2018年09月17日

イヌマさんとカネコくん 〈帰る場所〉

 久々に実家に顔を出すと、妹がソファに寝そべって雑誌を捲っていた。俺がいた頃には部屋にこもっているのが普通だったのに、いつの間にこんなにオープンになったのか。ただいま、と声をかけると、こちらには一瞥もくれないまま「おかえり」と低く返事をした。
 妹が雑誌を読んでいるときは、一瞬でも視線を向けてはならない。気配を覚られれば即座に「お兄、キモイ」と鋭い言葉が飛んでくる。彼女が小学校の高学年になったあたりから、それが日常になった。母ははじめこそ妹の暴言を叱っていたが、次第に「思春期の女の子ってこんなものよ、本気にしないで流してあげてね」と俺のほうに大人の対応を求めるようになった。実際俺はすでにいい年だったので、いちいち相手にすることはなかったが、まったく気にしないというわけでもない。以来、早く家を出て妹の不快感をなくしてやらなければと思うようになった。
 自分の要塞のような部屋ではなく、家族の共有スペースである居間でくつろいでいるということは、俺が出ていったことでかなり楽になったのかもしれない。
「お母さん、裏のおばさんに呼ばれていった。当分帰ってこないよ」
「そう。なんか野菜取りに来いって言われたんだけど」
「知ってる。台所にビニール袋あるでしょ、それだから」
 すごいな、会話になった。密かに感動を覚えながら件の袋を見つけて覗き込む。キャベツが丸ごと入っていた。独り暮らしなら、暫く三食キャベツを食べ続けることになっていたかもしれない。それも切っただけとか、何の工夫もせずに。
「ありがとうって、母さんに伝えといて。あと土産、ここに置いとくから」
「ん。もう帰るの?」
「他に用事がないなら」
 あまり長く居座っては迷惑だろう。妹の休日を邪魔するわけにはいかない。ところが当の本人が、もうちょっといたら、と言う。
「この後何か用事あるの?」
「何も」
「だったらせめてお母さんに顔見せときなよ。なにかとお兄のこと心配してるよ」
 平坦な口調と、紙の擦れる音。どこまで本気なのかわからないが、とりあえずはここにいることを許されているのだろうか。けれどもどこにいたらいいのかがわからず、途方に暮れる。ここに住んでいた頃、俺はどうやって暮らしていたのだったか。
 キャベツを睨むふりをして立ち尽くしていると、妹が大きく息を吐いて、体を起こした。
「そんなところに立ってないでよ、落ち着かないじゃん。お茶淹れてあげるから、こっち来て座れば」
「あ、ああ。ごめん」
「お茶っていうか、コーヒーでいいよね。お兄って砂糖とか入れる人だっけ」
「いや、何も入れない」
「ふうん。すごいね、こんな苦いの何も入れずに飲めるなんて。さすが大人だ」
 あまり感心しているようには聞こえない。直後の「そこにいたら邪魔」のほうが感情がこもっているように思う。気を遣わせているのが申し訳なくて、早く帰りたい。帰る場所はすでに実家ではない。
 これ以上妹を苛立たせたくなくて、言われた通りに居間に来た。ソファの上に、開きっぱなしの雑誌が放置されている。あまり見てはいけないとわかっていながら、紙面から目が離せなくなった。
――カネコ君、だよな。
 すんでのところで声には出さなかった。でも口は開いた。そこに大写しになって微笑んでいるのは、いつも見ている顔で、でも少しだけ違った。家ではもうちょっと幼いというか、懐っこい笑い方をする。仕事用の表情を見るのは初めてではないけれど、こんなに大きく雑誌に載っているのを見たことはない。
――芸能人なんだなあ。
 しみじみと眺めてしまった。ここがどこであるかを、すっかり忘れて。
「お兄、まだ突っ立ってたの」
 呆れたような声が、俺を現実に引き戻した。しまった、勝手に雑誌を見ていたと知ったら、どんなに罵られるか。ああでも、いっそ出ていけと言われた方が楽なのか。軽くパニックになり動けないでいると、妹は持っていたカップをテーブルに置きながら、ああ、と言った。
「見た?」
「……見えた、けど」
「見たところでわかんないでしょ、お兄には。なんか世間のことに疎そうだよね」
 予想していたような罵倒はなかった。世間のことに疎いのは事実で、そこに嘲りはない。ソファに座って雑誌を抱え直した妹は、「座ってよ、邪魔」と何もなかったように言う。
 俺が礼を言ってコーヒーを飲む間、妹はまた雑誌を見ていた。ページは捲らない。しばらく先ほどのページから進まない。心なしか口の端が緩んでいるような……いや、あまり観察してしまうと今度こそ気持ち悪がられる。
 そうだった、と心の中で呟いた。俺は家を出る前から、カネコ君を知っていた。芸能人に、まして舞台俳優になど興味はなかったが、妹が彼のファンであったことはわかっていた。彼女がうっかり居間に放置していた舞台のパンフレットと写真を、さっきのように眺めてしまったことがあったのだ。そのときは、何見てんの、キモイ、最低、と容赦ない言葉を浴びせられたものだが。
 妹の罵声と、カネコ君に関する一番最初の記憶はセットだ。もちろん当時は、後にカネコ君が俺の住むアパートに転がり込んでくることなど考えてもいない。考えられるはずがない。
 住みついている現在だって、彼が人気の俳優であるという事実は夢のようなのに。そんな人が一緒に暮らしていて、しかも俺を好いてくれているなんて、おかしな話だ。彼の立場のために秘密にしているというよりは、俺が信じがたいから誰にも話せないというほうが、割合としては大きい。
「ごめん、やっぱり帰る。コーヒーご馳走様、美味かった」
「え」
 華やかな仕事をしていて、妹のようなファンもたくさんいて。そんな人間と俺が一緒に住んでいられるはずがない。そもそもカネコ君は俺ではなく、俺の前にあの部屋に住んでいた住人に会いに来たのだ。いつ出ていっても不思議ではない。まして俺に懐くなんてありえない。
 ありえないけれど、そこが帰りたい場所になってしまっている。実家にいたくないのではない。居づらいけれど、そうではない。今、急にカネコ君に会いたくなった。彼がいるということを確かめたくなったのだ。
「待って、お兄。お母さんには」
「後で電話する。せっかくの休み、邪魔して悪かった」
「別にそんな」
 挨拶もそこそこに外に出て、駅まで走った。改札を通ってから、何のために実家に行ったのかを思い出した。野菜の入った袋は、台所に置きっぱなしだ。――まあいいか、キャベツくらい。
 駆け込んだアパートの、俺の部屋は鍵が開いていた。飛び込むと彼が、カネコ君が、目を丸くして立っている。これから出かけようとしていたようだった。
「うわ、びっくり。……おかえり、イヌマさん。実家行ったんじゃなかった?」
「か、カネコ君は、どこに」
「どこにって、稽古。あ、着替え足りなくなったから、とりに一回帰ってきたんですよ。それで」
「ここに帰ってくるのか」
 何も考えずに、思いついた問いをとにかく投げつける。出かけたいのに立ちふさがっているのは邪魔だったろうし、突然わけのわからないことを訊かれれば戸惑うだろう。普通はそうだ。罵倒され、愛想をつかされたって仕方がない。俺はそういう常識の中で生きてきた。
 でもカネコ君は、ここに来たときから俺の常識とはかけ離れた人で。
「当たり前でしょ」
 今だって、俺に雑誌で見たのとは違う笑みを向けている。
「ちゃんとイヌマさんのところに帰ってくるよ」
「……そうか。そうかあ……」
 力が抜けた。今日一日分の疲れがどっときた。大丈夫? と大きな目が俺の顔を覗き込む。
「実家で何かあったの?」
「いや、何も。いつも通りだった」
 いつも通り、落ち着かなかったよ。そこまでは言えなかったが、カネコ君は何か察したのか、俺の手をとった。
「俺、もう行くけど。落ち着いたらメッセージ入れといてね」

