2018年08月04日

イヌマさんとカネコくん 〈二重生活〉

「イヌマさんって恋人いたことある?」
唐突な問いに、危うく口に入れたパンの欠片をこぼしそうになった。もうとっくに三十代のおっさんだというのに。
そうすると、そのおっさんに遠慮なく過去の恋愛遍歴について尋ねるこの若者はなんなのだろうか。
「学生の頃はね」
口許を拭って、冷静を装い答える。だがそれも今更で、こちらの動揺をにやにやと窺いながら、まだ二十代も前半の彼は「へー」と軽い相槌を打つ。
「じゃあそれ以降いないの?なんで別れちゃったの?」
「朝からうるさいよカネコ君。君こそ彼女とかいるんじゃないのか」
「俺はいませんよー。カノバレしてエンジョーするとまずいし」
けらけらと笑い、彼はこちらが分からない言葉を操る。意味をやっと手繰り寄せ、炎上という言葉とSNSが結びつく。
「血縁でもないおっさんの家に住み着いてるのは、炎上の原因にはならないのかい」
「さあ?そういう例にはまだ当たったことがないからなあ」
フレンチトーストの最後の一口を飲みこんで、彼は目を細める。シワの少ない顔だが、笑うと目尻がくしゃっとなる、その表情がいいのだと年の離れた妹は言う。
妹は彼のファンだ。彼の出演する舞台は可能な限り見に行くし、ブロマイドは大切にしている。少しでも覗こうものなら「お兄、キモい」と一蹴される。
本人がうちに住み着いてるとも知らずに。
「イヌマさん、俺今日バイトの後稽古ね」
「じゃあ晩飯は外だな」
「だねえ。イヌマさんのご飯が食べられないのは残念」
「カネコ君が作った方が美味いじゃないか。これだって」
「簡単だよ、これ」
ごちそうさまでした、と手を合わせ声を揃え。朝食が終われば、それぞれの生活へ。
彼は役者、俺は会社員。奇妙で誰にも話せない生活は、彼と俺のあいだでゆるゆると続いている。
「いってきます、いってらっしゃい」
「いってらっしゃい、いってきます」
その言葉で、毎朝切り離しつつ。
posted by 外都ユウマ at 23:42| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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