったけれど、やはり忘れそうなのでメッセージも送っておく。彼女は出会いからそそっかしい。床に鞄の中身を散らかして、真っ青な顔をして座り込んでいたのを見たときから、放っておけなかった。その時点では、まだ友達になるとも考えていなかったのに、いつのまにか一緒に暮らしている。わからないものだ。
 メッセージを送信して思い出すのは、一緒に暮らそうと、こきひに誘われたときのことだ。何度も連絡を取り合って、お祈りメールが届けば慰め合い、内定が出ると喜び合った。その延長線上に、寝食を共にする未来があろうとは。
 引っ越してきた当日。私が部屋の鍵を受け取り、家電を先に運び入れ、あらかじめ決めておいた部屋に自分の荷物を置き始めてから、こきひはようやく現れた。引っ越し業者の忙しいシーズンで、こきひの荷物は翌日にまわされていた。「布団もないんだよね」と困ったように笑うこきひと、その日の晩は一つの布団で寝た。騒々しいわりに、寝相は良かった。
 思えば引っ越してくる前、こきひと直接会ったのは初対面のときと部屋の内見のときの二回きりだった。どちらのときも感情の起伏が激しかったし、メッセージも絵文字顔文字スタンプのオンパレードだったので、とても賑やかな子だと思い込んでいた。それが一緒に暮らし始めて、何か違うな、と感じた。
 一度何かにのめり込むと、こきひはとんでもなく静かになる。まるでそこにいないみたいに気配を潜める。仕事が始まるまでの数日、家事を分担してやっていたときのこきひは真剣そのもので、黙っていたと思ったら掃除や料理が済んでいた、ということが続いた。
「意外と静かだね」
 そう指摘したら、手をばたばたさせたり目をきょろきょろさせたり、途端に存在感を発揮し始めた。
「あー、えっと、実はわたし、あんまり喋るの得意じゃなくて。はなちゃんと顔合わせてて、変なこと口走ると困るから、おとなしくしようって思ってたんだけど」
「そんなに変なこと考えてるんだ?」
「あんまりつっこまないでー……」
 画面上の会話とは、また違った可愛さ。会わない間は今時の女の子だと思っていたけれど、会ってみるとまるで妹のようで。それも甘えたな末っ子だ。かといって私がなんでもかんでも世話をする必要はなく、互いに立ち入りすぎなければ楽しい生活ができるだろうと思っていた。
 実際、こきひとの暮らしにはあまり不満はない。スキンシップ過多ではあるけれど、すっかり慣れてしまった。私もそれを面白がっているところがある。
「こきひ、ちゃんとお金持ってるかな」
 独り言を呟いて、「余裕があったらお酒もお願い」とメッセージを追加すると、まもなくして了解を表すスタンプが返ってきた。尻尾をぶんぶんと振る犬のイラストに、こきひらしさを見た。


 はなちゃんとの宅飲みは控えめ。わたしと二人で、缶チューハイ二本で済む。引っ越してきてから初めて一緒にお酒を飲んだ日、お互いあまり飲めなかったのだ。わたしは胸がいっぱいで入らなかっただけなのだけれど。本当はもっと飲めるのに、その後もはなちゃんに合わせるようにしていたら、自然と飲酒量は減った。
 限定品を見つけてかごに入れ、頼まれたものを再度確認。玉子と洗剤も忘れていない。ミッションを終えたら、はなちゃんに会える。毎日それが楽しみで、仕事を乗り越えているのだ。
「ただいまー」
「おかえりー」
 家に帰ってきたときにただいまを言える相手がいるのが嬉しい。それに夕飯の匂い。はなちゃんが作る料理は、簡単なものから手の込んだものまで全部美味しい。全世界に自慢したくなるけれど、はなちゃんをとられてしまうのが嫌だから、本人以外の誰にも言っていない。
「お疲れ。買い物ありがとう」
「どういたしまして。お酒もあるよ」
「うん、ゆっくり晩御飯にしようか。ドラマの録画でも見ながら」
 はなちゃんと過ごす時間が好きだ。ご飯を食べながらお酒を飲み、ドラマを観て笑うはなちゃんが好きだ。はなちゃんと暮らせて良かった。一日の終わりには、必ずそう思う。
 わたしが好きでいることを許してくれるはなちゃん。たぶん、妹を可愛がる感覚なんだろう。触れるのを嫌がらないのは、はなちゃんが「そういう扱い」に慣れているからだ。でも、大きく見て愛だと思っていいよね。勝手に思っちゃう。だからわたしとはなちゃんはラブラブなのだ。
 できれば長く、この生活が続きますように。そう願ってやまない、わたしの毎日。はなちゃんはどう思っているんだろう、ってときどき考えるけれど、怖くなってすぐやめる。
 わたしはまだまだ、この幸せな日々に浸っていたいのだ。



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2017年01月08日

終の話

「馬子にも衣裳とはよく言ったもんだな」と笑われるか、「似合ってるよ、綺麗だ」と微笑みつきで言われるか、どちらが耐えられないだろう。それぞれの性格をよく知っていれば、「そりゃどうも」とかわせるのだが。
「私、吉崎君にそんなこと言われたらショックで帰る。かといって綺麗だとか言ってくれる人でもないけど」
伸ばした髪を巻きながら、紗智が言う。その隣ですでに巻いた髪をさらに盛っている結衣香が、明るく笑った。
「さっちゃんには綺麗って言うんじゃない? そこまで言えなくても、似合うとは言ってくれると思うな。だってこんなに可愛いんだし」
ねえ? と投げかけた言葉を、やつこがキャッチして大きく頷く。こちらはちょうど支度が終わり、友人二人を待っているところだ。
橙色も鮮やかな晴れ着は、父が生前に娘に着せたいと願っていたものだそうだ。母が着ていたものを、丁寧に手入れして、受け継いだ。やつこが小学生になる前に亡くなった父だが、十五年後を見通す千里眼でも持っていたのか、晴れ着はまるでやつこのためにあつらえられたもののようだった。
「さっちゃんもゆいちゃんも綺麗だから、雄人も透君も感動するんじゃない? 二人の顔を見るのが楽しみだなあ」
「やっこちゃんもだよ。綺麗なんだから、今日は飲みすぎて人に絡みすぎないようにね」
「警察官が騒ぎ起こしちゃ世話ないし」
「くれぐれも気をつけます。……あ、ゆいちゃん、飛鳥兄ちゃんに写メ送らなくていいの? わたし撮るよ。さっちゃんもお姉さんに送るんだよね」
「完成してからお願いするね。どうせお兄ちゃん、あとで見るし」
「私もできてから」
先輩たちも通ってきた、礼陣の町の成人式。町に元子供たちが大人になって帰ってくる日だ。

「お、やっこじゃん。まさに馬子にも衣裳だな、とても心道館最強の称号を持つ女とは思えない」
雄人が予想通りの第一声を発してくれたので、やつこは予定通りに「そりゃどうも」という台詞と肘鉄をくらわせる。呻く雄人を紗智が心配そうに見て、結衣香は大笑いしていた。
「お前な、人の新品のスーツに何してくれるんだよ」
「そっちこそ何てこというのよ。お父さんが絶対に似合うって予言した晴れ着なんだからね」
「だから晴れ着は立派だって。宮川と志野原はその点、ガワと中身が伴ってて完璧だな。さすが北市女の大和撫子」
褒めているのだろうが、紗智は微妙な笑顔を浮かべていた。それはそうだろう、雄人は真っ先にやつこを見つけて、コメントをしたのだ。紗智と結衣香はいっしょくた。小学生の時から想い続けて、どうしてこんなに届かないものか。
もう嫉妬でやつこを逆恨みするほど子供でもないけれど、今でも悔しいものは悔しい。
「吉崎君は相変わらずだね。いつまでたっても子供っぽいんだから。それより鹿川君は? まだ来てないの?」
ちょっと呆れながら結衣香が尋ねると、それがさあ、と溜息交じりの声が返ってくる。
「待ち合わせの時間、間違って送ってて。十分後の予定だから、あと五分くらいで来るんじゃねえ?」
「バカじゃないの、雄人。何が連絡は抜かりないぜ任せとけ、よ。やっぱりグループでメッセージ流しとけばよかった」
剣道の試合になると人が変わったように真剣になる雄人だが、それはつまり普段は頼りないということだ。いや、紗智や後輩たちに慕われているから、全く頼りがいがないわけではないだろう。だが少なくとも、やつこにとっては残念な同級生なのだった。
「来ないわけじゃないんだからいいだろ。そんなに言うならやっこがもっと透と連絡とってれば。あいつ、オレと話してるときもやっこのことばっかり気にしてんだぞ」
「わたしは仕事が忙しいの。このご時世、お巡りさんが勤務時間中にスマホばっかり見てたら、すぐに問題にされちゃうんだから。この町の人ならまだしも、よその人に見つかったら大変だよ」
仕事を楯にごまかしたが、気にされているのが問題なのだ。結衣香と紗智の視線も刺さり、やつこは人混みへと目を逸らす。
待っている姿はまだ見えない。どこかで迷っているのかもしれない。彼は雄人と違ってしっかりものだが、混雑した場所は苦手なのだ。この田舎の生まれではなく、いくらか都会の隣町からやってきたというのに。
「本当に十分だけ間違えたの? もっと間違えてるんじゃないでしょうね」
「十分だけだって。だからさ、やっこはここで待っててやれよ」
「はあ?」
訝しんで振り向くと、にやにやする雄人と、合点がいったというように顔を見合わせて頷く結衣香と紗智。待ち合わせ時間を遅らせたのはわざとか、ということに思い至ったときには、三人はやつこを残して公民館へ向かっていた。
「ちょっと、それはないんじゃないの……ゆいちゃんとさっちゃんまで……」
裏切られた、とまでは思わない。たぶんこれは、雄人が透に気を遣ったのだろう。やつこの気持ちは棚か天井裏にでも放り投げて。こっちにはこっちの事情があるということを、わかっていないはずはないと思うのだが。
「まいったなあ……」
透と会いたくないわけではない。むしろ友人としてなら会いたい。直接連絡するのを避けていたのは、透に自分のことを自然に諦めてほしかったからだ。避けた時点でそれは不可能だということに、もっと早く気づいていればよかった。

そう待たずに、透はやつこだけが残る待ち合わせ場所にやってきた。「久しぶり」と挨拶を交わしてから、周りをきょろきょろと見回す。どうやらこの状態は、雄人単独での企みらしい。
「みんなはもう中に。たぶん席取っといてくれてると思う」
「もしかして待たせすぎた? やっぱりもっと早く出てくるべきだったかな」
「雄人が言った時間通りなら、問題ないんじゃない。わたしたちも早く行こう」
一刻も早く、二人きりの状況から脱したかった。何でもないように振る舞えたら、それこそ試合のときのような凪いだ心を保てたらいいのに、透を目の前にするとどうしても意識してしまう。
これが恋なんて可愛いもので済めばいいのだけれど、そうもいかないから困っている。詰めてくる距離を早足であけて、このまま遠ざかってくれればと願う。周りが思うより、事態は深刻なのだ。
「待てよ、やっこ」
「寒いからあんまり待てないよ。それにさあ、帯だけじゃなくて、内側にタオルとかいっぱい入れてるから重いんだよね。頭もこれでもかってくらい盛られたし」
「大変だな。でも、その恰好ってことは嫌じゃないんだろ。やっこなら、本当に嫌なことはしない」
背中を追いかけてくる言葉が刺さる。嫌なことはしたくない。それはやつこに残った我儘な部分で、大人になりきれていないところなのかもしれない。年齢を重ねて、この町に住む鬼たちが見えなくなって、それでもまだ自分が大人だとは思えない。
「……たしかに、嫌ではないよ。お父さんに見せたかった姿だもの」
「よく似合ってる。綺麗で、でもいつもの元気なやっこらしくて、遠くからでもすぐわかった」
「ありがと」
顔を見ずにした返事は、聞こえたかどうかわからない。予想通りの言葉に、予定通りの対応を。上手にできていただろうか。
「やっこ、全然こっち見ないな」
少し寂しそうな声は、聞こえなかったことにした。振り返れば絆される。その先には、きっと悲しい未来が待っている。
やつこは父を亡くした幼い日のことを、今でも鮮明に憶えている。「根代の家は男殺し」と言われるその通りになった、あの日のことを。

先に入っていった三人と合流してからは、昔と変わらない振る舞いができたと思う。透ともやっとまともに顔を合わせられた。いつも通りのやつこでいれば、友人たちも安心するだろう。
同級生との再会、先輩たちからのお祝いメッセージと、ちょうどよく忙しくなったことも良かった。成人式といえど、実際その日を迎えた自分たちは、まるで子供に戻ったようだ。
「雄人、海にいから来てるよ。あんまりはしゃぎすぎないように、だって」
「心道館にいた全員に送ってんのかな」
「志野原さん、着信ずっと鳴ってるけど」
「お兄ちゃんよ。心配性なんだから」
「ゆいちゃんのお兄さん、ぶれないよね」
いったいいつから大人になるのか、今日の様子を見ているとわからなくなる。先輩たちもそう言っていたことを、ふと思い出した。
「やっこちゃん。わたし、一回帰るね。お兄ちゃんがうるさいから」
「うん。あとでまた」
結衣香が式が終わってそう経たないうちに離れる。
「私も親戚のところに行かなきゃならないって。夜にまたね」
「さっちゃんもか。じゃああとでね」
紗智も行ってしまう。それなら自分も一度家に戻ろうか、と思ったとき、名前を呼ばれた。
「やっこ、もう行くのか?」
「ゆいちゃんとさっちゃんが帰ったからね。透君はせっかく帰省してるんだから、もうちょっとみんなとお喋りしてなよ」
雄人はまだどこかにいるはずだ。やつこのしらない、社台高校の同級生もいるだろう。
けれども透は、困ったように笑って、誘った。
「時間あったら、神社に行かないか。神主さんにも会っていきたい」
断る理由は、一つを除いて特になく、その一つは言葉にするのが躊躇われる。結局、神主に会うなら、ということで了承してしまった。
公民館から、商店街へ向かい、挨拶をしながら東に抜けると、礼陣神社に辿り着く。石段を上がった先の境内に、今日はいくらかの人がいた。大抵は顔見知りで、やつこたちの恰好を見て「もうそんな歳かね」と感心する。
「神主さん、やっこちゃんと鹿川さんとこの子が来てるよ」
参拝客に呼ばれて、神主がひょっこりと顔を出す。いつもの穏やかな笑みでこちらに手を振り、やってくるなりやつこの手を取った。
「やっぱり似てますね、七海さんと七瀬さんに。ムツさんにも」
「はあ……そんなに似てますか」
「透君も立派になって。勉強は進んでいますか?」
「学年相応に順調です」
にこにこと話す神主の向こうで、参拝客らが顔を見合わせている。「鹿川さんの子って、一人息子だったわよね」「一人は大変ねえ」と囁き合う声が、ここまで聞こえた。みんなやつこの家が、どういうところなのか知っている。
表情が歪まないように口の内側を噛む。聞かなかったふりをしようと決めた。
「一人だと何が大変なんですか」
だが、「ふり」は容易く崩される。
「ちょっと、透君。やめなよ」
「ひそひそされるの、昔から嫌いなんだよ。同級生だろうと年上だろうと関係なく」
気まずそうに俯いた人々を、透は構わず睨む。神主は苦笑いをしたが、止めなかった。
「で、何なんですか。大変なことって」
「ごめんなさい、変なこと言ったわね」
「根代さんのところは代々お婿さんとってるから、またそうするのかなって思ったの」
適当な言葉でごまかしているが、どちらにせよ透を指して言うようなことではない。やつこが無理やり笑いながら「そんなんじゃないですよ」と言おうとしたのを、しかし、透は顔色一つ変えずに遮った。
「知ってますよ。やっこがそうしてほしいって言うならそうします」
何がどこにかかるのか、判断するのに少しかかった。そのあいだに、噂をしていた人々は驚いたり感心したりしていて、認識はすっかり「透はやはり根代家に婿に行くのだ」ということになっていた。
「透君、何言ってんの。婿とかあんた関係ないし、わたしの意思は知らんぷりなの?」
慌てて割り込んだやつこに、透はしれっと答える。
「だったらその意思とやら、さっさと聞かせてくれれば良かったんだ」
「勝手にもほどがある! わたしがどれだけ困ったか!」
簡単に恋で片付けば、これほど困りはしなかった。関係を断ちたくはないから、自分からは突き放すことができず。けれども透の気持ちを受け入れれば――やつこだってしがらみがなければその選択ができた――根代家の歴史が繰り返されるかもしれない。
根代の家は男殺し。婿をとる家だが、その婿は長く生きられない。人間を捨てて鬼と成り、家を守るために力を使う。
「そんなに困らなくても、やっこがそうしろって言った通りにするのに」
「それが一番困るんだよ」
「俺は鬼に成るのもいいと思ってる」
「わたしはよくない」
一際冷たい風が肌をひっかいて通り過ぎ、我に返った。いつのまにか境内に他の人間の姿はなく、神主だけが立っている。
「二人とも、ちょっと温まっていきませんか」
いつだって何事もなかったように、彼はここにいる。

社務所でお茶を飲んだら、少し落ち着いた。せっかくの晴れ着をまだ家の「鬼さん」――父に見せていないのに、だいぶ崩れてしまった。正面では透が、神妙に俯いている。
「悪かったよ」
「本当。なんで今日に限って子供みたいな……ううん、この辺の子供より質が悪い」
昔はあんなことにならなかったのに。ほんの二年ほどで、何が変わってしまったのか。
「いつの時代も、根代さんちの痴話喧嘩は大変ですね」
「そういうのじゃないです。……お母さんやおばあちゃんのときは、喧嘩とかあったんですか」
やれやれどっこいしょ、と年寄りみたいなことを言いながら座る神主は、実際この町で一番の年寄りだ。見た目は若い青年のようなのに、長いこと礼陣の町を見てきている。そんな人がクスクス笑って、「ありましたよ」なんて簡単に言う。
「やっこさんは優しいですよ。ムツさんなんか薙刀持ちだして突きつけて、死ぬ覚悟はできてるのかい、でしたから」
「へえ、おばあさんすごい。やっこもそれくらいやればよかったのに」
「現代でそれはない。おばあちゃんの時代でもそうあることじゃない。ていうか、やればよかったのにって、透君ってば他人事みたいに」
やったところであっさり頷くだろう。鬼に成るのもいい、とはそういうことだ。やつこの家のことを知っていて、その上で告白してきたのだ。そういう人には、薙刀など恐れるようなものではないのだろう。
「七瀬さんはその点、平和でしたね。よそに嫁いだ七海さんを気遣って、穏便に済ませたようです。やっこさんのお父さんは鬼について詳細に知ってから七瀬さんに求婚したので、双方納得の上で家を継ぐことになりました。……実際にどうなるかは、そのときになってみないとわからないものですけれど」
「納得したつもりでも、お父さんが死ぬんだから、悲しんで当然です」
あんな思いをまたするくらいなら、大人にならなくていい。鬼の子として暮らし、成長するにつれて鬼が見えなくなってきてからは、その気持ちがより強くなった。人間として町のために何かをしようと決めて、やっと少し、大人になることを受け入れられるようになってきた。
だけど大切な人を喪いたくないという気持ちは、ずっとずっと残っていた。
「もう泣きたくないから、好きな人とかつくらないって思ってたのに。なのにさ、透君に告白されて、ぐらっとしちゃったんだもん。わたしが殺すのはこの人だなって思っちゃったんだ」
「すごい告白の返事をありがとう」
「……返事なのかな、これは」
殺人予告のような言葉を喜んで受けるような人は、他にいないだろう。やつこは苦笑し、それから神主に目配せをした。案の定、言いたいことはちゃんとわかってくれた。
「透君が生き残る方法もありますよ。根代家の家憑き鬼は私との契約で成り立っています。ただ、これは強固な呪いと同じで、私でも解けないものです。そのかわり私の力が及ぶ範囲内でしか効果を発揮しません。もしもあなたがやっこさんを攫って礼陣を出て、そのままこの地に近づかないのであれば、長生きできる可能性もあります」
やつこの母の双子の姉である七海は、礼陣から出て嫁ぐことで、この連鎖から外れている。そういう方法もあったのだ。
しかし透はすぐに首を横に振った。
「やっこの故郷はここで、俺は礼陣神社を何とかするために勉強してるので、よそに行くという選択は今のところないですね」

水無月呉服店で直してもらった着物を、「鬼さん」の部屋の前で披露する。扉の向こうに、この姿は見えているのだろうか。
父は、喜んでくれているだろうか。
「まだ全然大人になれてないし、この先どうなるのか見通せるような目は持ってない。でもね、鬼さん。わたし、諦めるのはやめたんだ。神主さんが解けない呪いを和らげているものがあるなら、うちと神主さんの契約とやらも、解除する方法があるんじゃないかって思う。わたしは、それを急いで探す。だって守られてばっかりは、性に合わないもんね」
反対されても前へ突き進む姿勢を、大人を理由に捨てることもない。忘れかけていた気持ちを、町中を駆けまわっていたあの頃の自分を、取り戻してみよう。