 貰うはずだった野菜を実家に置いてきた、大きめのキャベツだったと伝えたら、カネコ君は「貰ってきてたら近々ロールキャベツしたのに」と返してきた。やっぱり焦らず持ち帰ってくるんだった。
 家のことを詳しく話したことはないし、今日も話すつもりはない。どうでもいいやりとりをしているうちに、やっとゆっくりと息を吐くことができるようになった。
 返信がなくなった頃、タイミングを計ったように母から連絡があった。本当に来てたの、と疑っていた。無理もない、証拠はどこでも買えるような土産と、妹の淹れてくれたコーヒーの客用のカップだけなのだ。
「野菜、ありがとう」
「ありがとうって、持っていってないのに」
「気持ちはありがたかったよ。忘れていってごめん」
「置いてって大丈夫なの? ちゃんと食べてる?」
 心配されているのは本当のようで、でもそれは心配しなくてもいいことで、適当に返事をして電話を切ってしまえばひとまず済むはずだ。そうしたらまたしばらくは、実家には行かなくてもいい。
「置いていったの、送ろうか」
「いや、いいよ」
 そっちで処分してくれれば、と言いかけて、やめた。そうすれば実家に手間をかけさせないし、行かなくてもいい。居心地の悪さに緊張することもない。だけど。
「……これから、また行くから」
 行って帰ってきたら、ロールキャベツが食べられるかもしれない。頭の中にあったのは、そんな単純なことだった。



字書きリハビリしようとしたら、射沼家が拗れた。ごめんね。
posted by 外都ユウマ at 15:18| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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