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2016年12月17日

鬼の町で縁を結べば

年の瀬の礼陣駅前交番は、だからといって急に忙しくなるということもなく、やつこにとっては至って穏やかなものだった。先輩などはみかんを食べながらラジオを聴き、「北市女大の子はお淑やかなだけじゃなくて声まで可愛いよね」と嘯いている。
「でもやっぱり、夏までパーソナリティーしてた四年の子が好きだったなあ、僕は」
「千花さんのことだったら、正式にラジオ局のアナウンサーになるって噂です」
「じゃあ、そのうちまた声が聴けるね。楽しみだなあ」
間延びした口調と全体的に丸いフォルムが特徴の先輩だが、礼陣で生まれ育ってこの町の事情にも詳しい、頼れる人なのだということをやつこは知っている。今はみかん食べてるけど。これで三つめだけど。他にもこの交番に出入りする警察官はいるけれど、やつこの教育係ということもあって、一緒にいる時間が長いのはこの人だ。
「十二月って、よそは大変だって聞きますよね。イベントが多いからかな」
「十二月に限らず、この町が平和すぎるんだよねえ。高齢者を狙った詐欺とかも被害は少ないし。空き巣は物を盗む前に転んで気絶するし」
後者は鬼の仕業だな、というのが礼陣駅前交番に勤務する人々の見解だ。こういう結論になってしまうのが、この礼陣という町なのだ。事情を知っていなければ、上手に安全を守ることはできない。
礼陣には鬼がいる。不思議な力を持った、普通の人には見えない存在だ。だが町全体がその恩恵を受けていて、人々はその存在を信じている。よそから来た学生すらも、いつのまにか地元の人間にその存在を刷り込まれるのだから、見ようによっては恐ろしいかもしれない。けれどもやつこや先輩が生まれ育ってきたのはそういう環境で、研修などで外に出る機会でもなければ、それが世間一般の常識からかけ離れたことであると意識せずに過ごしてしまう。
よそから見れば「礼陣は特殊な土地だから、地元のやつしか勤務できない」ということらしく、この交番にもなかなか新しい風は入ってこない。吹き込むのは冬の乾いた風ばかり。
しかしそうかと思って油断していれば、まったく予想もしない訪問があることも、ときどきはある。

「すみません、道を尋ねたいんですが」
交番の戸をからからと開け、見たことのない女の子がこちらを覗き込んだ。結って肩から胸におろした髪には朱色のシュシュ。もう片方の肩にはオフホワイトのボストンバッグ。
初めて見る顔というだけで、この町ではすぐに山の向こうから来たのだとわかる。加えて道を知らないとなれば、大抵は旅行者だ。それにしても、少々時期がずれていると思うが。
「はい、どちらへ? 寒いでしょうし、話は中で聞きますよ」
近付いて分かったが、身長はやつこよりほんの少し低い。それこそ先ほど先輩と話題になった「来年アナウンサーになる千花さん」に雰囲気が似ている。
「可愛いねえ」
先輩のそんな呟きが聞こえたような気がしたが、たぶんラジオにだろうと思って知らないふりをする。もちろん、目の前のこの人も、十分に可愛いが。
「先輩、わたしお茶淹れるんで、対応を」
「いや、僕がお茶淹れてくるよ。やっこちゃんのほうが話しやすいだろうし」
それは助かる。やつことしても、先輩以外の人と話をしたい気分だった。女の子を座らせて、自分も椅子に座り直す。
「ええと、道ですよね。どこに向かわれるんですか?」
「……神社に。礼陣神社を探しに来ました。鬼だか神様だかがいるって、噂を聞いて」
やつこが尋ねると、女の子は微笑みを浮かべてそう言った。後半のほうは少し言いにくそうだったけれど、ここではなんでもない理由だ。
「神社は駅の裏の商店街を、東側……入口をくぐったところの右側の道を真っ直ぐ行くと石段に辿り着くので、その上です。商店街までご案内しましょうか」
礼陣の町のシンボルともなっている大きな鳥居は、駅からでも見ることができる。けれども実際にどう行けば辿り着くのかは、歩いてみないとわからないだろう。旅行者にはよくあることだ。
「駅の裏ですね。ありがとうございます。自分で行ってみます」
「あと、鬼はいますよ。ここで鬼って呼んでるだけで、まあ神様に近いものかなとわたしは思ってます」
やつこが言い添えると、女の子は目を丸くした。まさかこちらにまで回答をもらえるとは思っていなかったようだ。やつこたちにとってはいつものことだが。
「神社にいます。もしかしたら寒くて引きこもってるかも。若い人間の男の人みたいな姿なので、会うだけじゃなかなか信じられないかもしれません」
「男の人……ですか」
女の子が小さく息を吐く。それから少し迷ったような表情を見せて、先輩がお茶を持って来ると同時にまた口を開いた。
「女の子は、いませんか。小さな女の子の神様。手のひらにのるくらいの……縁結びの神様は」
意を決したような顔と口調に、今度はやつこが驚く番だった。

縁結びの神様が礼陣にいる、という話は聞いたことがない。鬼はあらゆる物事をできる限り叶えようとするが、それは明確な役割を持っていないということでもある。しいていうなら、子供を守る神様だ。彼らは子供を最優先する。
縁結びに興味がありそうな鬼は、話だけならやつこもいくらかは聞いていて、心当たりがないでもない。けれどもよそにまで名を轟かせるほどではなかったと思うし、「手のひらにのるくらい」という条件には当てはまらない。
そもそも女の子の言う神様は、あまりに具体的だ。
「沙良ちゃんなら知ってるかも……だけど、まだ学校の時間か。神主さんに直接聞いてみるしかないかな、これは」
「あ、わからないならいいんです。ここは神様がいるって話を聞いたもので、そういう子もいないかなって思って」
いたとしても、この人に見ることができるのだろうか。いや、具体的な特徴は知っているから言えることだ。特別な能力を持っている人はたまにいるから、そういう人なのかもしれない。
「……変だと思わないんですか、私の話」
女の子が今更訝し気にやつこを見る。
「思わないです。この町は鬼がいることが常識だし、わたしも昔は見えたので。あなたもそういうのが見える人ですか?」
笑顔で尋ねると、女の子は首を捻る。
「見える人、とはちょっと違います。その神様とだけ、ほんの一時期交流があったんです。私の願いを……縁を結んでくれた、小さな神様で。三つ願いを叶えたら、その人の前から姿を消すという約束があって。私は偶然、その子と会ったんですが……気がつけば、もう随分と昔の話ですね。小学生の頃です」
こちらがこの手の話を解するとわかって安心したのか、女の子はすらすらと話してくれた。条件から鬼ではなさそうだと、やつこは判断する。そもそも礼陣の鬼は礼陣から出られないので、山の向こうから来たであろう彼女と面識があるはずはない。
けれども捜し人、いや捜し神には協力したかった。その縁結びの神様とやらがこの辺りを訪れている可能性はゼロではない。鬼の長である神主なら、鬼以外の「人ならざるもの」とも接点があるはずだ。このまま「神社の神主さんに訊いてみればいいですよ」と送りだすこともできるが……。
そわそわし始めたやつこに、先輩は笑って言った。
「いいよ、やっこちゃん。その人案内しておいで。この件は明らかにやっこちゃん向きだ」
「ありがとうございます!」
先輩に向かって勢いよく頭を下げたやつこに、女の子は驚いたようだった。けれどもやっぱり面白かったのか、クスリと笑った。


女の子が、戸田ひかりといいます、と名乗ったので、こちらも根代八子ですと返した。聞けば同い年だというので、商店街入口に差し掛かった頃には、もう「ひかりちゃん」「やっこちゃん」と呼び合っていた。
「やっこちゃんは高校生まで鬼が見えてたんだ。いいなあ、交流が長くて」
「鬼とだけね。ひかりちゃんは、本当にその……えんむすびちゃん、と会ったのは一度だけ?」
「うん。三つめの願い事を叶えてもらってお別れしてからは、一度も会ってない。それに私にだけ見えてた存在だから、人に話し難くて。唯一話して信じてくれた近所のおばあちゃんは、先日亡くなったし」
白い息が空気にとけた。だからかな、というひかりの声とともに。
「知ってる人がいなくなっちゃったから、本当にいたんだってことを確かめたくなったのかも。ネットで色々探して、辿り着いたのがこの町だった」
「……でも、ここは」
「そうだね、やっこちゃんの話聞いてわかった。ここには鬼しかいない。だからえんむすびちゃんはきっといない」
縁結びの神様、呼び名をそのまま「えんむすびちゃん」。どうやら神様本人がそう呼んでほしいといったらしい。縁を結ぶという方法で人の願いを叶える、手のひらサイズの可愛い神様。
やつこには全く心当たりがないが、でも。
「立ち寄った可能性はあると思う。神主さんのところ、たまに鬼以外の神様が来るみたいなんだ」
ひかりの記憶にあるのなら、えんむすびちゃんはいたのだろう。そして今でもどこかにいる。この町じゃなくたって、世界のどこかには。
「ありがとう。でも、会えないなら会えないで、それも仕方ないって思ってるから。あの子はきっと、誰かの縁を結ぶのに忙しいの。ちっちゃくても神様だもの」
にこ、と笑ったひかりは、髪をまとめているシュシュに触れながら続ける。
「あの子の結んだ縁、すごいんだ。私は親戚でもないのに、おばあちゃんの最期を看取ることができた。小学生の頃に片思いしてた男の子とは、今でも仲の良い友達で、大学も同じ。おばあちゃんの家の近所の人たちは、会えば声をかけてくれる。お葬式もそんなに困らなかったな、みんながおばあちゃんのためにって集まったから」
永くて良いご縁でしょう、と誇らしげに胸を張るひかりに、やつこは頷く。えんむすびちゃんの力は本物で、それからひかりの人との縁を大事にする気持ちも大きいのだと感じた。
商店街の東端が近づき、和菓子屋とその向こうの石段が見えてくる。あそこ、とやつこが指さして示すと、ひかりはそれを確かめてから、視線と上へと向けた。大きな鳥居が迫っている。
「赤くないんだね、鳥居。黒?」
「濃い深緑なんだ。昔からそうだったのかはわからないけれど」
へえ、という返事に、明るい電子音が重なった。ひかりが自分のポケットから慌ててスマートフォンを取り出し、やつこに「ごめん」と告げてから呼び出しに応じた。
「はい、戸田です。……あー、うん、今日は休んじゃった。申し訳ないんだけど、あとで弘樹君のノート見せてくれるかな。後で詳しく話すけど、調べた町に来てみたの。もう神社の目の前」
通話を聞くのは悪いと思ったが、やつこの耳にも「本当に行ったの」という声が聞こえた。どこか呆れたような、しかし諦めてもいるような。
「なんだか落ち着かなくて。大丈夫、ちゃんと帰るから」
それから何度か返事をして、ひかりは通話を終えた。やつこに困ったように笑ってから、「さっき言った男の子」と教えてくれた。
「付き合いは長いし、えんむすびちゃんのこともちょっと話したことがあるんだけど、こっちはおばあちゃんと違って簡単に信じてはくれなかったんだよね。二人ともファンタジー小説が好きだったからかな、本の話と混同されてるみたい。私と一緒にこの町のことを調べてくれたけど、たぶん、おばあちゃんがいなくなって寂しがってる私を放っておけなかったんじゃないかな」
昔から優しい人だから、と言いながらも、ひかりはどこか残念そうだ。自分のほかにあともう一人、あの神様の存在を信じてくれたらいいのに。そう思っているのはすぐにわかった。やつこも一時期礼陣を離れていたときに、似たような気持ちを抱いたことがある。
「でもここにはやっぱり来るべきだったんだよ、私は。来なくちゃ、やっこちゃんに会えなかった。これも縁だよね」
「そうだね、これも縁だ」
もしかしたらあの子が導いてくれたのかも、と少し声を弾ませて、ひかりは石段を上り始めた。

境内は静かなものだった。まだやつこに鬼が見えたなら賑やかだったのかもしれないが、今では気配も感じられない。寒々しい境内は、しかし、初めてここに来たひかりにはどのように見えているのだろう。
「思ってたよりちゃんとした神社だね。設備とか」
「昭和後期に直したものや新しく作ったものもあるよ。できたばかりの頃は、鳥居とお社だけだったみたい。神主さんはたぶん社務所にいる」
「待って、やっこちゃん。ちゃんとお参りしたいな。せっかく来たんだし」
そういえばやつこも、しばらくきちんとしたお参りはしていない。ひかりと共に冷たい水で手と口を漱ぎ、拝殿に向かった。
拍手を打って、手を合わせていると、鬼たちと交流があった頃のことを思い出す。ひかりは何を思っているのだろう。ちらりと横顔を見たけれど、さすがに心を読むことは今も昔もできない。
「やっこさん」
拝殿に向かって一礼したところで、名前を呼ばれた。礼陣の人には耳慣れた穏やかな声だ。
「お久しぶりです、神主さん。……なんか、会うといつもお久しぶりになっちゃいますね」
「お仕事があるんでしょう。お隣は?」
そうだ、紹介をしなければ。口を開きかけたやつこを、けれどもひかりが遮る。
「はじめまして、戸田といいます。ここの神主さんですか?」
「はい」
「鬼、なんですか?」
「そうですよ」
なんでもないことのように、つまりはいつものように、神主は返事をした。ひかりは息を呑んだようだったが、すぐにまた尋ねる。
「教えてください。ここに、縁結びの神様が来たことはありませんか」
やつこも初めて聞く、今日で一番真剣な声だった。神主は少し首を傾げながらひかりをみていたが、やがて眉を少し下げた。
「すみませんが、会ったことはないです」
「そうですか……」
「けれど、あなたが神と関わった人間であることはわかりますよ。左手の小指から、いくつもの縁が伸びているのが私にも見えます。わざわざ縁に目印をつけるということは、よほどあなたと関わりが深いのでしょうね」
はっとして自分の左手を見たひかりを、やつこは目で追う。神主はさらに続けた。
「……なるほど、幸せ笑顔、ですか。あなたは、縁を結んでそうなれましたか?」
「どうして。会ったことないって言ったのに、あの子の……えんむすびちゃんの唄を、知っているんですか」
「糸に書いてあるんです。その神があなたのことを大切に思って刻んだ、これからも幸せであるようにとの願いです。随分仲良くなったんですね」
丸く見開かれたひかりの目が、細くなり、閉じた端から涙が零れた。夢じゃなかった、と呟いて、左手でそれを拭う。
「あの子は、本当に縁を結んでくれたんですね。あの子のおかげで、私、ずっと幸せでした。笑顔でいられました」
「それは何よりです。私たちにも願いはあります。それが叶っているなら、どんなに嬉しいことか」
「だったら、これからも叶え続けなくちゃいけませんね。あの子を信じて」
泣いてたらあの子が困っちゃう。
ひかりがしっかりと前を向いたのを、やつこは微笑みながら見ていた。

そのままひかりが駅へ向かうのを、やつこは見送ることにした。どこかに泊まるつもりで持ってきたボストンバッグは、今回は出番がないようだ。
「地元に戻って報告したいこともできた。友達にも、またえんむすびちゃんのこと話してみる」
「フィクションじゃないことは、うちの神様のお墨付きだからね。えんむすびちゃんとの記憶、これからも大切にして」
「うん。ここで結んだ新しい縁もね。縁を結べば幸せ笑顔、なんだよ」
左手の小指を撫でながらひかりは心底幸せそうに笑った。
やつこも笑い返し、また会うことを約束した。今度は賑やかな夏にでも、と。私は冬も大好きだよ、とひかりは列車に乗り込む。
ドアが閉まる前、やつこは光る糸を見た気がした。ひかりの左手の小指から伸びたそれが、自分の左手へ繋がっているように。一瞬のことだった。だが。
「……これも縁、だね」
見間違いではないと、やつこは信じている。



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2016年10月23日

礼陣町語り 春の放課後

友達と呼べる人はいなかった。これからもずっとできないのだろうと思っていた。
私は他の子とは違うから。誰かの興味の対象にはなっても、好意の対象にはならないのだと、幼い頃から気がついていた。
私をわかってくれるのは家族だけ。五つ違いの兄と、七つ下の小さな弟。海外出張の多い両親には、心配をかけたくないから、友達がいないことは黙っていた。とうとう言わずじまいだった。もしかして知っていたとしても、それを追及されるようなことはことはなかった。自分で自分の世界を作ることができるのならそれで良いと、それが両親の教育方針だったことは、あとで兄から聞いて知った。それは私に、とても合っていたのだろう。
小学六年生になる直前に引っ越しをして、暮らす環境ががらりと変わった。住む町、通う学校、毎日顔を合わせる人たち。今までと違うことに戸惑った。一番妙だったのは、それまで私が他人と違うと思っていた要素がなくなったことだった。
後になくなったのではなく、この礼陣という町においては、特別なフィルターがかかるだけなのだとわかるのだが。
私には異形が見える。ひとならざるもの、生きているとはとても思えないようなもの、奇妙なかたちをしたものたちを、この目に映すことができる。私には、異能があった。

「一力さん、おはよう。ここにはもう慣れた?」
にこやかに話しかけてくるクラスメイトに、私はぎこちなく「おはよう」と返す。転校してくる前はあまりに人を避けすぎていて、誰かと会話をすることがすっかり苦手になっていた。
「まだ、あんまり慣れない……かな。家の片付けも終わってないの」
「そっかあ。時間ができたらさ、クラブ活動のこととかも考えてみてね。ちなみにあたしはバドミントンやってるの。一力さんはスポーツ得意?」
「得意ではない……かな。体力測定も、そんなに結果良くなかったの」
「ふうん、運動できそうに見えるんだけどな。なんか意外」
私が会話を苦手としていても、クラスメイトは私によく話しかけてくる。転校生に対する興味なのか、仲良くしたいと思ってくれているのか、今のところははかりかねている。人付き合いには慎重にならなければ。いくらこの町に来てから異形が見えなくなったからといって、ぼろが出ればたちまちに、人の態度というものは変わってしまうものだから。
嘘つき呼ばわりも、おかしい子だと遠巻きにされるのも、もうこりごりだ。それなら最初から近づかずに、適度に離れていたほうが楽だろう。それが小学生の私が辿り着いた処世術だった。
それなのに、クラスメイトはまだ話しかけ続けて……しかも人数がだんだん増えてくる。
「おはよ、リョウコ、一力さん。算数の宿題なんだけどさ、授業の前に答え合わせしない?」
「みんなー、おはよう。一力さんさ、昨日商店街で買い物してた? 社台高校の制服着た人、あれってもしかしてお兄さん? すっごくかっこよかったね!」
「うそ、そんなにかっこいいお兄さんいるの? 紹介してよ、一力さん」
「あの……ええと。たしかにそれは兄だけど……」
引っ越してきてからずっと思っていることだけれど、この町の人たちはまるで遠慮というものがないようだ。子供だけじゃない、大人もそう。向かいの家に住んでいる皆倉さんは、奥さんが外国人ということもあって習慣的なものがあるのかなと思っていたけれど、そうではないはずの人たちまであまりに……そう、言ってしまえば馴れ馴れしかった。
商店街を歩いていても、知らない人が親し気に声をかけてくる。近所の人たちもまるで私たちがずっとここに住んでいたかのように、当たり前の顔をしてお惣菜なんかを渡してくる。
きわめつけはこれだ。
――この町は鬼に守られているからね。安心して暮らしなさい。
いい大人が、「鬼」なんて非現実的な存在を持ち出して、安心しろと無責任なことを言う。私の知っている鬼は人に取り憑いて悪意を助長させるものだったから、守られているなんてとても信じられなかった。
何も知らないくせに、変なことを言わないでほしい。私みたいに、異形が見えるわけでもないのに。
「一力さん、商店街に行ったなら、神社にはもう行った?」
クラスメイトの一人が、遠くを指さした。家と街の向こう、小高い丘の上に、黒い大きな鳥居がある。あれはこの町のシンボルだという。祀られているのは――。
「神社には、春休みのあいだに一度だけ」
「あそこね、自由に遊びに行っていいんだよ。他の学校の子もたくさん来てるから、友達いっぱいできるよ。でも、鎮守の森には入っちゃいけないの」
ああ、だから一度行ったあのときも、子供が境内を駆けまわっていたのか。あれは許されていることだったのか。曖昧に「そうなんだ」と返事をして、笑って流しておいた。上手く笑えていただろうか。

礼陣神社の鳥居は、近くで見ると黒くはないことがわかる。深い緑色なのだった。
買い物は商店街のほうが得だと皆倉さんに教えられたので、私は毎日のようにおつかいに出されている。住宅街を抜け、大きな道路を渡り、駅の裏に入ったところに東西に軒を連ねる店。歩いていくには少し遠いので、近々新しい自転車を買ってもらえることになった。
神社は商店街の東端、和菓子屋さんの脇にある、石段の先。
引っ越しを随分と皆倉さんたち近所の人々に手伝ってもらってしまったために、お礼をしなければならなかった。和菓子屋さん「御仁屋」で、小さな箱詰めを四つ買う。少し重い。それなのに店の人は、「おまけだ」と言って小さなお饅頭を二つもくれたのだった。
大きな袋と小さな紙袋で両手が塞がり、うんざりする。お饅頭は、兄……は部活を決めなければならないとかでまだ帰ってこないだろうから、弟と皆倉さんの娘さんにあげよう。弟と娘さんは同い年で、並ぶととても可愛いのだ。
急いで帰ろうとして、けれども視線が石段の上へ向いた。鳥居があって、その先には境内がある。一度だけ来たときは子供が駆けまわる賑やかな場所だったけれど、今日はあまり声が聞こえない。では、今は誰もいないのだろうか。
ふらり、と足が石段に向いた。手にかかる重さは忘れていた。一段ずつ上っていくと、次第に境内が見えてくる。一番上に辿り着くと、そこは鳥居の真下で、脇に灯篭、手水舎、真正面に拝殿。少し離れたところにあるのが社務所のようだ。お守りなどの授与所も兼ねているようで、窓口がある。前に来たときにはじっくり見られなかったところが、今日はよく見えた。
来てしまったのだから参拝はするべきだろうと、手水舎へ向かう。ああでも両手が塞がっていたんだった、どうしよう……と途方に暮れかけたとき。
「おや、こんにちは。また来てくれたんですね」
頭の上から、声が降ってきた。穏やかで優しい、ふわりと吹く風のような声だった。
見上げると男の人が、笑顔を浮かべていた。にっこり、というには薄く、かといって無理に作ったような顔でもない。このうっすらとした微笑みが、おそらくはその人の笑い方なのだろう。
長い髪は束ねられ、浅葱色の袴を穿いている。あまり偉い人ではなさそうだけれど、神社の関係者だろうと予想がついた。
「……こんにちは」
やっとのことで挨拶をして、ふと気がついた。「また」ということは、初めて来たときの私を知っているのだろうか。
その疑問を口にしてはいないのに、そのひとはまるで問いを掬い取るようにして言った。
「春休み、引っ越してきたばかりの頃にいらしてくれたときは、きちんとご挨拶ができませんでしたね。私はここの者です。町の人は『神主さん』と呼んでくれますよ」
「神主さん……」
この人が? という言葉を呑みこむ。そういうからには、この神社の代表なのだろう。たしかに、他に関係者らしき人は見当たらない。
戸惑う私を、このひとは次の台詞でさらに混乱させた。
「一力愛さん、でしょう」
どうして私の名前を知っているのだ。息を呑んだけれど、逃げだすことはおろか、後退ることもできなかった。その場に足を縫い付けられたかのように、少しも動くことができない。おまけに目まで、「神主さん」から離せなかった。――優し気な眼差しが、ほんの少し赤く光ったように見えた。
そのひとはさらに目を細め、続けた。
「町の人の顔と名前なら、すぐに憶えられますよ。貴方は愛さん。お兄さんの名前は恵君、弟さんの名前は大助君。春休みにこの礼陣の町の、遠川地区西側に越してきた。あのあたりは洋通りとも呼ばれているんですよ」
「そうなんですか」
流れるような声に、私は自然と相槌を打っていた。それから片手の小さな紙袋を、目の前の相手に、初めて顔を合わせて話をしたそのひとに向かって差し出していた。
「よかったら、どうぞ」
弟たちにあげようと思っていたお饅頭。けれどもそのひとにあげたら、とても喜びそうだと思った。
「これは……! 御仁屋のおにまんじゅうではないですか。私の大好物です」
中身を見ずにそれと当てたのは、袋のせいなのか、それとも他に何か要素があったのか。当時の私にはわからなくて、ただただ頷いているだけだった。
「こんな素敵なものをいただいてもいいんですか?」
「はい。両手が塞がって困っていたので、いいんです」
「ありがとうございます」
そのひと、神主さんは、私の手から丁寧に袋を受け取った。そうして中身を一つ取り出し、私に返した。
「二個入っていますから、これは今、貴方が食べてください。美味しいですよ」
「は、はい……」
おずおずとお饅頭を受け取って、そのまま口に運んだ。どうしてもこのひとの目の前で食べてみせなければいけないような気がしていたのかもしれない。
結局のところ、それは正解だった。齧ったお饅頭は甘く、けれども口の中で餡子がさらりと溶けて、ちょうどいい塩梅だった。今まで食べたことのない美味しさだったのだ。
「わあ、本当に美味しい」
「でしょう? 昔からいい仕事をするんですよ、御仁屋の人々は」
神主さんもお饅頭を頬張って、今度はにこにこしていた。微笑みが地顔で、こっちが笑顔なのかもしれないと、思い至ったのはずっと後のことだ。
「……ここには、貴方を脅かすものはありませんよ」
夢中でお饅頭を食べていた私に、神主さんは何の脈絡もなく言った。
「貴方が見聞きするものを、信じるも疑うも自由です。人に話したっていい。誰もそれを咎めません」
口に物が入っていて、返事ができなかった。そのあいだに神主さんは手を振ってこの場から離れ、社務所の方へと歩き出していた。
「この町で、貴方が幸せを感じられますように」
その声が遠く聞こえた。最後まで柔らかな響きだった。


それから数年が経ち、私は社務所で神主さんにお茶を淹れている。
その数年の間にいろいろあって、私は神主さんと随分親しくなった。相変わらず人間の友達は少ないけれど、人と話すことは昔ほど苦ではなくなった。たぶん、慣れたのだろう。この町では、誰かの協力なしには生きられないと実感させられることが多いから。
今、幸せを感じられているかと問われれば、そうだと答えられる。人付き合いを避けようとしていた女の子はもういなくて、かわりに人と、そしてひとならざるものたちと関わっていくことを選んだ私がいる。
この町に引き込まれて、この町の食べ物を口にした。その瞬間から私はこの町の人間として生きることとなり、きっと縛られてしまったのだ。けれども嫌じゃなく、むしろ心地がいい。
「愛さん、今日のお茶請けは最中にしましょう。ちょうどいただきものがあるんです」
「根代さんが持ってきた最中なら、さっき鬼たちが食べてましたよ。残ってます?」
「ええ? ……ああ、ちょうど二個だけ。私たちのために残しておいてくれたんですね」
好意が向けられることはないだろうと思っていた私に、今は親しくしてくれる人がいる。私を想ってくれ、お菓子を残しておいてくれるような、そんなひとたちがいる。一緒にお菓子を食べようと、誘ってくれる人がいる。
私には異能がある。この町に来てしばらくしてから、その異能が役に立ち始めた。誰に疎まれることもなく、思う存分発揮して、それが多くのひとの助けになっている。
こんな未来があるんだということを、私は昔の私に教えてあげたい。そうしたらもっと、素直に可愛く笑うだろうか。
今の私が、きっとそうできているように。



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2016年10月16日

ボールと子どもの怪

女の子は毬つきが大好きでした。
ぽーん。ぽーん。
その日も家の前で、お気に入りのボールをついて遊んでいました。
ぽーん。ぽーん。
ところがあまりに夢中になっていて、気がつかなかったのです。
ぽーん。ぽーん。
ハンドルを切り損ねたトラックが、女の子のほうに向かってきていたことに。
どーん、ぐしゃっ。
女の子は家の壁とトラックのあいだで、潰れて死んでしまいました。
家は直されましたが、壁には女の子の姿が浮かび上がるようになりました。何度塗り直しても、黒い染みとなって現れるので、とうとう家ごと取り壊されることになりました。
けれども今でも、その場所を訪れた人には聞こえるのです。
ぽーん。ぽーん。
何もないのに、誰もいないのに、ボールが弾む音が。

「……で、そこでボールで遊んでると、出るんだってさ。女の子の幽霊」
声を低くして、しかし顔はにやついたままだった。終始そんな調子で話すものだから、疲れないのかな、と海は欠伸を一つした。
大学剣道部の合宿でのことである。夜中なのだから寝ればいいのに――ただでさえ朝は早いのだ――部員の数名がそんな話を始めたせいで、眠れなくなってしまった者もいた。こういうのは怖いと思う人には本当に怖いし、好きな人は悪趣味なくらい好きなものだ。
「現場、この近くなんだよね。オレ地元だからさ、昔から何遍もこの話聞いたの」
じゃあ今更するなよ、と思ったが言わない。寝てしまいたかったが、彼らがうるさくて眠れないので、とりあえず話を聞いていた次第である。これなら地元の先輩が好きで見ていた、海外のホラー映画のほうがよほど怖い。たしかあれは、厳密にはサイコスリラーとかそういう類のものだったような気もするが。
「今から行かね? すぐ近くだしさ」
「マジかよ、もう日付変わったぞ」
「二時くらいに行くのはどうよ。丑三つ時っての?」
馬鹿馬鹿しい、変にパニックになって稽古に身が入らなかったら迷惑だ。知らないふりをして寝ようと思ったら、布団を捲られた。
「進道、行くよな? お前たしか霊感あるんだよな」
そんな大層なものではない。誰がそんなこと言ったんだ。そう言おうとしたその前に、周りが口々に囃し立てる。
「そうなの? 進道って見えちゃう人なの?」
「たしかコイツの出身地がさ、変な噂で有名なとこなの。鬼がいるとかなんとか。某県の山の中らしいんだけど」
「怖がるような話は何もない」
「ほら、怖くないんだもん、コイツ。慣れてるんだって」
勝手な解釈をされては困る。というより、鬱陶しい。けれども布団を取り返すほどの気力も残っていないので、そのまま背を向けて無視しようとした。
「なあ、進道が一緒に行ってくれたら安心するんだって。行こうぜ」
行かないほうがよほど安心だと思うのだが。

結局引きずり出されるようなかたちで、外に出てしまった。音楽プレーヤーを家に忘れてきたのは本当に痛手だ。あれさえあれば、保存しておいたラジオ番組を聴いてやり過ごせたのに。
「あそこらへんに家があったんだ。柵で囲ってあるだろ。マジで見たとか聞いたとかそういう話がありまくって、とりあえず閉鎖したんだって」
人の敷地に興味本位で入ってくる輩が大勢いれば、そりゃあ閉鎖もするだろう。自分も今その輩の一員になろうとしているという事実が、海にはとても不快だった。
「進道、行ってみろよ」
「嫌だよ。なんで連れてこられた俺が先に行かなきゃならないの」
「だって霊感あるんだろ」
あったからどうだというのだ。幽霊とやらを説き伏せたり祓ったりできると、本気で勘違いされているのだろうか。それは心霊特番と漫画とアニメの見すぎだろう。
ない、とはっきり否定しないのは、嘘を吐くのが面倒だからだ。一旦吐けば重ねて塗りつぶさなければならなくなる。つまりは霊感ともしかしたら呼べるかもしれないものが、あるにはあるのだ。しかし海の場合、それは地元でのみ働くはずの感覚である。
地元、某県門郡礼陣町には、鬼にまつわるたくさんの伝承と、本物の鬼がいる。それは本当のことで、けれどもわざわざ他人に話したりはしていないはずだった。
ただ、出身地を言ったら、調べられた。それだけだ。ネット上に転がっている噂の中には、自分の家のことであろうものも混じっていた。町の剣道場には鬼が住んでいる、と。誰だ、こんなことを書きこんだのは。根も葉もないと言いきれない分、余計に厄介だ。
「じゃあ、ちょっと行って写真撮ってきてくれるだけでいいから。写メって送ってくれればさ」
「だけ、じゃないだろ。勝手にやること増やすな」
ノリの悪い奴と思われてもいいから、布団に張り付いておくのだった。後悔しながら、結局柵に囲まれた場所へ向かうのだった。

その「心霊スポット」は、手入れが行き届いていた。柵もきれいで、暗い中だが落書きなどは見受けられない。周囲も草が刈られていて、荒れている様子はない。変な噂がある場所は往々にして荒らされるものだが、積極的にきれいにしておくことで、そういうことをする輩に手出しをさせないようにしているのだろう。土地の管理者の行動は正しい。
柵は木製、高さは海の胸くらい。向こう側を覗けるが、何もないようだった。柵で囲ってあるのに中身がないから、変な噂を呼んでいるのかもしれない。人間というものはある程度の想像力があって、ドラマが大好きなのである。それも自分の損にならない都合の良いドラマが。
とりあえず何もないことを証明しようと携帯電話のカメラアプリを起動し、かざす。カシャ、という電子音が響いて、画面に撮ったばかりの画像が表示された。
やはり何もない。でもこれでいいだろう、言われたことはやった。海は柵に背を向け、戻ろうとした。
途端、何かがぞわりと背中を撫でた。とても冷たい何かで。
振り向いても、何もない。ぽっかりと暗闇があって、柵がぼうっと浮かんでいる。その向こうもまた闇だ。さっきまでそうだったのだから、当たり前だろう。
何も感じなかったことにして、また歩みを進めようとした。しかし今度は、Tシャツの裾を引っ張るものがある。目をやると、手までちゃんと見えた。白くて小さい手だ。
無視できなくなってしまった。子供に優しい町礼陣出身、小さいものには弱いのだ。ことに実家の剣道場で小中学生の相手をしてきたおかげで、海は年下に気を配るのが当たり前になってしまっている。――その人柄にもよるので、優しくするのは当然ではない。
「……何」
囁くように声を投げてみる。すると細く高い声が返ってきた。
「にげないの?」
あの怪談話が事実かどうかはさておき、女の子がここにいるのは間違いない。
「逃げないから、用があるなら言ってごらん」
聞く耳を持つかどうかは別として。
もし無理な頼みでもされたら、聞かなかったことにしてすぐに逃げよう。そう思っていたのがわかったのか、裾を掴む手にきゅっと力が入った気がした。
「ボールがないの」
「ボール?」
怪談話の、あのボールか。女の子が死の間際まで遊んでいたという。そういえば、ボールがどうなったかまでは話に含まれていなかった。
ただ、ここを訪れるとボールの弾む音が聞こえるという話だったが、ないというのはどういうことだ。
「なくしちゃったの」
「どうして」
「わかんない」
生じた矛盾が気になって、逃げ損ねた。小さく細い声が、はっきりと聞こえた。
「おにいちゃん、さがして?」

幽霊を説き伏せたり祓ったりした経験はない。だからそれができると思われるのは勘違いだ。だが、海は人ならざるものと対話し、ときにそれが持つ「呪い」と対峙したことがあった。中学生のときはそれで三年間をほぼ潰したようなものだ。いや、もっと遡れば一歳のときからそういうものに振り回され続けてきた。家に厄介なものがいるのは本当のことだ。
それらと同じようなものなら対応できるだろうかと、小さな手を掴んで振り向いた。それと真正面から向き合うかたちになるが、屈んでみても、子供らしい姿はなかった。どうやらこれは手と声だけの存在のようだ。
「あのさ、探すなら昼間のほうが良いよ。夜は見えないから」
「おひるはおそとにでられないもん」
「普段はどこにいるんだ?」
「おうち」
「お家はどこ?」
「……」
ここに出るのだから、近くではあるのだろう。ここにかつてあったという家ではなさそうだ。なぜなら話が違うから。
この近辺には民家がある。そのどれかがこの子の家だ。手を掴んでいるから指し示すことができないのだと気がついて、放してやった。
小さな手の、小さな指が、ある家を指した。ビンゴ。
「わかった。昼間に、俺がボールを探して届けてあげるから」
「そとであそんだのばれちゃう」
「ばれたほうが良いんだ、この場合。とにかく今日はもう戻れ」
戸惑っているのか、手だけがしばらく彷徨っていた。しかしそのうち、ふっと消えた。いうことを聞いてくれただろうか。そうであれば、まだ何とかなるかもしれない。
携帯電話の画面、柵の向こうを撮ったその端に、丸いものが小さく写っていた。


「進道だけ感謝されてんじゃねえよ。偶然ボール見つけただけのくせに」
合宿のときに怪談話をしていた奴が文句を言った。冗談じゃない、先に行かせたのはそっちだろう。
あの翌日、昼食返上で合宿所を抜け出した海は、ボールを拾って目的の家に向かった。家の中からは薄汚れたパーカーに擦り切れてぼろぼろになったジーンズといったいでたちの女が出てきて、海の持ってきたボールを汚いものを見るように睨んだ。が、その視線は無視して、家に入り込んだ。ともすれば犯罪者として通報されかねなかったが、そんなことはまるで考えていなかった。
ただ、家の奥にいた女の子を。汚れた服を着て、体中痣だらけになり、痩せこけたその子をどうにかしなければと、それだけを考えていた。
礼陣という特殊な土地で特殊な育ち方をしたせいなのか、虐待をしていたのが母親だったからなのか、海の勘はすでに勘ではなく、確信だった。あの小さな手の主はまだ生きていて、けれども確実に死に近づいているということが、はっきりとわかった。実体ではない手を握って、話をするだけで。
間違いなら間違いでいい。子供が普通の生活をしているのなら、虐げられていないのなら、それで良かった。けれども確信は外れてくれなくて、結局、女の子は保護された。そう経たないうちに親戚に連絡がつき、ひとまずそちらに引き取られることになった。しかしそれで完全に解決、とはならないだろう。
地元では、子供を虐げた大人には人ならざる者たちの裁きがある。普通は起こりえないことが当たり前になっていて、だから人々の考えも「世間一般の当たり前ではない」。そのため自分の行動が、衝動的だったそれが正しかったのか、海にはわからない。
ただ、届いた手紙が。「お兄ちゃん、ボールありがとう」と書かれたそれが、あの子の生存報告であることは、きっと間違いない。偽物ならすぐわかる。
女の子の生霊らしきものと会ったことは、誰にも話していない。ただボールを見つけて持ち主を探していたら、偶然その家に行きあたったのだと説明した。貫き通せば嘘やごまかしも真実になるのだなと、身をもって知ることとなった。
「偶然ボール見つけられたのは、お前のおかげだよ。俺から感謝しておく」
「お……おう。そうか?」
怪談話を無視できなかったこと、あの場所に行くのを断れなかったこと。本当に全てが偶然だったのか、今更考えてもわからない。子供がこれからどうなるのかは少し気になるが、あの母親がどうなったのかはどうでもいい。
手紙には返事を書こうと、それだけを留めた。



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2016年10月15日

礼陣町語り 秋の夕暮れ

丸い形のべっこう飴を一つ口に放り込み、包んだままのもう一つは制服のポケットの中にしまう。これは持って行って、あのひとにあげるのだ。
人、ではない。彼は人間と同じ姿をしているけれど、その姿をもう何百年と保ってそこに居続けるのなら、人とはいえない。町の人たちもそれをわかっていて、そのひとのことを異口同音に呼ぶのだった。
「神主さん」
私もそうする。けれどももし声にルビがふられるのなら、こうなるのだ。――「大鬼様」。
誰がいつ呼んだって、神主さんは笑顔で振り向いて、相手の名前を言う。
「愛さん、いらっしゃい」
大きな深緑色の鳥居の下、きれいに掃かれた境内に立って。

私が礼陣の町に引っ越してきて、二年と半年。ついこのあいだ、両親の一周忌を迎えた。まるで子供たちを永遠に置いていくその日を知っていたかのように、彼らは私たちをここに連れてきて、そうして一年と三か月ほどで、遠い海で死んだ。
飛行機の事故だった。色々な不幸が重なってしまい、乗客は誰も助からなかった。両親は外国での仕事からこの国に帰って来るところで、私たちはこの町に住む叔父とともに、お土産を楽しみに彼らを待っていた。何も知らずに、暢気に笑っていた。あのニュースが流れるまでは。
おそらくは両親の命が尽きたであろうその瞬間から、私の目に映る景色は一変した。もともと人には見えないようなものを「視る」ほうではあったけれど、この町に越してきてからはなかったから、その光景には驚いた。街を歩く様々な姿の異形の者たちは、しかしながら一様に、頭に二本のつのをもち、瞳が赤かった。その異形をこの町では「鬼」というのだと、教えてくれたのは近所の人だ。どうやら鬼は、この町にはいて当たり前で、けれども見えるのは親を亡くした子供だけという、悲しいかたちで認められているひとびとのようだ。
鬼たちの筆頭が、この町の北東の方角にある礼陣神社の神主さん、大鬼様であることも、同時に教わった。人間にしては不思議な雰囲気のひとだな、と思っていたら、本当に人ではなかったのだった。
鬼のことを、この町の仕組みを、鬼が見える「鬼の子」というものの存在意義を知りたくて、神主さんに近づいた。私が尋ねれば、このひとは応え得る限りの答えをくれた。そうしていつしか鬼に詳しくなり、鬼たちと言葉を交わしたり遊んだりすることができるようになった私を、神主さんは巫女として受け入れてくれた。鬼と深く関わることのできる人間だと認めてくれたのだ。
そうして過ぎた一年を振り返り、私は神社の境内へ続く石段から、街を眺める。人間と鬼が入り混じって歩く光景が、私にはもう当たり前になってしまった。そしてそんな私をおかしいと言う人も、この町にはいないのだ。
異形が見えることを不気味がられることは、ここにいる限りはない。私がこの町に来る前まで感じていた息苦しさが、ここに来てからはなくなった。それが素直に嬉しい。
「このべっこう飴、美味しいですね。富田屋さんのですか」
石段に座った私の隣に、神主さんが腰を下ろす。並んで眺める向こう側は、もう陽が落ちかけていた。秋の夕方は短い。
「一個買ったら、おまけにもう一個くれたんです。福々堂さんのと似てますねって言ったら、同じだもの、って言ってました」
「ああ、そうなんです。このあたりの駄菓子屋さんは、だいたい同じメーカーから卸してるんですよ。みんなで美味しいものや人気があるものの情報を共有して、町中の子供が手に入れられるようにしているんです」
「経済的競争の観点から見てどうなんですか、それは」
「あんまりそういうことを考えていないんですよね。愛さんは、そういうことを考えたほうがいいと思いますか?」
「ううん……お店を続けていくためには必要なことだとは思います。でも、口に出してみるとたしかにそれだけじゃつまらないですね。この町の駄菓子屋さん、本当に子供のためのお店って感じなので」
「そう、そうなんですよ」
この町が「子供のため」を中心に動いていることに気づくたびに、神主さんは喜ぶ。はるか昔、神主さんはここに住む人間たちと約束をしたのだそうだ。子供たちを守ると。そうすることでこの場所を守ると。この町が子供たちのために運営されているということは、神主さんがその役割を果たせているということであり、人間たちが先祖たちの意志をきちんと継いでいるということでもある。
時代とともに変わるものはたくさんあって、それは当たり前のこと。そのなかで根っこの部分が変わっていないことを、神主さんはいつも確かめているようだった。確かめては、嬉しそうにしていた。
現にこの町の子供たちは元気で、神社を含む町のそこかしこで集まっては、賑やかに遊び、笑っている。私の弟だってそうだ。小学生になって、友達がたくさんできた。親がいないことなんか、誰も気にしていなかった。
この町は居心地がいい。私たち子供にとって、そしてきっとそうやって育った大人にとっても。
小さくなった飴を口の中で転がしながら、私は神主さんに問う。
「神主さん、幸せですか」
「この町のみなさんが幸せなら、私は幸せですよ」
「そうですよね」
このひとはそういうひとだ。初めて出会ったときから、いや、そのずっと前、大昔から。
「じゃあ、町の人が不幸なら、神主さんは不幸なんですか」
「……そうですねえ。不幸、というよりは、悔しかったり腹立たしかったりします。不幸からみなさんを助けてあげられない自分自身が、もどかしくてなりません」
苦笑する神主さんは、私にそう言いながら、どこかずっと遠くを見つめていた。沈む夕日のその向こう。私なんかでは到底辿り着けないような場所を。
そうして、昔ね、と。水滴のような言葉を零したのだった。
「昔といっても、私にとってはつい最近。昭和二十年のことです。大東亜戦争……とは、愛さんたちは言わないのでしたか。とにかくあの大きな戦争のときに、私はたくさんの人を助けそこなったんです。あれはとても悔しくて、悲しかった」
「戦争で、ですか」
口の中で、かり、と飴が砕けた。
「戦争は、仕方がないのでは。たしかに神主さんは人間ではありませんけど、一度にそんなにたくさんの人を助けることはできないって、前にも」
「ええ、私の力は限定的です。この礼陣の町の中でだけ、私は私の鬼としての力を使えます。その中にいない人には、力が及びません」
礼陣という、この町の地名。諸説ある、とはいわれているけれど、神主さんは「霊陣」、つまり人間を超えた力が及ぶ範囲であると教えてくれた。あれはたしか、私が両親を失って間もない頃だ。
「戦争のときに、この町は安全だといわれていたんです。山間にある田舎ですから、狙われる理由がなかったんですね。ええ、少なくとも誰も思いつきませんでした。だからこそ山の向こうからたくさんの子供たちが疎開してきましたし、私や町の大人たちは子供たちにできるだけ食べさせるために尽くしました。人々はこの国の勝利を信じていましたし、そのためなら何でもしようと、小さな拳を振り上げていたものです。……私は、それがありえないと言えませんでした」
それはそういう空気が国中にあったからだろう、と私でもわかる。人々は苦境が必ず報われると信じていたかったのだ。そういう時代があったことを、そのころ影も形もなかった私は、学ぶことでいくらか知っている。
けれども神主さんのいう「助けそこなった」は、人々の意識の問題ではなかった。
「戦争には勝てないだろうと、その予測はできました。でも、この町にまで戦火が直接及ぶことまでは、私も考えていなかったんです」
「……空襲かなにか、あったんですか」
「はい。この何もない田舎を狙って、飛行機が爆弾を落としていきました。貴重な弾薬がもったいないはずなんですけれど、たぶん彼らには彼らなりの理由があったんでしょう。私はそれらから、人々を守るのに必死でした。鬼たち総出で大きな楯を作って、礼陣の町を守ろうとしました。結果、落ちてきた爆弾は街を逸れていったわけですが」
「だったらいいじゃないですか。鬼って、やっぱりすごい力を持っているんですね」
「いいえ」
礼陣を守れたのだったら、それで十分だろう。私だけでなく、誰もがそう思うはずだ。しかし神主さんは首を横に振って、もう一度「逸れていったんです」と言った。
「爆弾が消えてなくなったわけではありません。逸れて方向を変えた爆弾は、あのあたりに落ちました」
すっと指をさしたそちらには、遠川が流れている。指先をよく見て、もう一度街を見て、私は息を呑んだ。あちらには、私が今住んでいる家があるのだ。
「当時、現在の遠川地区西側と川向こうの南原地区は、まだ礼陣ではありませんでした。しかしそちらにも、もちろん人は住んでいて、生まれ育った子、そして疎開してきた子らがたくさんいました。彼らには私の力が及ばず、逃げ遅れて、家ごと燃えていきました」
炎をあげる礼陣の「外側」を、神主さんは、鬼たちは、助かった人々は、どんな思いで見ていたのだろう。本来ならそこに落ちるはずではなかった爆弾まで浴びて、命を落とす人々が、私の住んでいる場所にいたのだ。
両手で自分の腕を抱くようにして、私は神主さんの指さす方向を、自分の家とその向こうを見つめた。
「彼らを犠牲にして、礼陣の人々を助けました。命は助かりました。でも、誰もが心を痛めました。……あれは、つらい出来事でした」
焼け野原になった場所は、戦後に復興していく。礼陣の、助かった人々が、そこにまた人が住めるように、生きていくことができるように街を整えた。そうして、その場所も礼陣となったのだった。神主さんはそれに合わせて、力の範囲を広げたという。以前より薄くはなったけれど、力は行き届くようになった。鬼たちは遠川地区の西側と、新しくできた橋を渡って南原地区にも現れるようになった。
「川のこちら側はともかくとして、向こう側、南原は今でも鬼がなかなか行かない場所になっていますけれど。あちらはあちらの発展の仕方をして、今では中心部と同じくらい賑わっています」
「南原が礼陣にしてはちょっと毛色が違うのは、そういうわけなんですね。たしかに、鬼をあまり見ません」
納得しながら、私は昔の礼陣に思いを馳せる。神主さんの力が及ぶ範囲が今よりも狭く、けれどももう少し強かった、いつかのこと。狭い地域のほんの一握りの人を救うかわりに、他の人を犠牲にすることとなった日のこと。――瞼の裏に炎が見えた気がしたけれど、それは私の知識の範囲内で構成された映像で、実際の光景ではない。
「でも、礼陣の、こちら側にいた人たちにとっては奇跡ですよね。その人たちはたしかに、神主さんたちに救われたんですから」
「良い方に捉えれば、そういう見方もできます。でも、自分でもあれは、冷徹な選択だったと思いますよ」
しかたないじゃないですか、とは、簡単には言えなかった。ただの鬼が見えるだけの人間である私が、このひとに何を言ってあげられるだろう。
ただ黙って、夕日が沈むのを見た。空の群青が濃くなってきた頃、私は立ち上がって、先ほど神主さんが指さしていた方へ歩き出す。
「そろそろ帰らなくちゃ。お兄ちゃんの食事を用意して、大助にご飯を食べさせて、他にもいろいろやることがあるので」
「愛さんは忙しいですね。私の長い話を聞いてくれてありがとうございました」
「鬼の話を聞くのも、巫女の役目ですから」
私が笑ってみせると、神主さんはやっと小さく微笑んだ。
神主さんの思い出を、私が塗り替えることは不可能だ。でも他に目を向けさせることはできる。私を見てもらうことで、神主さんが少しでも幸福になれるのなら、私はいつでも幸せそうに笑っていなくてはならない。
私が住んでいるのは焼け野原ではなく、今の人々が生きている場所。礼陣なのだ。私は礼陣で、これからも生きていく。神主さんとともに。
私の家からでも、神社の鳥居はよく見える。礼陣を守るひとがいる、その場所がわかる。



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2016年10月09日

おいてけぼりの秋

役場の蛍光灯を換えていたら、ちょうどその場面に出くわした。妹と、自分の大学の同級生だった男が、連れ添って窓口にやってくる。そういえば今朝、両親と話していた。遅番だから、書類を出してから職場に向かうと。
つい凝視していたら、妹たちがこちらに気づいた。それぞれに呆れたような、困ったような顔をして、脚立に足をかけている自分を見ている。
「桜、あっし、おめでとう!」
思い切って声をかけたら、恥ずかしそうにしていた。妹に至っては、兄に向かって「馬鹿」と言う始末。周りの職員は今誕生した一組の夫婦とその兄を、微笑ましそうに眺めていた。

流が役場に勤め始めて、ひと月以上が経った。今は臨時職員だが、社会人枠で本採用試験も受けたので、うまくいけば来年には正職員になれるかもしれない。結局、親がかつて望んだコースに乗ろうとしているのかと思うと、少々悔しくはある。しかしこれが今できる最善手だった。
大学を卒業してからしばらく海外にいたが、ここ最近の世界情勢の危うさに、周囲からの多大な心配が寄せられていた。加えて実家で飼っていた犬の具合が悪くなっていたのと(八月の下旬にとうとう虹の橋を渡ってしまった)、その他諸々の事情が重なって、生まれ育った町に帰ることを決めた。犬の見送りができたことと、妹たちの門出を祝えたことで、選択は間違っていなかったと思える。
一緒に国外に出ていた和人は、実家に戻って家業を手伝っている。都合よく戻って大丈夫だろうか、と本人は案じていたが、予想以上に彼の帰還は歓迎された。両親はもとより、店で働くパート従業員らが大喜びだった。さすがは礼陣駅裏商店街のアイドルだ。現在も奥様方や後輩たちに大人気である。
お互い、しばらくは故郷で地道に暮らして、落ち着いたらもう一度海外に出ようと約束はしている。それがいつになるかは、今のところわからないのだけれど。
とにかくまずはしっかり働いて、元手を稼がなければ。何も金は、海外渡航のためだけに必要なわけではないのだ。家族や知人の祝い事も、これからどんどん増える予定だった。
そういうわけで、ずっと一緒に暮らしてきた二人は、今は別々に生活している。

役場の臨時職員は定刻に帰るようにいわれている。余計な経費をかけたくないのだそうだ。とはいえ給料は安くはないので、こちらも余計なことをしなければ余暇を楽しむだけの余裕を持てる。本日の仕事を終えた流は、そのまま帰宅はせずに駅裏商店街へ寄り道し、酒屋でビールを二缶買った。日本人の好きなキンキンに冷えたものではなく、少しぬるめのもの。季節柄を考えても、こちらのほうがいいだろう。
そうして向かったのは、商店街の東寄りに位置する水無月呉服店。和人の実家だ。まだ営業中で、店内には客がいた。表から入るのはまずいと判断し、建物の隙間から裏にまわる。
呼び鈴を鳴らすと、優しげな返事とともに足音が聞こえる。裏口、と誰もが呼んでいるこの家の玄関から出てきたのは、着物姿の婦人だった。微笑んだ顔と髪質が和人に似ている。
「あら、流君。お仕事お疲れさま」
「お疲れさまです、おばさん。和人は店ですか?」
「今ちょうど接客中なの。あがって待っててくれるかしら」
「おじゃまします。あ、手伝いとかは必要ですか」
「お仕事終わったんだから、ゆっくりしててちょうだい」
もう少しどこかで時間を潰してから来るんだった、と思う。閉店の頃に来れば、片付けの手伝いができた。学生時代に慣れた掃除なら、今でも役に立てるだろう。
流を居間に残して、和人の母は再び店に戻っていった。呪文のように淀みなく流れる言葉を忘れずに。
「菓子鉢は食器棚、飲み物は冷蔵庫。テレビ番組も好きなのをどうぞ。雑誌と新聞はテーブルの脇よ」
ようは勝手にしていいということで、どうやら大人になった今でも許されるらしかった。それでも子供の頃のように甘える気にはなれず、静かになった部屋でスマートフォンを弄る。毎日何かしらの動きがあるメッセージアプリのタイムラインは、妹が婿を迎えたことで盛り上がっていた。
そう、婿なのだ。一応はこの町の名士である野下家に、妹の夫は籍を置くことになった。それもこれも、流が家を継がないせいだった。継がないつもりで出たのに戻ってきたから、実は今、生家はあまり居心地の良い場所ではなくなっている。父からの小言も煩わしい。
だったら独り暮らしでもすればいい。頭ではわかっているのに、行動が伴わない。愛犬の死を引きずっているということもあるし、帰ってきたときに変に喜ばれてしまったからというのもある。それだけ心配されていたのだ。学生時代まで使っていた部屋も、そのままきれいに整えられていた。
居心地が悪いのは、流の心持ちのせいだ。
「あのね、流。来るなら来るで、役場を出たあたりで連絡くれないと」
出かけた溜息は、その声で引っ込んだ。いつの間に仕事が済んだのか、いやそれともわざわざ切り上げてくれたのか、着物姿の和人が居間の戸口に立っていた。
「や、お疲れ」
「お疲れ、じゃないよ。まだ仕事残ってるんだから」
「片付けなら手伝う。どうせ今日は家に帰れないし」
「帰れないんじゃなく、帰らないんでしょう。手伝ってくれるなら、ジャケット脱いで掛けてきて」
いつもと変わらない対応に、おや、と思った。もしや和人は、妹のことをまだ知らないのではないか。事情を知っていたら帰るように促すだろう。
それならそれで、と言われた通りにジャケットを掛け、すでに表を閉めた店に出る。和人の父が事務仕事をしていたので、挨拶をした。
「おじゃましてます」
「いらっしゃい。ゆっくりしていて良かったのに」
「ここに来たら動きたくなるんですよ」
本当のことだ。黙って待っているのは性に合わない。和人の指示通りに店内を掃除し、ごみをまとめて捨てに行くのが、ここでの自分の仕事だった。
一通り終わる頃に、母屋からふわりと香る味噌の匂い。
「今日の具、何だろうな」
「茸じゃない? 平木のおじいさんが持ってきてくれたから」
「あのじいさん、まだ茸採り行ってるのか」
「らしいよ。僕もびっくりしたんだけどね。さて、着替えてご飯にしよう」
着替えるのに自室へ向かった和人を、流は鴨の子のように追う。ごく自然に室内に一緒に入り、昔から少しも変わらない、しかし今は自分の部屋よりも居心地のいいそこに腰を落ち着ける。和人はかまわずに帯を解いて、着物を脱ぐ。こちらに帰ってきてから、着替えの習慣がついた。以前は洋装にエプロンだけをかけて店に出ていたから、もっと支度が楽だった。
「着物、慣れたか?」
「とっくに。そっちこそどうなの、スーツ」
「さすがに慣れた。クールビズも終わったし」
「だね。ちゃんとしなきゃ、またおじさんに叱られるだろうし」
和人の言うおじさんとは、つまり流の父で、役場では直属ではなくとも上司にあたる。誰にでも厳しい人ではあるが、息子である流には特に容赦がない。もしかするとそんなふうに感じるのは流だけかもしれないけれど。家での小言のほうが印象が強いから。
「……ちゃんとしてても、おじさんに叱られるね」
昨夜の小言を思い出しかけていたら、和人が溜息交じりに言った。気がつけば彼の手にはスマートフォンがあって、画面には見慣れたタイムラインが表示されていた。
「桜ちゃんたち、今日結婚したんだ。てことは、今夜は流の家はご馳走なんじゃないの」
「別に俺がいる必要はないだろ。桜のことなんだし」
「桜ちゃんにとっては、流は唯一のお兄さんでしょう。あっし君だって友達なんだから、お祝いした方がいいんじゃない」
「役場でおめでとうって言った」
そう、とだけ返事があった。これ以上は何を言っても無意味だと察したのかもしれない。部屋を出ようとしたので立ち上がり、また後ろについていく。
居間に行くと、すでに流を含めた分の食事が用意してあった。

ビールを片手に着信をチェックし、どう返信したものかと考えているあいだに、和人が風呂から戻ってくる。もう一缶を渡すと、ありがとう、のあとに呆れた言葉が続いた。
「迷うくらいなら帰ればいいのに」
「帰ったところでアウェーだからなあ。オオカミももういないし」
「アウェーなんじゃなく、流が寂しいんでしょう。しばらくこっちに顔出さなかったから大丈夫かなって思ってたんだけど、そうでもないんだね」
缶を開けて一口飲んでから、和人がちょっと顔を顰める。風呂上りは冷たいほうが良かったらしい。文句は言わなかったけれど、察することはできた。
「オオカミが死んでから、どこにいても身の置き場がない気がして。時間が経てばそのうち慣れるかと思ったけど、なかなかそうはいかないな。桜にはあっしがいるからもう大丈夫だろうって考えたら、いよいよ取り残されたような感じがしてさ」
「気のせいだよ。誰も君を置いていったりなんかしてない。勝手に立ち止まって置いていかれたって思うのは、桜ちゃんたちも心外だと思うけど」
「わかってるよ。……今までこんなことなかったのにな。寂しいっていうのが初めてで、どうしていいのかわからない」
ぬるいビールを飲みほして、メッセージを入力することを諦めたスマートフォンを放り出し、敷いてあった布団に寝転ぶ。今更帰ったところで情けないのは変わらないので、今日はここを動かないことにした。言い訳は明日すればいい。
そうやって逃げても、きっと胸に溜まり続ける冷たいものは、離れてくれはしない。
「流」
名前を呼ぶ声と、温まった手が、耳を撫でた。
「たぶん、だけど。今の君は、大学時代の僕に似ているんだよ」
「そっか、こういう気持ちか。どうしたらいい?」
「どうも何も、流が会いに来てくれたんだよ。そうか、僕が会いに行けばよかったね」
ごめんね、と言われそうだったので、その前に起き上がって、和人を抱きしめた。そのせいなのか、それ以上は何も言わなかった。
言わない代わりに、背中を優しく叩かれた。子供にするみたいに。いつか流が和人にそうしたように。

ああ、まだ、抜け出せそうにないな。それまで日々を過ごすしかないな。
なんとか大人のふりをして。



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2016年10月08日

鬼の語りを継いでゆく

むかし、むかし。里に仲のよいととさまとかかさまが住んでいた。
かかさまの腹にはややがいて、もうすぐにでもうまれそうだった。
ととさまはかかさまとややのために、毎日山で働いていた。
ちょうど里の人々は、大きなお社を作ろうとしているところだった。ととさまはお社を建てるために使う木を、山で切っては運ぶ仕事をしていた。
ととさまはかかさまとやや、それから自分の仕事を、とても大切に思っていた。
ある日、かかさまがととさまを仕事に送りだしてから、とうとうややがうまれそうになった。かかさまは近所の人々と、それから里に住む鬼たちの手を借りて、ややをうもうとした。
ととさまが帰ってきたらびっくりするだろな、と思いながら、うんうんうなってがんばった。
ところがそのころ、ととさまは山で大けがをして動けなくなっていた。まわりにはだれもおらず、ひとりでとほうにくれていた。遠くでととさまをよぶ声が聞こえたが、返事をすることもできなかった。
おおい、ここだ。心の中で叫ぶばかりのととさまに、だれも気付かなかった。
もうだめだ。あきらめかけたととさまの前に、ぬっとでてきたものがあった。それは頭にりっぱなつのがある、この里を守る大鬼様だった。
大鬼様はととさまに、優しい声で言った。
ややがうまれた。かかさまもややも元気だ。なんにも心配はいらない。
それをきいたととさまはほっとしたけれども、かかさまとややに一目でも会いたいと願った。体はもう動かない、声も出せないととさまには、もうできないことだった。
かわいそうに思った大鬼様は、ととさまにまじないをかけた。人間だったととさまを、鬼にするまじないだった。頭につののある鬼になったととさまは、すっくと立ち上がり、大鬼様にお礼を言って、それからびゅーんと山を駆け下りた。かかさまとややが待つ家へすっとんでいった。
帰ってきたととさまを見て、かかさまはびっくりした。頭のつのはどうしたんだとたずねると、ととさまはただただにっこり笑った。
元気なかかさまと、元気なややに会えたことが、ととさまには何よりもうれしいことだった。
鬼になったととさまは、それからかかさまとややを守るようになった。山に入る仕事はもうできないけれど、かわりにとても強い力を手に入れた。
ややが大きく育つまで、鬼のととさまは、家を幸せにし続けたんだと。


礼陣の昔話には、必ずといっていいほど鬼が出てくる。鬼と呼ばれる存在と、人々が密接であることが、物語の数々からわかる。
鬼は実際に存在する。多くの人には見えないが、今でも一部の子供には見えるものだし、かつては見えたと主張する大人たちがいる。ある学者はこれを集団ヒステリーだ、伝承をもとにした幻覚だと言ったが、それだけでは説明のつかないことも頻繁に起こっている。
この土地の現象と伝承を研究し続けている頼子の周りにも、よそから見れば奇妙だが内側には「あたりまえ」のことが、ごく自然に発生していた。義妹、義弟、教え子の一部は、礼陣の持つ秘密にとても近いところにいる。
全てを暴いて広める気はないが、納得はしておきたい。それが頼子の研究目的だ。知ってどうすると言われたら、そう答える。
そうして集めることができた礼陣の昔話は、現在、息子である紅葉の子守唄になっている。

「話を間違えたり飛ばしたりしたら怒るんだよ、ちがうって。内容を暗記してるんだね。これも頼子の教育の賜物というか……」
悪く言えば毒されているか。そこまでは言わなかったが、話をせがまれる方としては、たぶんに厄介なのだろう。それでもどこか嬉しそうなのは、我が子の成長を喜ぶ方が大きいからか。
兄、恵が話すその横で、彼の子であり大助にとっての甥である紅葉は、パズルで遊んでいた。プラスチックの大きなピース同士を真剣に組み合わせて、絵を完成に近づけている。もう二歳、生まれたときに比べればずいぶん大きくなった。
「兄ちゃんと頼子さんのおかげで、頭良さそうだもんな。紅葉、お菓子食べるか?」
一歳になるかならないかの頃から、紅葉はどんどん言葉を吸収して使おうとするようになった。母である頼子が日頃から難しい単語ばかり発しているせいか、最近ではときどきこちらも意味を正しく覚えているかどうかわからないようなことを言う。
普段あまり言葉遣いがきれいではない大助も、紅葉に変な言葉を覚えられないよう、この子の前では少しだけ口調が丁寧になる。もし紅葉が乱暴なことを言えば、それは自分のせいだ。恵も頼子も穏やかな人なのだから。
「たべない。おわってない」
「終わってからじゃないと食べないのかよ」
「目の前のことをちゃんと片付けないと、気になるんだよ。頼子と同じだ」
「兄ちゃんともな」
笑っていると、何の話よー、と奥から声が聞こえてくる。先ほどから紅葉のお古を、頼子と亜子が漁っているのだった。そのあいだの子守は父親たちの仕事。今は眠っているが、大助もずっと自分の子供の大樹を抱いている。
もうじき生まれて半年、大樹は最近、あーだのうーだのと意味のない音をよく発している。本人にとっては意味があるのかもしれないが、大人にはそれがわからないので、適当に返事をしたり、こちらで勝手に意味づけをする。
「おわった。……だい、ねてる?」
パズルの絵――頼子のセンスなのか、現れたのは日本画風の猫だった――ができあがって、紅葉は満足したらしい。大助の横に来て、大樹の顔を覗き込んだ。
「大樹はまだ寝てるな」
「おきたら、むかしばなししてあげるのに」
大樹を弟分だと思っている紅葉の、最近のブーム。恵や頼子が話して聞かせ、もうすっかり覚えたという話を、大樹の傍で延々と唱える。相手が聞いていようといまいと関係なく、紅葉がそれをしたいのだ。まだおぼつかない口調で、両親の真似をしたいのだ。
「昔話か。新しい話してもらったか? おじさんに聞かせてみ」
「あたらしいの、ないよ。いっつもおんなじの。でもしてあげる」
おんなじの、という紅葉はちょっと拗ねているようだった。もっとたくさん、別の話が聞きたいのだろうが、かといって一般の幼児向けの話は、紅葉の好みじゃないという。この子が聞きたいのは、礼陣の伝承だ。頼子が収集した、この町の人間が語り継いできた話だ。――そのほとんど全てに、鬼が絡む。
「むかしむかし、さとになかのよいととさまとかかさまがすんでいた。かかさまの……」
そして伝承は、実際の出来事から派生したものが何種類かあって、微妙に違う複数の物語となっている。まとめればやはり同じ話ばかりになるだろう。
紅葉が覚えて話した、山で怪我をした男が鬼になって家に帰り、生まれたばかりの子供に会うという話。大助が知る限り、それも同じ設定でいくつも違う流れや結末がある。実際、大助が知っている話と紅葉が昔話として聞かされている話は内容が異なる。
男が大鬼様の力で鬼になる、というところは、大助が知る話では男の死が明確になっている。人間として死ななければ、鬼として復活することができない。また、男が鬼になるタイミングも違う。男は鬼になって山をおりるのではなく、魂だけ山をおりてから妻と子の姿を見て、この世に未練が残って鬼となる。
鬼が見える「鬼の子」だった大助が思うに、おそらくは自分の知っている話のほうが真実に近い。この町に住む「鬼」は、人間の未練と秘めていた力によって成るものだ。いわば強力だがほんの少し自由のきく地縛霊である。
頼子は礼陣の研究をして伝承を事細かに収集しているので、大助が知っているパターンも当然記録済みだろう。紅葉が聞かされている話は、数多いパターンの中でおそらく最もマイルドなものだ。死を省き愛を誇張した、幼い子供のための構成。あるいは、礼陣を奇異の目から避けるための。
「……いえをしあわせにしつづけたんだと。おしまい。おじさん、きいてた?」
「聞いてた。よく覚えたな。難しくないのか」
「ぜんぜん」
それでも紅葉なら、そのうちこの話一つをとっても数多くの派生があることに気がつくだろう。そこに暗い闇を見つけることになるだろう。この子は聡い。
「じゃあ、これは覚えたか? 里を治める殿様に仕えた、剣の達人の話。そいつは鬼と仲が良くてな」
「しらない! なに、おしえて」
「大助、ちゃんと整理して話してくれないと、あとで僕らがせがまれたときにできないからね。メモしないと……」
「どうせ頼子さん知ってるよ。大丈夫だって」
礼陣に関わることは鬼に関わること。紅葉も、そしてそのうち大樹も、この町の常識の中で生きていく。いつかはそれが一般の常識とは異なることに気づき、うまく折り合いをつけることになる。
頼子が伝承をマイルドにして聞かせるのは、常識の差異を曖昧にするためでもあるかもしれない。そういうことにはよく気がつく人だから。
でもいつかは、自分で。礼陣の持つ物語と、この子らも付き合うことになる。物事を読み取るのは自らで、解釈し受け入れるのも自らなのだ。



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posted by 外都ユウマ at 11:06| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月21日

祭りの道を並んで歩く

町を歩けば生徒にあたる。なぜか他校生までもが、自分の存在を知っていた。剣道場に通っている者ならまだしも、全く面識のないはずの者にまで覚えられている。
「日暮先生、こんちゃーっす」
「おう、お前ら宿題終わったのか」
「……もーちょっと」
昨日からこんなやりとりを、何度していることだろう。そのたびに隣を歩く雪に笑われた。
「黒哉君、大人気の先生だね」
「この町の子供たちのネットワークはすごい。さっき話した奴、たぶんあれが初対面だぞ」
「そんなもんだよ、ここは。学区を越えて遊ぶから」
夏祭りの二日目、つまり最終日なのだが、今は初日の午前ほどの人出はない。次に混むのは花火大会の時間が近づく夕方からだ。出店を覗きながら歩くにはちょうどいい。この外出は雪とのデートでもあり、教師としての町の見回りでもある。もっとも、この町の子供なら、祭りの日に危ないことはしない。気をつけるべきはよそから来た者が起こす事件に巻き込まれないかどうかだ。
「でも、よその人は町で見張ってるからね。そういう事件もめったに起きないよ。……あ」
見回りの説明をしたとき、雪はそう言ってから気まずい顔をした。よその人が見張っているはずなのに、起きてしまった事件。高校生だった黒哉がそれに巻き込まれて、現在がある。そのことを思い出したのだ。別に、気にしなくても良かったのに。
その時は、そのとおりだな、と彼女の頭を撫でて終わった。
「雪、何か食うか?」
「カラフル綿飴」
「あのでっかいやつかよ。食いきれるのか?」
「コーヒーに溶かして飲んじゃう」
「うわ、オレなら絶対無理なヤツ」
あれから事件がどうのという話はしていない。昨日だって、今だって、祭りを見に行こうと誘って出てきている。生徒と会うのは必然のこと。
「わー、可愛い。黒哉君、写メって」
「はいはい」
平和ならそれで良い。子供たちや雪が楽しそうに笑っていれば良い。それが続くことを切に願う。
「……綿飴、結構持ち歩くの大変だね」
「ほら見ろ。持ってやろうか」
「いいよ。生徒さんに笑われるよ」
「笑いきゃ笑え」
祭りの日の賑やかな町を、こんなに穏やかな気持ちで歩けるようになったのだと、黒哉は母に知らせたくなった。

毎年祭りの日は祖父の営む不動産屋の事務所にいたのだと、在は初めて莉那に告白した。人混みは苦手で、莉那に誘われた時以外は隠れていたのだと。
「恥ずかしい話だけど、僕はどうもこの町の行事を楽しめないようで。あ、莉那さんといるときは別だから、気にしなくてもいいですよ」
取り繕うように付け加えたけれど、莉那は笑わなかった。真面目な顔をして、在を正面からじっと見る。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか。私、そんなこと知らずに、毎年誘っちゃいましたよ。困った顔してたのは、照れてたんじゃなくて、本当に困ってたんですね」
「いや、それは」
「私、思い込みが激しいの自覚してます。たまたまそれがいい方向に転がったことが多いだけで、どこかでみんなに迷惑かけてるんですよね」
「そんなことはないですよ」
「あるんです。だから今年は、花火まで大人しくしてます」
どうせ昨日、神輿行列を見に行ったのだし。そう言って膝を抱えている莉那が、本当はとても祭り好きで、だからこそ先輩である流や和人と気が合ったのだということを、在はちゃんと知っている。莉那に我慢はさせたくない。元はといえば、今年は事務所に引きこもることはなさそうだと、つい口が滑った在のせいでこうなったのだ。
「……御仁屋の限定饅頭」
ぽそ、と呟くと、莉那の肩がぴくんとはねた。毎年、夏祭りデートのときは必ず買って食べていた。在も御仁屋の菓子は嫌いではない。それに限定なのだから、今年は今日しか食べられないのだ。
「莉那さん、甘いもの欲しくないですか?」
「か、買い置きのお菓子があるので」
「それは普通にお店に行けば、生産終了しない限りはいつでも買えるものでしょう。でも限定饅頭は昨日と今日だけ。しかも昨日は買い逃してしまった」
「観光客が年々増えてるからしかたないです。今年はガイドブックとかにも載っちゃったみたいなので、あれが目的で来た人も多いらしいですよ」
「じゃあやっぱり食べておかないと」
在が笑って言うと、莉那の顔が真っ赤になる。昔は立場が逆だった。高校生の頃は、莉那の押しが強くて、在はいつも照れて戸惑ってばかり。けれども慣れれば、在が普通に莉那と話せるようになれば、実はこちらのほうが相手の弱点をとらえて翻弄するのは得意だということに気づいてしまった。
自分にそんな特技があったなんて、在はそうして初めて知ったのだった。
「買いに行きましょう、莉那さん。というか、僕は一人で留守番するのも一人で行くのも嫌なんですから、ついてきてもらわないと今度こそ困ります」
困るということを武器にするのは卑怯だとわかっている。でも、卑怯なのは今更だ。胸を張れることでもないが、卑下してそれまでにしてもどうしようもないことは学んだ。利用できるものなら利用してしまえと開き直る術は、これもやはり高校時代に身につけ、大学生活で浸透させたものかもしれない。
「……じゃあ、一緒に行きます。競走率高いので、人混みの中に突撃することになりますよ」
「いいですよ、ちょっとなら。じゃあ、さっそく」
あれから七年。莉那と親しくなってからなら六年。成長したといっていいのか、図太くなったというべきか。とにかくいい方向に転がったのは間違いないと、在は思っている。
「今年からはもう、黒哉も付き合ってくれないし」
「黒哉君? 去年は一緒にいたんですか?」
「事務所に引きこもってるときに差し入れしてくれたんですよ。でも、もう雪さんがいるから」
「在さんには私がいますよ」
「そうですね。頼りにしてますよ、僕の奥さん」
通ってきた道がどうであれ、今ここにあるのは幸福だ。
もう、祭りの日に事務所に引きこもることはないだろう。それは祭りが好きになったからではなくて、祭りが好きな人が傍にいるから。
この町への違和感に屈したわけではない、と在はこっそり抵抗し続けている。

駅裏商店街の入口のアーチの下、入江新と牧野亮太朗は炭酸飲料をちびちびと飲んでいた。待ち人が来ないので暇を持て余していたところ、ばったり出くわしたのだった。
「お前らな、もっとがーっと飲めよ。せっかく奢ってやったのに」
その様子を見て溜息を吐くのは、中央中学校教員の井藤幸介。祭りの賑やかさの中、アーチ下でぼんやりと立っていた二人を見つけて事情を聴き、元教え子たちを元気づけてやろうと思ったのだが。
「飲み終わってなくなったら、これ以上何して春を待てっていうんですか」
「俺は待つのはかまわないけど、新と何もせずに二人でいるのがいたたまれない。井藤ちゃん、なんか面白いことやってよ」
「人に何期待してんだよ牧野……」
井藤はパフォーマーではない。面白いものが見たければ、駅前大広場でやっているステージを見に行けばいい。今年はたしか、何年かぶりに瑠月樹里が来ているはずだ。いちアイドルから大人気のトップアーティストへと進化を遂げた彼女を呼ぶのは大変だっただろう。だが、きっとこの二人は自分の彼女以外に興味はない。昔からそういう生徒だった。
大広場から明るい曲と力強い歌声が響いてくる。ちょうど出番のようだ。おかげで出店の並ぶ商店街からは人がいくらか引いている。みんな広場のほうへ行き、今頃はタオルか何かを振り回しているのだろう。
「須藤も渡辺ももうすぐ来るだろ。人混みに邪魔されることもないだろうし」
「今メッセージきて、春はあと三十分かかるそうです。おじいさんの手伝いだから仕方ないけど」
「連絡来るだけ良いだろ。俺なんか来るかどうかもあやしくなってきたぞ。親戚が来るのはいいけど、ちびっ子の面倒見るのは大変だよな」
「……お前ら、それ手伝いに行ったほうがいいんじゃないの?」
そのほうが早く会えるし用事も済むしで、こうしてぐだぐだしていることもなくなっていい……と思ったが、それは井藤だけの考えではなかった。直後にステレオで喚かれたことによると、新は手伝いを申し出たが「工芸のことだから新には難しいよ」と断られ、亮太朗も「親戚に先輩のことどう説明したらいいかわからないし、あとでからかわれると面倒なので」とこれまた断られたそうだ。終わったら必ず行くから、と言われているだけましで、半ばふられたようなものだ。
だが井藤も、彼らのことばかり言っていられないのが現状だった。
「井藤ちゃんはそもそもなんでここにいるんだよ」
「そうですよ、井藤先生こそ何か用事があってここに来たんじゃないんですか」
「俺は教師としての見回り……のついでに嫁さん待ってんの」
「嫁さん? どっか行ってんの?」
「盆からずっと実家に帰ってるよ。処分しなきゃいけないものがいっぱいあるからって、俺は一緒に行ったのに先に帰されたんだ。今日の花火大会には間に合うようにするって言ってたんだけどな、夕方の列車で来なかったらアウト」
「井藤先生の新婚生活も大変ですね」
そう、井藤は一応新婚で、新と亮太朗もそれは知っている。なにしろ井藤の入籍の報せは当日のうちに町中に広まり、急遽同窓生で相談をして、一週間以内にほぼ全員がお祝いのメッセージを送ったのだ。現役の頃より団結していた、と元教え子たちの中では語り草になっている。
「みんな待ちぼうけかー」
「せっかくの祭りなのにな」
遠くから歓声が聞こえる。この小さな町に押し寄せた瑠月樹里ファンが盛り上がっている。彼女のおかげで、今年の祭りはすでに去年の来場者数を超えたそうだ。先ほど商工会議所の職員がそう話していた。
「牧野、暇ついでに訊いていいか?」
「何、井藤ちゃん」
「この町で生まれ育って、良かったと思ってる?」
「あ、それオレも聞きたい。春見てればわかると思ってたけど、マキとしてはどうなんだよ」
「今更だな」
たしかに新と井藤はこの町の生まれではない。中学からこの町にいた新はともかく、井藤は教員になってこの町に赴任してきたのだ。ここで生まれ育った亮太朗に比べれば、住んでいる期間は短いし、生まれたときにどうだったかなんてわからない。もっとも、それは亮太朗だって憶えていないのだけれど。
でも井藤や新に子供ができたら、その子は礼陣の子供になる。だから聞いておきたいのだろう。この町が住みよいかどうか。
「近隣の市より福祉関係はいいらしいし、子供最優先だから、中学卒業するまでは良いんじゃないのか。あとは高校以降の進路次第。俺みたいによその学校に行くことになって金がかかるかもしれないし、大学は礼大狙いじゃない限りまずほとんど山の向こうだ」
「それは一般的な話だろ。マキはその人生で良かったのか?」
「人生って、まだ二十年ちょっとだぞ。……でも、良かったんじゃないの。この町なら友達はわんさかできるし、井藤ちゃんみたいな先生や大人もいっぱいいるし」
亮太朗がそう言って笑うと、新も井藤も安心したような表情を見せた。だから今は、お前ら次第だぞ、という言葉は飲みこんでおく。
炭酸飲料の刺激が少なくなってきた。かわりに、人が増えてきた。ステージが一段落したのだろう。それぞれのスマートフォンに着信があったのは、ほぼ同時だった。
待っているだけは、もう終わり。そろそろ動き出さなければ。

夕方には駅裏商店街の出店が片付けを始め、人々は遠川河川敷や色野山展望台、礼陣神社境内などの花火観賞スポットに向かう。
加藤パン店も夏祭り限定の蒸しパンを売りきり、出店を片付ける。洗い物なども手早く済ませ、あとは明日の仕込みを残すのみとなった。これは両親がやるという。
「だから詩絵はちゃんと支度して、花火見てきなさい」
母が差し出す浴衣を、しかし詩絵は拒否した。浴衣で山を登るのは、整備された登山道を通るとしても難しい。今年の花火も色野山展望台で見るつもりなのだ。
「浴衣動きにくいし、普通の恰好でいいよ。もたもたして松木君に迷惑かけるのも嫌だし」
「俺は別に迷惑じゃないよ。詩絵さんに合わせる」
「花火に間に合わなかったら嫌でしょ。場所取りのことも考えると、絶対浴衣は不向き」
どうやら今年も、詩絵の浴衣姿は拝めないようだ。肩を落とした松木の背中を、詩絵の弟である成彦が慰めるように叩いた。
「二人で温泉でも行ったら見られるかもね、浴衣」
「成彦君、さらっとすごいこと言うよな」
「伝手ならあるから場所も紹介できるよ」
にやり、と笑う成彦。苦笑いで返しながら、さて本当にどうしようか、と悩む松木。大学四年の、今年が最後のチャンスだと思っていた。詩絵と二人の花火大会ももう四回目なのに、未だに告白すらできていないのだ。加藤家の人々はほぼ公認なのに。
「松木さん、自信持っていいよ。今年頑張れば大丈夫」
成彦に見送られ、松木と詩絵は色野山展望台までの道を歩く。一緒に歩く四年目は、もう松木が詩絵を追いかけることもなくなって、完全に並んで行くことができた。本当は二年目からそうだったのだけれど、この一言は今日まで言えずじまいだった。
「詩絵さん、手繋いでいい?」
これで勇気を使いきってしまってはいけないのだけれど、きっと半分以上費やした。
詩絵は目をしばたたかせ、言われたことを反芻する。頭で考えるよりも行動の方が早くて、気がつけば手を出していた。
「……ん。繋ぎたいならどうぞ」
「あ、ありがとう。失礼します」
互いに汗ばんでるなと思った。夏だからだ、緊張しているからかもしれないけれど、理由の大部分はきっと季節のせいだ。そう言い聞かせながら、他の二人連れに混じって進む。
色野山展望台は今年も人が多い。けれども例年通り、地元民や礼陣出身者らしい人たちばかりだ。昼間のステージや出店を目当てにやってきた人たちは、交通機関の都合などもあってほとんど帰っている。翌日は平日だから、そうせざるをえない。
いつもの場所に到着して、まもなく一発目が打ち上がる。まだ手は繋いだままだ。詩絵からも松木からも離そうとすることはなかった。今なら、と松木が口を開きかけたとき。
「松木君さ、アタシのこと好き?」
詩絵が先手を打った。答えが一種類しか出せないやり方で。
「……好き、です」
「うん。アタシも好き」
花火の音が、周りの声が、遠くなる。単調な告白が、頭の中を駆け巡る。ああ、好きなんだ、と。それだけがマッチの灯のように暗闇に浮かぶ。
「好きになったよ、松木君のこと。どこが、とか、何が、とかそういうのはよくわかんない。でも、早くバイトに来ないかな、とか、休みになったら会えるのが楽しみだな、とか、そんなふうに思う。そういうのが好きになることなら、アタシは松木君が好きなんだと思う」
このよくわからない気持ちをわかってほしいと思う、それも「好き」の一部だろうか。
「詩絵さん。俺、最初に詩絵さんと会ったときから、詩絵さんのこと好きだったよ」
「それは周りから婿さんだのなんだのって言われてたからじゃなくて?」
「その前から。だから今、詩絵さんから言われてびっくりしてるし、……嬉しすぎて花火どころじゃない」
「いや、花火は見といた方がいいよ。だって、今ここにいるアタシたちの特権なんだからさ」
そして花火を見るたびに、今夜のことを思い出そう。

音なら聞こえる。光も微かに届く。いつも見ていた花火を見ずに、今年は野下家の縁側に、流と和人と桜が並んで座っていた。
庭には老犬が寝そべっている。その様子をただ、静かに見守る。
「桜、あっしと花火見なくて良かったのか」
「原稿中だから見れないって。だから私もオオカミを見てるの」
こんなに静かな祭りは、生まれて初めてなんじゃないだろうか。お祭男と称された流が、今年はステージにも出ず、軽く出店をまわっただけだった。
オオカミが心配だった。でも、それだけじゃない。今まで海外に旅に出て、夏祭りに帰って来る生活をしていたのが、これで一旦終わってしまうという現実を見なければならなかった。
世界情勢をみるにつけ、一度旅の生活は諦めなければならないと結論を出した。家族や友人に心配をかけたくなかったし、和人を道連れにしてしまうことにも罪悪感が募りつつあった。
もうしばらくは、この町にいる。そのための生活のことを考えなければならない。それは、和人も同じだった。
「長い旅になると思ったんだけどな」
「長かったよ。……落ち着いたら、また行けばいい」
それはいったい、いつになるだろう。
祭りが終わる。終わってしまう。もうすぐ花火の時間も、終わる。
「仕切り直すのもいいんじゃないかと、僕は思うよ」
そう言う和人だって、本当に納得したわけではない。
世界は動く。ちっぽけな二人は、結局それに翻弄されるしかなかった。それが悔しい。
「大口叩いて、これだもんな。和人を連れまわしただけだった。ごめんな」
「それは違うよ。行くと決めたのは僕で、歩いたところで得られたものは僕らのものだ」
無駄ではなかったかもしれない。けれども犠牲にしたものは、けっして小さくはない。
たとえば、目の前の犬とか。
「……もう、らしくないなあ、お兄ちゃんも和人さんも。そもそも一緒にいたくて始めた旅なんだから、これからもそうすればいいじゃない。留まる場所がまた礼陣になっただけよ」
桜が愛猫を撫でながら言う。――そういうことにしておこうか。旅はまだ終わったわけではない、ということに。
「……さっきのが最後の一発だったのかな、花火。もう聞こえないね」
「そうだな。オオカミ、わかったかな。花火の音」
「吠えないから、わかんないね」
ひとまず、ただいま。


礼陣の夏が過ぎていく。祭りの夜が明けたなら、その先に次の季節が待つ。
そうしてまた時が巡れば、祭りの季節はやってくる。
それを見届け、鬼たちは、この町を守り続けるのだ。
『それが私たちの役目だものね』
それを確かめ、夜を過ごす。



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2016年08月20日

神輿と人々

神輿行列の囃子に合わせ、朗々と唄う声響く。
「今年も人多いね」
「足もと気をつけて、小さい子いる」
夏の最後を飾るのは、礼陣の町の伝統行事。
「手をつないでてね、はぐれないように」
「あとでいちごあめ食べたい」
大鬼を祀る、夏祭り。

「ちょっとー須藤さーん、なんか御神輿の部品欠けてるってー」
階下から呼ばれて、春はあわてて階段を下りる。足はどちらかといえば遅い方なので、一所懸命に走ってもなかなか行きたいところへ辿り着けないのが、長年の悩みだ。
「欠けてるって何が」
「ほら、飾りが左右で違う。昨日までちゃんと対称だったのに」
「あー……すぐに直すね」
北市女学院大学はまだ夏休みの真っ最中だ。けれども課題を進めたい学生やサークル活動の合宿などで、一部施設は申請をすれば使えるようになっている。
春の所属する芸術学部工芸専攻の学生は、一部で集まって、夏祭りに合わせて御神輿を作っていた。とはいえ本当に担いでまわるものではなく、机の上に置けるようなミニチュアだ。これを子供神輿が展示される駅前大広場公園に、一緒に置いてもらうことになっていた。
この試みは今年が初めてだったが、祭りの運営をする商工会などにはすんなり受け入れられた。というより、大歓迎だった。そういうわけで、それぞれの卒業制作や他の課題と同時進行で作っていた。
今日がとうとうお披露目の日なのだが、持ちだす直前になってこの始末。欠けた部分を慎重にごまかして、最後にもう一度全体を見てから、これでよしとした。
「もう持ってっちゃおう。神輿行列終わっちゃう」
「了解。……てゆーか、須藤さん、ここにいて良かったの?」
一緒に制作をしていた同級生に尋ねられ、春は首を傾げる。いて良いも何も、このミニ御神輿を持って行かなければならないのだから、必然的に来ることになっていたはずだが。
「ここじゃなかったらどこにいるの」
「音楽専攻の……園邑さんだっけ。あの子と仲良いでしょ。一緒にいなくて良いの?」
「ああ、千花ちゃん。あっちはあっちで用事があるから。私の今の用事はこれ」
そしてこのあとも、千花とは合流する予定がない。あの子には、もっと大切な用事がある。
もちろん、春にも。
「これ置いてきたらどうするの」
「そこで解散かな。私、人と待ち合わせてるから。だから鍵は返して出よう」
「待ち合わせって誰? 彼氏?」
興味津々の目。期待の声色。簡単に肯定するのはちょっとあっさりしすぎかな、と思ったので。
「どうかな」
笑って、ごまかしておいた。

神輿行列は人出が多く、かつ移動するため、地元民のほとんどはTシャツにスニーカーだ。これに法被を羽織れば完璧な祭りスタイルになる。
子供から大人まで、成長すれば法被を買い替え、この恰好を貫くのだ。海もそういう大人になりたいと思っていた。礼陣に生まれ育った者としてそうありたいと、半ば意地になっていた。
この町が嫌いだった、産みの母への反発もあった。今年は素直に、そうだったんだなと思える。そして彼女がこの町を嫌いになった理由も、今なら少し理解してやってもいい。一度自分が、周りを信じたくなくなったから。つまりはそういうことなんだろうと、解釈している。
「千花」
彼女のために、そうすることにした。
「あ、おはようございます、海さん。……ふふ、法被、お揃いですね」
「町のものなんだからお揃いなのは当然だろ」
はたして今日、同じような恰好の自分たちは、恋人同士と兄妹とどちらに見えるだろう。どちらでも正解という妙な状態を、自分たちは受け入れつつある。
もっと早くに知っていたはずの親たちのほうが混乱している。おかしなものだ。
「……最後の夏祭り、だっけ」
「お仕事が始まればそうなりますね」
人混みと喧騒、唄う声。どんなに騒がしくても、互いの声はしっかり聞こえる。千花はともかく、海には人間だけでなく鬼の声まで聞こえるのに、一番聞きたいものをとらえることができた。
「ずっと一緒にいるようになれば、最後じゃなくなりますよ。いつかまた、二人でお祭りを見られます」
ぎゅ、と握った手に込めたのは、どの種類の愛情だろう。
「さて、大神輿を追いかけるか」
「そうですね。それがこの町の人間の習いですからね」
恋人でも妹でも何でもいい。このまままっすぐ進めば、いずれ辿り着くのは家族だ。歪な道だけれど、それを選んだ。この町を守っているという鬼たちは、どうやらそれを静かに見守ってくれるらしい。これまで真相を黙っていたことの詫びのつもりなのかもしれないけれど。
「一緒に祭りに来てくれてありがとう」
「こっちこそです」
とりあえず約束を果たせた。まずはそれでいい。これからに続く第一歩だ。
二人で一緒に、地面を蹴る。

大勢の人にも、囃子に混じる太鼓の音にも、四か月の赤子は動じない。これは大物になるわね、と言った義姉の子も、こちらはもうすぐ二歳になるが、そういえば祭りに泣いたことはなかった。
もしかして鬼があやしてたりするんだろうか、でも普通の子供には見えないはずだけど、などと大助は考えを巡らせる。なにしろもう見えないので、本当のところがわからない。見えた頃は、こんなことは気にしたこともなかった。
「大樹、真剣に御神輿見てるね。楽しいのかな」
「それにしては笑いもしねえぞ。変なもんがある、くらいの認識じゃねえ?」
この春に生まれた我が子を抱いて、亜子と一緒に神輿行列を見に来た。途中で兄夫婦とも合流して、少し人から離れた場所で、大神輿が動くのを眺める。
兄夫婦の子供である紅葉は、神輿に向かって手を伸ばしていた。成長するにつれてあまり乳幼児用のおもちゃに興味を示さなくなったかわりに、昔話の読み聞かせや神社までの散歩を喜ぶようになったらしい。絶対に母親の影響だ、と大助は思っている。
自分たちの子、大樹は、どう成長するだろうか。今はまだぼけっとしているか泣くか、たまに笑うかといったところだが、そのうち好き嫌いをするようにもなるんだろう。
「適当なところで、神主さんに挨拶しに行かなきゃね。愛さんも待ってるだろうし」
「神輿行列が終わったらな。当分は忙しいだろ。その前に大樹が腹空かすかも」
「じゃあやっぱり、一回うち戻ったほうがいいか。恵さんとよりちゃん先生も寄ってく? 遠川の家よりは近いよ」
「それじゃ、お言葉に甘えさせてもらっちゃおうかな。恵君、いいでしょ?」
「いいけど、僕らはもうちょっと神輿行列見てからだね。紅葉がもっと見たそうだから。大樹に差し障りあるようだったら、大助たちは先に帰りなさい。あとでお邪魔させてもらうよ」
本当に紅葉は母親似の礼陣マニアになるんじゃないだろうか。ほどほどにしろよと思いつつも、今自分が心配しなくてはならないのは、大樹のほうだ。むずかる様子もなく神輿行列を見ているが、肌に汗が浮いてきている。夏もそろそろ終わりとはいえ、太陽は容赦なく地上をやいていた。
「亜子、大樹に水分とらせないとだめだ」
「バッグに入れてきたけど、やっぱり帰ったほうが良いね。じゃあ、恵さん、よりちゃん先生、またあとで」
去年より気を遣うことが増えた。その分慌ただしくなって、でも、賑やかになった。さすがに大樹くらいの頃の記憶は大助にはないけれど、もしかしたら今はもういない両親も、こんな気持ちになったんだろうか。大変で、たまに面倒で、でもそれが幸せだと感じる瞬間があったんだろうか。
「大樹が生まれてから、父さんと母さんのことを考えるようになった」
思っていたことをそのまま口に出す。亜子はそんな唐突な話に慣れていて、うん、と相槌を打つ。
「全然憶えてねえんだよな。でも、俺が生まれてしばらくは、家族全員揃って家にいるようにしてたらしい。母さんは仕事を休んで、父さんも家にすぐ帰れるような仕事をさせてもらってたって。母さんの産休が明けたらまた二人での海外出張が多くなるから、それまではちゃんと俺の世話をしておきたかったんだと。全部兄ちゃんから聞いたんだけど」
「恵さん、当時もう小学六年生か。そりゃあ憶えてるよね」
「大樹も忘れるんだろうな。今日のこととか、いつかは」
「全部は憶えてられないよ。わたしだってそんな記憶ないもん。でも、大樹はまだまだ人生始まったばかりだから。大きくなってから、お祭りの日にずっとお父さんに抱っこされてたこととか、話したらいいよ。恵さんと愛さんがそうしたみたいに」
だから生きてね。言葉にはしなかったが、たぶんそう続く。
ちょうど一年前、大助は鬼たちの声を神社で聞いた。亜子の胎に命が宿ったことを知らせるもので、それから少しして、亜子もそのことに気づいた。
そのときから、生まれてくる子を鬼の子にはするまいと思ってきた。亜子を生かして自分も生きようと、子供が大人になって鬼が必要なくなるまで見届けようと、決意した。
つい最近、一人で神社にいる神主を訪ねたときに、ついでにそんなことを話した。すると神主は「万が一」と前置いて、告げた。
――人間としてそうすることが不可能になってしまった場合、大助君は鬼になることができます。君も知っているでしょう、人間の魂が鬼と成り、この町に留まるということを。進道家の葵さんは少々特殊なケースですが、君の場合は根代家を守る鬼のように、家憑きになると思われます。
もちろんそれを望むわけではありませんが。そう締められた「行き先」の話を、誰にも言えなかった。言えるわけがない。
鬼の子になり、家を守る鬼が父だと知った子が、心の底から喜んだわけではないということを、よく知っている。その家族が、鬼の見えない人々が、どんなに胸を痛めたかを知っている。
「ウザがられても話してやる。俺が、自分で」
大物になるらしいこの子の成長を、人間の親として、見届け支えていこう。
鬼の子として、鬼追いとしての役割をとうに終えた今、それが大助の役目だ。

神輿行列が終わり、移動する人々で道路が混雑する。人の波はこれから駅前と駅裏商店街の出店へと流れていくのだ。
町の安全を守る警察官に、休む暇はまだ訪れそうにない。
「先輩、わたし渋谷とかのDJポリスみたいなのやってみたかったです」
「ここは渋谷じゃないからねー。ていうか、やっこちゃんにはまだそんな余裕ないでしょ」
「ないですね……」
いつも祭りは遊ぶ側だった。神輿行列を追いかけ、神社の迎え太鼓を聴き、出店へ向かう。今年からはそれができない。大人として礼陣を守るとは、そういうことだ。
「ああ、かき氷……いちごあめ……チョコバナナ……イカ焼き、焼きそば、お好み焼き、加藤パンの蒸しパン、御仁屋の限定饅頭……」
「やっこちゃん、こっちまでお腹空くから、食べたいもののリストアップは頭の中でお願い」
礼陣の一年で一番賑やかな日は、この町で働くおまわりさんにとって、一年で一番忙しい日になる。
「やっこちゃーん、お仕事頑張ってねー」
声をかけられれば笑顔で応えるが、内心はやはり羨ましい。その手に持っている綿飴の、ひとつまみでもいいから分けてほしい。
そんなことを考えていても、鍛えられた目と耳はしっかりと非常事態をとらえる。人混みの中、誰かが走って子供にぶつかった。小さいその子は転んで、周りには気づかない人たちが。
「やば……っ、待ってください、止まってくださーい!」
駆け寄ろうとしたその時、やつこはたしかにその瞬間を見た。
危うく踏まれそうになった子供を、抱き起こしたものがいた。それは人間とはかけ離れた姿をしていて、頭には二本のつのが。しばらく見ていなかったそれは、たしかにこの町にいる鬼だった。周りの人々は気づかない。見えていない。でも子供はふわりと、人の波から少し離れた場所におろされた。
もう、そんな光景は見られないと思っていた。鬼の子ではなくなった自分には、もう一生、神主と呼ばれる大鬼以外の鬼を見ることはないだろうと。
でも、力は残っていたのだ。ほんの少しだけ、その奇跡を見ることができる分だけは。
「……大丈夫だった?」
不思議そうにしている子供に近づき、目線を合わせて尋ねた。子供はこくりと頷き、もう一度首を傾げてから、また人の中へ戻っていった。これから駅裏商店街のほうへ向かうのだろう。
「礼陣は、変わってないね……」
鬼は子供を助け、守る。それがこの町の「常識」。
今日は夏祭り。鬼たちが主役の日。だからその「常識」が、大人になったやつこにも見えたのかもしれない。
「わたしも頑張らなくちゃね。鬼のみんなと一緒に」
なんだか励まされたような気がして、やつこは仕事に戻っていった。



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2016年08月14日

水無月家の怪談

仏壇に置いておいた桃が、忽然と消えていた。
詩緒も和孝も店に出て仕事をしていて、家には誰もいなかった。息子の和人は海外にいる。誰かが勝手に食べるということはないし、桃がどこかに転がり落ちているということもない。
これが初めてではない。ちょうど和人が大学を卒業し独立した頃から、こんな現象が頻繁に起こっている。そしていつも通りなら、まもなくしてテーブルの上にメモが置かれていることだろう。詩緒にも和人にも似た字で、「ごちそうさまでした」と。
よそなら、まず不法侵入を疑い、それで説明がつかなければ幽霊や妖怪の類が起こす怪現象だ。しかしこの町、礼陣では、たった一言で説明できる「常識」がある。この町で生まれ育った詩緒も、それはよく知っていた。
水無月家に起こるこの怪現象の正体は、鬼。それもおそらくは、詩緒がよく知っていなければならないはずの鬼なのだ。

一番最初の異変は、息子が海外へと旅立った年の春に起こった。
名前の上では呉服店、その実態は扱う品を先代が大幅に増やし大改造を行なった、衣料品店。それが現在の水無月呉服店であり、学生服が大量に必要になる冬の終わりから春にかけてはとても忙しくなる。加えて通常の着物や反物、小物といったものも出るので、目がまわる。
そういうわけで、礼陣を囲む山々を彩る桜をのんびりと楽しむことは難しい。もうすっかり慣れてしまったが、それらは店先から目の端に映すのみだった。それでも祭り好きな礼陣の人間の血が、花見ができるものならしたい、と体をうずうずさせるのだ。
その年も、そんな気持ちを我慢しながら、いつもの通りに仕事をしていた。学生服のシーズンはようやく落ち着き、今度は花見会の着物の相談や購入、それから早めの成人式の振袖などの案内が始まる。何を買うということはなくとも、常連客の相手も大事な仕事だ。水無月の家に嫁に入ってから、いや、ここで働くようになったのはそれ以前からだから、もう随分と長くこの流れの中にいる。
息子が完全に手を離れてしまって、「しなければならないこと」が一つ減った。するとできた隙間をどう活用したらいいのか、ふとわからなくなることがあった。今まで通りに店を切り盛りしていればいいのだろうけれど、本当にそれだけでいいのだろうか。
詩緒の人生は、町の名門女子校である北市女学院を出て、水無月呉服店に勤め、結婚して出産して、子育てをしながら働き続けるという、それだけなのだろうか。それに不満はないけれど、どこか不足を感じるようにはなっていた。
お茶会にでも出てみようか、いや、そんな時間がどこにある。そんなことを考えていた折に、「異変」が訪れた。
仕事の合間に食事の仕込みをしなければならないので、母屋に戻ったときだった。テーブルの上に、妙なものがあったのだ。
桜の枝。それも満開の花が眩しいほどにわんさとついたものが、背の高いコップに生けてあった。
家に人間はいない。誰かが勝手に入ったにしても、こんなことをする意味がない。念のため貴重品を確認したが、他のどこにも手をつけられていないようだった。
ただ、桜の枝は、折られたのではなく切り口がすっぱりときれいなそれは、たしかに人の手によって用意されたものだ。詩緒は首を傾げて、ちょん、と花をつついた。薄緋色の花弁が、笑うように揺れた。
このような不可思議な現象を、この町では「鬼」の仕業だとして納得することがある。普通の人間には見えないが、たしかに存在して、この町に住んでいるのだという鬼。町を守ってくれているのだという、神様。詩緒も幼い頃から、鬼にまつわる話をよく聞かされたものだ。
でも、こんなにはっきりとしたかたちで存在を主張してくる鬼なんて、いるのだろうか。鬼はこっそりと人間を助けてくれるものだと、だから過剰な願い事はしてはいけないと、詩緒は母から教わってきた。いくら花見がしたいと思ったところで、こんな立派な桜の枝を持ってきてくれるなんて、そんな話は今までにない。
「ねえ、和孝さん。居間に桜があったんだけど。枝ごと」
「なんだい、それは。僕ではないよ。パートの誰かじゃないのかい」
「それなら私かあなたに一言かけるでしょう。ちょっと見てきてごらんなさいよ、すごく立派な桜なんだから」
桜の枝を見に行き、それからまた店に戻ってきた和孝は、首を傾げながら「山の桜だと思うけど」と言った。
「鬼の仕業……にしては大胆だね」
やはりそう思うのだ。同じく礼陣の、それも歴史ある店の子として育ったこの人でも。
さらに不思議なことには、その桜の花は普通よりも長く咲き、五月の連休を迎える頃にようやくはらりと散ったのだった。

夏になり、水無月呉服店にも取引先やお得意様から御中元が次々に届くようになった。いくつかは仏壇にあげてから、いただいたりおすそ分けをしたりすることになる。夫婦二人では、特に食べ物や飲み物は、なかなか消費できない。和人がいれば友達に配ってくれたのだろうけれど、帰ってくるのはもう少し先だ。夏祭りの頃には帰って来るらしいが、それは八月の、お盆も過ぎた頃のことなのだ。
届いた桃を仏壇にあげて、詩緒と和孝はそっと手を合わせる。この店を守ってきた先祖たちと、産まれてすぐに亡くなってしまった娘のための仏壇だ。娘は和人とは双子だった。
この桃も、娘が生きていれば食べただろうか。仏壇に何かを供えるたびに、詩緒は娘のことを思う。忘れたことなんかない。
桃は仕事が終わったら冷蔵庫に入れて、明日の朝にでも食べようか。そんなことを思って店に出て、昼頃に一旦母屋に戻ったときに、何気なく仏間を覗いて目を瞠った。供えていたはずの桃がない。転がり落ちたかと思ってあたりを探してみたが、どこにも見当たらない。忽然と消えてしまったのだった。
食べ物が消えれば、それは鬼が持って行ったのだ。それが礼陣の「常識」である。けれども仏壇のものを勝手に持って行くなんてことは、これまでの水無月家では起こったことがなかった。
「和孝さん、仏壇の桃がないんだけど」
「またか」
「また?」
「昨夜に僕が供えたゼリーも、今朝になったらなくなっていた。まあ、これは鬼だろう」
「でも仏壇のものを持っていくなんて、今年が初めてよ」
「じゃあ今年からそうすることにしたんだ、きっと」
鬼が関わっていると判断したことに対しては、和孝は暢気だ。礼陣の人間を極めた人で、詩緒もそんな和孝が好きなのだが、今年から、というのがどうにも引っかかる。しかも桜の枝といい、仏壇のお供え物といい、大掛かりで、神に言うのもなんだが、不遜なのだ。
そんなことを考えていたら、仕事が終わってから家に戻ると、もっと奇妙なことが起こっていた。誰もいなかった室内のテーブルに、電話の横に置いてあるメモ用紙が一枚、置いてあった。近付いてみると、そこにはっきりと文字が書かれているのがわかる。
『ゼリーと桃、ごちそうさまでした』
その筆跡は、どこか和人のものに似ていて、でもそれよりも少し丸みを帯びているようだった。
いくら怪奇現象をおおらかに受け止める礼陣の町でも、今までになかったことが発生するというのは少々気味が悪い。遠くにいる和人に何かあったのではと、気になってメッセージを送ったほどだ。どうやら何事もないらしいが、息子もこの事態を不思議がっていた。

気になる名前を耳にしたのは、夏祭りの近づいた八月。夏休み中ということで、真昼間でも商店街や神社に入り浸る子供たちの姿が当たり前になる。水無月呉服店には、夏祭りに着る法被や浴衣を見に来る親子連れや中高生が出入りするようになっていた。
「こんにちは」
「あら、雛舞さん。いらっしゃいませ。今日はお仕事はお休み?」
「はい。せっかくだからこの子の法被と浴衣をと思いまして」
店を訪れた雛舞という客は、その年の春から姪を引き取っていた。噂があっという間に広まる町なので、詩緒も彼女らのことはよく知っている。姪の沙良は、丁寧に頭を下げて「こんにちは」と言った。礼儀正しく、忙しい伯母をよく手伝う良い子だと、商店街ではすでに評判の娘だ。
「こんにちは。沙良ちゃんはどんな浴衣がいいかしら。小学四年生でしたっけ。でも、ちょっと大人っぽい柄も似合いそうね」
「あ、ええと……」
沙良は視線を横に泳がせ、それからそこにかすかに頷くと、浴衣のコーナーを指さした。
「そこに、桔梗の柄の浴衣があるから、それが似合うんじゃないかって……」
見えない誰かと行動を共にしているような、行動と口調。礼陣にいる子供の一部には、ときどきこんな傾向がある。大抵それは「鬼の子」と呼ばれる、片親あるいは両親を亡くした子供に見られるものだ。そういう子供には、鬼が親代わりになるという言い伝えがあり、実際その子供たちには鬼が見えるらしい。
詩緒は鬼を見たことがない。けれども、このような子供はこの町では珍しくないので、これもまた普通だった。
「桔梗のね。これかしら」
「あ、はい。それだって、美和さんが」
「美和?」
その名前を、知っていた。詩緒が忘れるはずがなかった。珍しくもない名前だが、特別思い入れのある名前なのだ。――亡くした子供につけるはずだった、名前。
「美和、って? 沙良ちゃんの知り合い?」
「鬼です。ええと、わたし、このお店にいる鬼が見えてて……その鬼が、美和さんっていうんです。そう名乗ってました」
店にいる? 美和と名乗る鬼が、ここに? 本来、鬼には名前がないものだそうだが、その鬼には名前があるのか。亡くした娘と同じ名が。
「今、子供たちのあいだで有名みたいですよ。子供の疑問と願いをきいてくれる美和鬼様。神社とこの店によく現れるって、他の鬼の子も言ってるそうです。知りませんでした?」
雛舞の言葉に、かろうじて「初耳だわ」と頷く。ちらりと和孝に視線をやると、彼も目を丸くしていた。
「名前がある鬼なんて、珍しいわね」
「美和さんは、名前が大切なんだそうです。人から貰ったものだから」
外から聞こえてくる、子供たちの声を意識した。名前が会話の中に混じっている。――美和鬼様、宿題の答え教えてくれないかな。いや、勉強は自分でやれっていうんじゃないの。
「……おばさんのね、娘の名前も、美和っていうの。随分昔に亡くなったんだけれど」
気づけば、口をついていた。沙良は浴衣を見ていた目を詩緒に向け、こくりと頷いた。
「だから美和さん、ここにいるんですね」

店の小物の並びが崩れたと思ったら、次の瞬間には直っている。反物を出そうと思って忘れてしまっていたら、いつのまにかきちんと用意されている。気をつけてみれば、店の中でも不思議な現象はたくさん起きていた。それも、今年の春を境にして。
店じまいをした後、詩緒は和孝にことわりを入れて、礼陣神社に赴いた。ここには鬼が祀られていて、何年経っても姿の変わらない神主が常駐している。神主こそが大鬼だと、昔からそういわれている。
詩緒は社務所の戸を叩き、出てきた青年――詩緒が子供の頃から青年だった――に頭を下げた。
「神主さん、遅くにすみません。どうしてもお尋ねしたいことがありまして」
「ええ、中へどうぞ。……詩緒さんか和孝さんか、どちらかいらっしゃるのを、待ってたんです」
全てお見通しであるかのように、神主は笑った。詩緒が多くを語らなくても、この人は、いや、大鬼様は、この町で起こっていることを知っているのだろう。
冷たい緑茶を供され、詩緒は神主と向かい合った。何から話そうか迷って、一番手っ取り早そうなものを選ぶ。
「美和鬼様って、何なんですか」
神主は笑みを浮かべて答える。
「今、子供たちに大人気の鬼です。鬼の子を通じて、勉強や遊びのことを尋ねたり、願い事を言ったりする子が多いですね」
「それはお客様から聞きました。そうじゃなく、私が聞きたいのは、その……美和鬼様が、うちの美和なんじゃないかって、いうことなんですけれど」
そこまで口にすると、あとは堰を切ったようにこれまでのできごとが言葉になって溢れた。知らぬ間に桜の枝が生けてあったこと。店の棚がいつのまにか整えられていること。気がつくと仕事が進んでいること。仏壇に供えたものが消えて、代わりにメモが残されていたこと。
それらを、神主は黙して、頷きながら聞いていた。微笑みを保ちながら。
「美和鬼様は、よくうちにいるそうです。鬼の子の接客もしてるみたいで。……それって、私が思い描いていた、もしもうちの子が、美和が生きていたらこうだったんじゃないか、って姿に重なるんです。それに、思い出したんです。和人はよく、私たちには見えないものに話しかけていました。美和、と呼びかけていました。あれは私から双子だった話を聞いて始めたごっこ遊びじゃなく、もしかして本当に美和がいたんじゃないでしょうか」
もしもそうだとしたら、自分はずっと娘に気がつかなかったことになる。そこにいたのに、もういなくなってしまったものとして扱っていたことになる。
膝の上で拳を強く握った詩緒に、神主は柔らかく微笑んでいた。
「鬼は、礼陣を守るものです」
穏やかに語りだす言葉が、焦り走った詩緒の心を、ゆっくり宥め始める。
「水無月呉服店と、店を営む貴方たちも、礼陣の一部です。それを気にかけるのは、鬼として当然のこと。本来はもっと静かに人間を見守るものですが、美和という鬼は人間が大好きで、手を出さずにいられないんでしょう」
一瞬だけ、神主が苦笑したように見えた。でも、本当にそうだったかどうかわからないほど、すぐに表情を元に戻す。
「詩緒さんと和孝さんは、和人君が旅立ってから寂しそうでした。大学に進学した時は休みになれば帰省するという確信もあったし、国内にいましたから、会おうと思えばすぐに会えます。けれども今はそうではない。それはさぞ心配でしょう。……美和鬼様と呼ばれる鬼は、それが気がかりだったのかもしれませんよ」
鬼として普通のことだ、と神主は言いたいのだろう。たぶん、美和鬼様と美和を同じに考え、今まで気づかなかったと自分を責める詩緒に、そうではないと告げているのだ。
詩緒は頷き、それから今度は深く頭を下げた。
「気にかけてくれてありがとうございますと、美和鬼様にお伝えください」
「私が伝えるまでもなく、ちゃんと聞いてますよ。なにしろ鬼です」
「……そうですね」
鬼は礼陣の守り神。主に子供たちを守るというが、神にとって人間など、子供のようなものなのかもしれない。詩緒たちもまた、鬼に守られていたのだ。
そう納得して、詩緒は神社をあとにした。
見送る神主は、傍らに佇む女性の姿をした鬼に、溜息交じりに言う。
「美和さん、あまり水無月家に干渉しすぎるとこうなるんですよ。和人君がいなくなって、自分は鬼に成ったからといって、張り切りすぎましたね。あと、お供え物をもらうのはどうかと」
『だってお父さん、美和はゼリー好きかな、って置くんだもの。お母さんもそうやって桃を置いたから、食べて良いのかと思って』
「鬼であることをわきまえなさい」
『鬼だけど、私は水無月の娘ですから。和人の代わりに店を守るって決めたし、これからもお父さんとお母さんを困らせない程度に接触は続けます』
「しかたのない人ですね……」
娘が鬼になったことを、詩緒たちは知らなくていい。ただ、美和という娘がいたことを、憶えていてくれるだけで十分だ。
あとは美和が、両親にしてあげたいことをするだけ。迷惑じゃなければ、いくらでも。今までできなかった分を足して、めいっぱい。

水無月家にはいつも怪奇現象が起こっている。仏壇のお供え物は消えるし、テーブルにメモが置かれる。店の品物は手を触れなくてもきちんと並べられている。けれども主はそれを微笑ましく思って、放っておいている。
いや、ときどき呟く。言いたくても言えなかった言葉を、ぽつりと。
「まったく、美和はしょうがないわね。お手伝いしてくれるから、特別よ?」
歌うような詩緒の声に、美和は見えないながらも、幸せそうに笑っている。



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2016年08月07日

安居酒屋に屯する・5

夏の夕方、商店街は家へ帰る人々や買い物客で賑わっている。日が長いので、神社で遊んでいた子供たちも、ようやく帰る気配を見せ始めたところだ。
一方で大人の時間はこれからで、居酒屋が店を開け始める。それを狙って、四人の若い女性がやってきた。
背の低いロングヘアは須藤春。肩までのふわふわの癖毛は園邑千花。二人はこの町の女子大に通う四年生だ。同じ芸術学部だが、専攻はそれぞれ工芸と音楽で、まるで方向性が違う。伸びた髪を頭の後ろにまとめているのは加藤詩絵、普段はよその大学の学生だ。ベリーショートで一番背が高いのは笹木ひかり、こちらは唯一の社会人で、この町で働いている。
学生組は夏休み、ひかりは仕事終わり。詩絵が帰省しなければ揃うことはないので、このメンバーで集まるのは久しぶりだった。
春が予約を確認しているあいだに、千花と詩絵が仕事終わりのひかりを労う。疲れたよー、とは言いつつ、笑顔を絶やさないひかりの生活は、本人曰く充実している。
通された席で、それぞれの一杯目を注文して、それからはとめどないお喋りの時間。話題はいくらでもあるが、最近はメッセージアプリのタイムラインでも恋愛の話が多い。
「千花と海先輩、うまくいって良かったよねー。そもそも拗れてることすら、アタシと笹は知らなかったけどさ」
「事情が事情だったからね、うまく説明できなくて。拗れてるあいだは春ちゃんにお世話になったよ」
「お酒飲みながら電話するの、ちょっと楽しかったよね」
「あたしもやってみたいなー。詩絵、今度やろう」
「酒飲みながら喋るなら今からやるじゃん」
運ばれてきた酒を配る。春は地元の日本酒を冷で、千花は梅酒をロックで、詩絵はカシスオレンジ、ひかりは生ビール。かんぱーい、とグラスやジョッキを軽くぶつけて、話を進める。そうしているあいだにも手元にはメニュー注文用のタブレットがあって、食べたいものをどんどん入力していく。
「それで千花は、来年から海先輩のところに住むことにしたの?」
とりあえずご飯ものは欲しいよね、に続けて、詩絵が自然に尋ねる。
「まだ決まってないよ。これからお父さんとはじめ先生の話し合いとか、海さんと私で説得するとか、やることはたくさんあるもの。でも進道さんちにお世話になれるなら、たしかに食事の面で困らないんだよね」
サラダもお願い、と付け加えて、千花は苦笑いした。未だに料理が少し苦手なのは、やはり悔しいのだ。
「海にいのところが駄目ならうちはどう、って千花ちゃんにも提案したんだけど、それは断られちゃった。うちは何人いても歓迎するのに」
タブレットを詩絵から受け取った春が、ものすごい勢いでメニューを追加しながら言う。それを見ていたひかりは若干引きつつ、そりゃそうだ、と頷いた。
「だって春のとこ、入江君も来るんでしょ。あ、結婚したら入江君じゃないのか。そこに入っていくのは難しいよね」
「ひかりちゃんもそう思うでしょう。春ちゃんたちの邪魔にはなりたくないの、私も」
春の家に、入江新が婿入りしてくるという話は、もう仲間内に知れ渡っている。そのために春が入江家との関係を築いてきたことも、本当は嫁に行こうが婿をとろうがどうでもよかったということだって。大学を卒業したらすぐに結婚して、新が須藤の家に入るというのは、新の希望だ。
「邪魔にはならないよ。でも、うちに住むのもはじめ先生と暮らすのも、そんなに変わらないか。親戚じゃないけど親戚みたいなものだし、はじめ先生はうちに入り浸ってるし」
「須藤家と進道家の関係もすごいよね。こりゃ、春のほうが海先輩の妹らしいのも仕方ないか」
「そうすると、千花は春の義理のお姉さんみたいな感じになるのかな」
「そうだね。ややこしいけど」
実際、このあたりの関係は複雑だ。千花が恋人として付き合っていた進道海は、千花の実の兄だった。そして海と春は幼馴染で、兄妹のように育ってきた。事情を説明するのが難しかったのは、判明した事実があまりに突飛であったことと、人間関係の入り組みようのせいだ。おかげで全てを詩絵とひかりが知ったのは、本当につい最近、数日前のことだった。
「ま、がんばれ。アタシたちは千花を応援するから」
「ありがとう。私も詩絵ちゃんを応援してるよ」
「そうだよ、私たちのことはいいから、詩絵ちゃんとひかりちゃんの話を聞きたいな」
にやり、と春が笑う。詩絵は怪訝そうに首を傾げたが、ひかりは覚悟を決めたようにビールを一気に飲み干した。だん、と音を立ててジョッキをテーブルに置き、長く息を吐く。
「……今日は、それを聞いてもらうために来たのもあるから。話すつもりではいたんだけど」
タブレットの注文ボタンを押す前に、二杯目のビールを追加する。この後来るであろう大量の料理は、はたして全てテーブルに収まるのだろうか。春の腹にはきれいにおさまるのだろうけれど。
「特に詩絵、ちゃんと聞いてよね。あんたがふった男の話なんだから」
「そういう言い方されるとあんまり聞きたくない」
「だって事実じゃん」
ひかりには今、付き合っている人がいる。この関係になってまだ一年も経っていないけれど、彼のことは昔から知っていた。――相手はかつての同級生、浅井寛也なのだ。
彼が小学生の時からずっと詩絵に想いを寄せていたということを、詩絵は成人式の日に知ったのだった。
当時の彼には、ひかりではない、別の彼女がいたはずなのだが。喧嘩ばかりしていたという彼女が。
「結局その子とだめになったって話を、去年聞いたんだ。この近くにさ、バーあるでしょ。昼間喫茶店やってるとこ。あそこで偶然独り飲み同士が出会って、お互い昔話と近況報告をしたんだよ」
俺じゃやっぱり、だめだったよ。笹木も知ってると思うけど、いつもそうなんだ。せっかく加藤に励ましてもらったのにな。
そう言って浅井は笑っていた。泣きそうな顔で。本当はまだ詩絵が好きなんだろうなと、ひかりは思っていた。中学生の時に、詩絵と仲が良くて男女の別なく接することができる人物として、彼の恋の相談相手に選ばれた。そのときから、こいつは一途だな、という感想を抱いていた。
「それなのに、だよ。あたしが酔っぱらって、過去の恋愛なんか忘れてあたしと付き合っちゃえよ、なんて言ったのを真に受けて、よろしくお願いしますって頭下げるの。……だからね、付き合ってるというか、あたしはきっと詩絵の代わりなんだろうなって思ってる」
「そんなことないよ、笹。だって一年近く付き合ってるんでしょ? 浅井は笹のこと大事にしてるんだよね?」
「優しいよ。気が利くし、あたしが仕事で忙しい時は珍しいお菓子とか買って送ってくれる。連休には出かけたり泊まったりしてる。そういうことを、本当は詩絵としたかったんだろうなって、あたしが勝手に思ってるだけ」
詩絵は悪くないよ、と言いながら、気付かなかった罪はある、ともひかりは言っている。苦い顔をする詩絵に、春がフライドポテトを差し出した。
「気づいてたとしても、詩絵ちゃんにその気がないなら仕方ないじゃない。ひかりちゃん、浅井君にもびしっと言ってあげた方がいいよ」
「ひかりちゃんも卑屈になってない? 詩絵ちゃんのこと意識しすぎてる気がする」
千花の言葉を、ひかりは否定しない。そうだねえ、とガパオライスの皿を引き寄せ、全員に取り分け始めた。最近人気があるというから頼んでみたが、食べるのは初めてだ。
「あたしは詩絵の友達で、同時にライバルだと思ってる。自分と同じくらい運動ができて、成績も昔からどっこいどっこいで、対等に話せる人間。意識はしてるよ。詩絵はそうじゃないかもしれないけど」
「アタシだって、笹には負けたくないっていつも思ってたよ」
「でも詩絵のそれは昔の話でしょ。土俵が違えば意識しなくなるって、詩絵の得意な考え方だったよね」
あたしは今もなんだよ。皿を配り終えて、ビールを思い切り飲むひかりを、詩絵は眉を寄せて見ていた。一触即発? いや、これは大丈夫なパターンだ。
「……と、まあこんな感じに吐き出したわけだけど。浅井とはうまくやってるよ。あんな良い人ふるなんて、詩絵ってば贅沢ー」
「なんだよー、だってアタシのこと女子として見てる男子がいるなんて思わなかったんだよ。中学の時なんか特にそう。今だってよくわかんないし」
口をとがらせた詩絵に、ひかりは声をあげて笑った。嘘だー、と。
「だって気になる人いるんでしょ? 気にされてるの知ってるんでしょ? 春や千花から聞いてるよ、礼大の彼のこと」
じとり、と睨むと、春と千花はにやにや笑っていた。この二人は彼のことをよく知っている。長期の休みには詩絵の実家であるパン屋のバイトに来る、この近所の大学に通う彼。どうも初めて会ったときから詩絵のことが好きらしく、次第にそれを露骨に出すようになってきたので、いいかげん気づかないふりをするわけにいかなくなってきた。
そして多分、互いに大学四年である今年が、区切りになる。
「松木君は今年もバイト来てくれてるんでしょ」
「うん、すっかりうちの婿さんみたいな扱いになってる。違うってのに」
「でも詩絵ちゃん、まんざらでもないんだよね」
「……まあ、最近は、ちょっと」
実家や親戚と折り合いが良くないとかで、長期休みも帰省しない彼には、詩絵がこの町に戻ってきたときに会える。顔を合わせると嬉しそうに「詩絵さん」と声をかけてくる、どこか大人しい大型犬を思わせるようなその人が、詩絵はたぶん好きだ。恋愛だとかそういう以前に、人間としていいなと思う。
「松木君は結構頑張ってるんだけど、告白するまでいかないんだよね。……私二杯目いこうかな。千花ちゃんも何か飲む?」
「あ、じゃあ私は杏子酒ロック。詩絵ちゃんから不意打ちで告白したらどうかなって思うんだけど」
「だから、アタシは気持ちがそこまでかたまってないんだって。それじゃ松木君に失礼でしょ。アタシも二杯目頼んで、ファジーネーブル」
「詩絵、カクテルばっかりだよね。飲めないわけじゃないのに。あたし三杯目、ウーロンハイお願い」
「はいはいっと。私は芋焼酎にしよう。でもまあ、そんなに待たなくても、今年は松木君から何かあるだろうなって思ってるよ。夏祭りの花火のときとか」
「あの時間に成立するカップル多いよね。春ちゃん、鶏の味噌漬け分けて」
彼氏持ち三人に押されて、詩絵はさほど飲んでいないのにダウンしそうな心地だった。今日の飲み会は詩絵弄りの会だったのか。なんて厄介な。
「春、手羽餃子一個寄こしなさいよ。せっかくの女子会なのに、みんなでアタシを攻撃して……」
「ごめんって。詩絵ちゃんとも恋バナしたかったの。一個といわず二個持っていっていいから」
「恋バナで済むならまだいいんだよ、詩絵。みんな働くようになって、結婚とかもしたら、そのうち仕事や家庭の愚痴ばっかりになるんだから。今のうちだけだって」
「今のうちだけ、か。でも私は聞きたいな。恋バナだけじゃなくて、その先も、ずっと」
無事ならば、まだまだ人生は長いはず。ときどきこうやって集まって、話ができるなら、それはきっと幸せなこと。
また一緒にテーブルを、美味しい料理とお酒を囲もう。それぞれの話を持ち寄って。
「詩絵ちゃん、松木君と進展あったらすぐ教えてね」
「まだ言うか。……言うけどさ」
どうやらその日は、まもなくすぐに。



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posted by 外都ユウマ at 13:30| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月06日

あなたを待ちましょう

目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、気配はいつだってわかる。あまり家にいることのなくなったその人が帰ってくると、私の尻尾はぱたぱたと反応するのだ。
「オオカミ、流ちゃんが帰ってきたわよ。和人ちゃんも一緒みたいね」
トラ殿が教えてくれる。私の感覚もまだまだ大丈夫だ。ゆっくりと立ち上がって、こちらへ向かってくるにおいを確かめた。
「オオカミ、ただいま」
おかえりなさい、流殿。お待ちしておりました。

私はオオカミという名の犬だ。もう随分と昔にこの野下の家にやってきて、生活を共にしている。
そのあいだに、私を助けてくれた流殿は、小学生から中学生、高校生、大学生となり、それも終わればこの家を出ていった。でも、こうしてときどき帰ってきてくれる。私に元気な姿を見せてくれる。
とはいえ、私の目はもうほとんど見えなくなってしまっているのだが。同じくこの家に住む猫のトラ殿によると、私たちは随分と年をとってしまったようだ。
そして私のほうが、トラ殿よりも早く、体が弱ってきていた。
「もうオオカミも、すっかりおじいさん犬だもんね。トラも結構おばあちゃんだけど、まだ元気だね」
流殿の親友、和人殿が体を撫でてくれる。トラ殿が「ええ、おかげさまで」とすまして返事をするのが聞こえた。近くにいるはずなのに、声はどれも遠い。
「ごめんな、オオカミ。もっと早く帰って来ればよかったよな。こんなになるまで、待たせちゃったな」
寂しくなかったとは言わないが、待つのは苦ではなかった。必ず来てくれるとわかっていたから、私は流殿に会えるのをいつも楽しみにしていた。だからときどきの注射も、食事と一緒に与えられる薬も、受け入れてきた。そうすれば、また流殿に会えると、会える時間が長くなると、流殿の妹である桜殿が何度も言い聞かせてくれたのだった。
たぶん、今年が最後の夏になる。私を診てくれている人間は――医者という人だ――そう言っていた。桜殿はそれを流殿に伝えたようだ。
「桜、オオカミは散歩は……」
「もう足が弱っちゃって、家の周りをゆっくり歩くのでせいいっぱい。ここのところ急に体調を崩しちゃってね」
「そっか。天気、不安定だったらしいしな」
昔はずっと向こう、地区を越えて河川敷のほうまで走っていけた。流殿とならどこまでも行ける、そんなふうに思っていた。日が照っていても、小雨が降っていても、流殿と歩けるなら平気だった。でももう、それもできない。体がいうことをきかない。それは至極残念なことだ。
私は力を振り絞り、流殿に体を摺り寄せた。散歩に行きたいときにそうするように、前足で流殿を叩こうとした。よろよろとした動きでも、流殿にはちゃんと意味が通じたようで、目を見開いてから早口で言った。
「桜、リード持ってきてくれ。オオカミが散歩に行きたがってる」
「ええ、そんな体で? ……疲れたら帰ってくるのよ。お兄ちゃん、オオカミを抱っこできるよね」
「任せろ。行こうか、オオカミ」
「僕も行くよ。桜ちゃん、ちょっとのあいだ、荷物を置かせてね。お土産は開けちゃっていいから」
おや、和人殿も一緒か。それは嬉しい。まるで昔に戻ったみたいだ。

私がまだ元気に走り回れた頃、流殿は私を朝と晩の二回、散歩に連れて行ってくれた。それにはよく和人殿や桜殿が一緒に来てくれて、私は賑やかなお喋りを聞きながら楽しい時間を過ごしたものだった。
あんまり楽しくて走りすぎると、流殿も笑いながら走った。和人殿も、桜殿も、みんなで駆けた。そうして決まってこう言うのだ。「オオカミのおかげでいい運動になったね」と。
もう、その言葉は聞けない。流殿がいないあいだは桜殿が散歩に連れて行ってくれたが、最近では優しくも寂しそうな声で言うのだ。
「もう昔みたいには走れないよね」
同じ台詞を、今日は和人殿が口にした。
「ゆっくりでいいだろ。俺たちも年だし」
「それもそうか」
私よりはずいぶんゆっくりだが、流殿も大きくなられた。成長なされる流殿に、私は日々、いたく感激したものだった。それを流殿は知っているだろうか。
いつからか、流殿は私の恩人から、弟のようなものになっていたのだと、きっと犬の言葉で言っても通じないのだろう。たった一言でも人間の言葉を話すことが許されるなら、私は流殿に、「私はあなたが大切です」と伝えたい。とてもとても、大切に思ってきたのだと。
……ああ、足が追いつかない。すぐに疲れてしまう。立ち止まった私を、体の大きな流殿は、ひょいと持ち上げた。
「でっかいなあ。子犬の頃は、もっと簡単に抱えられたのに」
「ダンボール箱から抱きかかえて、獣医さんに連れて行って、それで流の家で引き取ったんだったよね。あれからもう十年以上経ってるんだから、早いね」
ええ、本当に、矢のように過ぎていきました。全てが懐かしい。この思い出を持っていけるなら、私は幸せだ。この世で一番幸せな犬だったと、自負できる。
流殿。流殿の体は、温かいですね。前は私のほうが――。

大きく強くなるように、オオカミ。そんな名を与えてくれた流殿に、感謝している。
こまごまと世話をやいてくれた桜殿、頻繁に会いに来て優しくなでてくれた和人殿にも。
私を野下家の犬にしてくれて、ありがとうございました。
私を幸せにしてくれて、こんな生き方をさせてくれて、ありがとうございました。


「おやすみ、オオカミ」
最後の散歩から数日。夏祭りが終わった次の日に、オオカミは眠るように息を引き取った。
苦しんだ様子がなかったから良かったと、桜は泣きながら言う。それが言えるのは、オオカミの様子を、これまで離れることなく見てきたからだ。
海外へ行くために、オオカミを置いていった。そのことを、今ほど悔やんだことはない。せめてもっと帰ってきて、オオカミの世話をするべきだった。
「……流、後悔はしちゃだめだよ。流が選んだんだから。オオカミはきっと、流が後悔することを望まないよ」
こちらの考えを見抜いて、和人が言う。自分も目を潤ませながら。本当は和人だって、もっと会いに来ればよかったと思っているんだろう。
捨てられていた子犬だったオオカミ。野下家で飼うことになり、どんどん元気になっていったオオカミ。成犬になり、河川敷を駆けまわり、町の子供たちにも親しまれていたオオカミ。その姿を見て、いつだったか、和人は「流とオオカミはそっくりだね」と言っていた。
オオカミのほうがずっと立派だよ、と思う。つらいことや痛いことに耐えて、帰ってきた俺たちをきちんと出迎えて。それがどんなに楽しみで、ありがたいことだったか。
オオカミのおかげで、俺がどれだけ成長できたか。先に大人になったオオカミは、きっと俺のことを、途中から仕方のない子供みたいに思っていたんだろうな。だって、あんなに優しい目をして、俺を見ていたんだから。
「ありがとうな、オオカミ。俺が帰ってくるまで、待っててくれて」
最後の夏だった。オオカミにとっても、俺にとっても。俺はもう、この町に「帰ってくる」ことはない。これからずっと、ここにいるつもりだから。それはオオカミのせいじゃなく、そうせざるを得ない理由が、俺たちの周りに次々に起こってしまったからなのだけれど。
でもその決断がもう少し遅かったら、きっとオオカミを看取ることができなかった。
「ペットの火葬、予約した……。お兄ちゃん、オオカミを連れて行こう」
「サンキュ、桜。和人も来てくれるか?」
「もちろん行くよ」
なあ、オオカミ。お前はよく俺を勇気づけてくれたよな。前に進もうと決めたとき、いつも傍に来て顔を舐めてくれたよな。
じいちゃんと一緒に時代劇を見て、父さんと一緒に新聞を読んで、まるで人間みたいに振る舞ってたこともあったな。
そんなとき、お前は何を考えていたんだろうか。少しでもわかったら良かったんだけど。
俺には犬であるお前の言葉はわからない。でも、ときどき俺の言ったことに、返事をしてたよな。あれは、返事だったよな。
結構思い出、あるなあ。十三年、よく生きたな。よく、生きてくれたな。
トラがオオカミの傍に来て、にゃあ、と一度だけ鳴いた。そのたった一度でどうしようもなく泣けてきてしまった俺を、桜と和人が支えてくれた。


めったに泣かない人なのに。流殿、泣かないでくだされ。私はいつでも、流殿のお傍におります故。
「馬鹿ね、アンタ。流ちゃんは意外と泣き虫よ。今は泣かせてやりなさいよ。人間って、泣くとすっきりするらしいわよ」
そういうものか。さすがトラ殿、私の先輩だけあって、ものをよく知っておられる。
それでは今しばらく、流殿に寄り添って、涙がおさまるのを待とうか。
大丈夫、待つのは慣れているゆえに。そして私は、それが苦ではないのだ。



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posted by 外都ユウマ at 13:37| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月23日

遺されたもの

姉の葬式から帰ってきたら、一通の手紙が郵便受けに入っていた。姉からだった。
封を切ると一枚だけ便箋が入っていて、そこにパスワードが書かれていた。姉のノートパソコンを開くためのパスワードだ。このパスワードを入力しなければ、姉の使っていたパソコンの中身を見ることはできない。
これが私に送られてきたということは、姉は私に何か伝えることがあったんじゃないのか。私は実家に連絡し、姉のパソコンを至急送ってもらった。

姉はノートパソコンで、始終何かを書いている人だった。仕事が休みになれば文章を綴り、どうやら自らのサイトで公開することもしていたようだ。
それに対しては、特に何の反応もなかったと思う。少なくとも私はそう把握している。姉はひっそりと何かを書き、置きっぱなしにして、放っておかれた。それを苦にする様子はなく、むしろ当然のことであると受け止めていた。そうでなければ、ときに自分自身や他人を容赦なく引き裂くような、そんな文章を誰でも見られる状態にしておくはずもない。
あるときはシリーズものにして、小説を書いていた。何年もかけて少しずつ書いていた。私が小学生の時に書き始めたシリーズを、姉はこの二年ほどで、次々に完結させていた。「これでこのお話もおしまいです」――その文面を、そういえば長くない期間のうちに何度も見た。
ノートパソコンにそれが残されているかと思ったら、パスワードを入れて開いたそこには、ほとんど何も残っていなかった。きれいさっぱり、消えていた。
デスクトップの、ただ一つのテキストファイルを残して。
「咲へ」というファイル名から、それが私に宛てたものであることがわかった。急いでダブルクリック。そこには、ああやっぱり、姉の文章でぎっしりと書きこみがあった。
これを用意して、姉は死んでいったのだ。思えば姉は、前もって準備をしておいて、その通りに実行するという過程に満足する人だった。


咲には面倒をかけます。でも咲にしか頼めません。
以下のことをお願いします。これを読むなら、私は今度こそちゃんと死ぬことができたのでしょうから。それを他の人に知らせるための手段です。
まず、SNSのアカウントとパスワードは次の通りです。
――。
ここに、私が死んだ日付と、生前ありがとうございました、という一文を投稿してください。ここにはそれだけでいいです。
うまくいけばそのうち、ブログのほうに予約投稿しておいた記事が表示されると思うので、詳細はそこで話します。
その内容を、咲には前もって教えておきます。

私はここ数年、「終活」というものを意識していました。自分の葬儀の手配をしておくとか、そういうものではなく、自分が死ぬための準備です。
ここにあった数々のお話の、長いシリーズものは終わらせました。登場する彼らはこれからも生き続けるでしょうが、私はこれでおしまいです。
しばらく連絡をとっていなかった人と会ったり話したりしたのも、死ぬ前にその人との関係を納得のいくかたちにしておきたかったからです。私だけが納得して、安心するためのものでしたから、その節は多大なご迷惑をおかけしましたことを、心よりお詫び申し上げます。
なぜこのようなことに至ったかというと、もうこの世でやりたいことはほとんどやりきったと感じたからです。私は未熟に生まれ、未熟に育ち、人を追いかけて追いつけずに一生を過ごしてきましたが、それでも人生には満足しています。満足してしまいました。
もうこれ以上はないと思ったのです。だから、清算して終わらせることにしました。
この文章を見ているということは、すでに全てが終わっているということになります。
生前はありがとうございました。
これをもって、このブログの最後の記事とさせていただきます。

と、こんな感じのことを書いておきました。
咲やみんなは驚いているかもしれないし、いつかそうなるだろうとどこかで思っていたかもしれないけれど。私は自分で自分を終わらせることを選びました。
つらくてそうするのではなく、もうこれでいいと判断したからです。だから、原因をさがすとか、そういうことはしなくてもいいと、父と母には伝えてください。
役に立たない、最後まで世話の焼ける姉でごめんね。私は自分で自慢できることは何にもないけれど、咲たちのことは何度となく自慢してきました。それだけ私がだめで、咲たちが偉かったのです。
だめな私の、これが限界です。ここまでです。幸せだったと思います。
それじゃ、さようなら。
あとはよろしくね、咲。


マイペースといえば聞こえはいいが、姉は身勝手な性格だった。人より歩みが遅れがちで、けれどもそれを補おうとはしなかった。自分さえ満足すればそれでいい、そういう人だった。
だからこんな面倒を私に押し付けて、さっさといってしまったのだろう。もっと、ましなやりかたが、あったはずなのに。それを考えなかったのは、姉の怠慢だ。
手首を切っても、首を吊ろうとしても、うまくいかなかったのは知っている。唯一これならと思ったのが、溜めておいた睡眠薬をアルコールでのんで、雪の中に寝るというやりかただったのだ。以前、酔っぱらって気絶して、目が覚めたら夜中になっていたという話をしていたっけ。それを応用したのだ。
姉はいなくなるのだから、それでいいのかもしれないけれど。あとに遺った私たちがどれだけ迷惑したか、この人は知らない。知ることができない。それが無性に腹立たしかった。
私は二度と姉を許さないだろう。でも、この怒りをぶつけることは、もうかなわない。姉の身勝手のせいで、私は、私たちは、この記憶を死ぬまで持っていなくてはならなくなった。
楽しかったと言っていた旅行、久しぶりに電話で知人と話したと言っていたこと、何年もかけて作品を完結させたということ、全部楽しそうに、嬉しそうに語っていたのに、それは全部姉が自分を終わらせるためだったなんて。そのためのプロセスを順調に踏めたことに満足していて、だから笑っていたなんて。
最後の頼みとやらを私が実行すれば、姉の目的は全て達成されたことになる。でも、姉の死を知人が知らないままというのもどうかと思う。知人はほとんど遠くの人で、姉の日常はそれこそSNSでしか知らないのだ。
ブログが公開になるまで、待とうか。もう、スケジュール管理をしたがる姉はいないのだし。
私だって、巻き込まれる筋合いはない。
私はテキストファイルを削除してから、パソコンを閉じた。パスワードが書かれた便箋は破り捨てた。これで本当にさようなら。
ひとりよがりな私の姉は、もうどこにもいなくなった。



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2016年07月18日

どうか私を

不謹慎な願望のお話、ワンクッション。
逃亡癖の行く末。




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2016年07月17日

いやだいやだはやはり嫌

対人嫌悪感のお話です。ワンクッション。




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2016年07月10日

2028/3

暴力、猟奇表現ありますのでワンクッション。子供が惨いことになるお話です。
気分を著しく害することがあります。また、本作は現実と何の関係もありません。




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2016年07月03日

石が住む村

外国の、小さな村のようでした。土壁の家が並び、地面は舗装されておらず、人の声が聞こえます。けれどもそこが私の住む世界ではないということは、すぐにわかりました。
人間がいないのです。正しくは、私と同じ人間のかたちをしたものがいないのでした。ここで生活をしているのは、手足がにょっきりと生えた、石でした。
さまざまな石がいました。大きいもの、小さいもの、ざらざらしていそうなもの、きらきら光っているもの。彼らはそれが当たり前のことであるというように、土の町で暮らしていました。
私の姿は見えないようです。いろいろな世界を見てきたので、ときどき自分がいないことになるのは、もう慣れました。いない方がいいからそうなるのです。私は、いない。
だから勝手に家に入っても、誰も何も言いません。普通の生活を続けています。私はこの世界をよく観察していかなければなりませんので、あちらこちらを歩きまわりました。
ふと、小さくて角の尖った石が目に入りました。似たような石はたくさんあるのに、私はそれに強く惹きつけられました。誰にも見えないのでかまわず後をつけてみます。その石も私には気づきませんでした。
石は、他のたくさんの石たちと、会話をしませんでした。この世界の石たちは人の声で喋ることができるのですが、その石だけはずっと黙りこくっていました。そうしてふと立ち止まっては、誰もいない道を選んで、また歩き出すのです。
この石はどこへ向かうのでしょう。ひたすらについていくと、やがてぽっかりとひらけた場所に出ました。家はありません。石たちもいません。何もないところで、石はひとりきり、いいえ、私と二人きりでした。
私はしゃがんで、石を見つめます。石は立ち竦んだままでした。
目がどこにあるのかはわからないけれど、たぶん空を見ているのだなと思いました。空は私が知っているのと同じ、澄み切った青い色をしています。天気がいい、といえるでしょう。
「今日で良かった」
すぐ近くで声がしました。石でした。やっと喋ったのです。不思議なことに、私の声に似ていました。録音して聞いた私の声です。たしか、音楽の時間に、そういうことをしました。
石は私の声で続けます。
「砕けるなら、天気が良い日がいいと思ってたの。誰もが空に見惚れて、私のことなんか忘れているうちに、砕けてしまいたかった」
私のことはやはり見えていないようです。この石の独り言なのでしょうが、まるで誰かに語りかけているようでした。
もし私なら、と考えます。……語る相手は、自分かもしれません。私は毎日頭の中で、そういうことをしていましたから。
「このまま忘れたままならいいな。私のことなんか忘れたほうが、みんな幸せに生きられるもの。私はみんなを傷つけすぎた」
手でそっと自分の尖ったところを撫でて、石は言いました。その手は突然、ぽろり、と地面に落ちました。落ちた手は、さらさらと砂のように崩れて、なくなってしまいました。
もう片方の手も、落ちました。そして同じように消えていきます。
「じゃあね」
誰に言ったわけでもないその言葉のあとに、足が片方ずつなくなりました。石は、ただの石になりました。地面に転がっている、私もよく知っている石です。
触ってみようと手を伸ばすと、石は割れました。細かく砕けて砂利になりました。
ふと地面を見渡すと、細かい砂利が一面に広がっています。みんなさっきの石のように、ここに来て砕けたのだと、私にはわかりました。
ここは、石たちの墓場だったのです。

たくさんの石が、ここで最期を迎えたのかもしれません。私たち人間がそうであるように、この世界の石たちは、色々なことを思いながら、この場所で砕けるのでしょう。自分にその時が来ると、そうなる前に知るのです。
なくなることを予知できる、という点では、私たちとは違うかもしれません。私たちは自分がいなくなることを、自分で選ばない限りは、ときに選ぼうとしても、正確に覚ることはできないような気がします。それとも、私だけでしょうか。
そしてそのときが来れば、どんなに抗っても逃げられないのです。
この世界の石たちは、自分がなくなることを知ると、そのための場所に自分で向かいます。消えると知っているのに、逃げません。そのまま受け入れるようです。……いいえ、少し違うかもしれません。だって、最後に喋っていました。自分に語りかけていました。
たぶん、納得させるために。消えても仕方ないのだと、消えたほうがいいのだと。
でも、忘れてほしいと願ったのは、何故でしょうか。
たくさんの世界を巡ってきましたが、私にはまだ分からないことがたくさんありました。

石が、またやってくるのが見えます。今度はどんなふうに消えるのでしょう。
もう少し見てから、ここを離れようと思いました。



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posted by 外都ユウマ at 12:25| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする