2018年05月19日

商店街西、坂の上、縁結びアパート。(3)

 集中して片づけをし、なんとかこれから暮らしていける状態になった部屋を見回す。やっぱり狭くはなったけれど、わたしは満足だ。四年間、ここで暮らしていけるという自信を取り戻す。
 今日は買い逃していたこまごましたものを揃えるために、そしてこの町の地理を少しでも覚えるために歩こう。地図とスマホと財布をバッグに入れて、肩にかけて意気揚々と玄関を出る。と、そこにはなぜか九鬼先輩がいた。
「よう、茉莉花。部屋は片付いたか」
「部屋はなんとかなりました。それより、どうしていつもわたしが外に出るタイミングでここにいるんです?」
「逆かもしれないぜ。俺が外にいるときにお前が出てくるのはどうしてだ?」
「それは……偶然ですよ」
「じゃあ俺がここにいるのも偶然だ。で、今日はどこに行くんだ」
 腑に落ちない回答はひとまず置いておくことにして、買いそびれたものを調達しに行くのだということを告げる。九鬼先輩は、今日はついてくるつもりはないようで、わたしが階段へ向かうのを「いってらー」と見送ってくれた。
 駅裏商店街でもらったクーポンの類を早速使うべきか迷ったけれど、結局は道を覚えることを優先して、学校のほうへ向かった。スーパーがその方向にあるはずだ。ちょっと入り組んだ住宅街を、秋華さんと一緒にコンビニに行った道を思い出しながら歩いていく。
 コンビニにはすぐに着いた。スーパーはこの先だ。看板は見えているので、その方向に行けば間違いないだろう。わたしは大きな看板を目指して、少し上を向いて再び進んだ。
 こっち側にも、いろいろな店がぽつぽつとあるようだ。文具や画材の店、小さな書店、住居かと思ったらビジネスホテルだったとか。コンビニももう一軒あった。そういえば神社が近いということだったけれど、それはどこにあるのだろうか。
 やっと見つけたスーパーよりも、その向かいにある喫茶店が気になる。「しろまる」という変わった名前で、表に出したイーゼルにかかった黒板には本日のおすすめが綺麗な字で書かれている。隅っこにある猫のイラストが可愛い。
「買い物帰りに寄ってみようかな。こんなお店、九鬼先輩なんていたら来られないだろうし。あ、時澤先輩なら似合いそう。秋華さんも、ビールもいいけどこういうお洒落なお店には興味ないのかな」
 名前を並べてみて、ここに来てからほんの少ししか経っていないのに、急に知り合いが増えたことを実感する。
 秋華さんは、わたしたちが商店街に買い物に行った日の夜も、外に出て空を見上げながらビールを飲んでいた。やっぱり知らない銘柄だった。
 他のアパートの人とは、まだ会っていない。新しく入ってきた男の子は見かけただけで、話したわけじゃない。在さんが笑顔になるような、何をあの子は持っていたのだろう。
 黒板を眺めながらあれこれ考えていると、喫茶店のドアが、からん、と音をたてて開いた。中から白いシャツに黒いエプロン姿の人が出てきて、わたしを見て微かに笑う。
「おすすめ、気になりますか?」
 ハスキーな、男性とも女性ともつかない声。清潔感のあるショートカットの髪と黒ぶちの眼鏡をかけた顔を見ても、性別は判別しにくい。お化粧をしていないようなので、男性だろうか。
「おすすめも気になりましたけど、猫の絵も可愛いなと思って」
「ありがとうございます。それ、自分が描いたんですよ」
「そうなんですか。白くてふっくらしてて、とても店の雰囲気に合ってますよね」
「店名の由来ですから。しろまるって、店長の飼っている猫の名前なんです」
 店には出てきませんけれど、と店員さんは視線だけ店内に向ける。何人かお客さんが入っているようで、ここから見えるカウンター席では眼鏡をかけた女の人が本を読んでいた。白いカーディガンと黒く長い髪、すっと伸びた背筋が上品だ。ああいう人がこういう喫茶店にいるって、似合いすぎる。
「良かったら、時間があるときにでも寄って行ってくださいね。お待ちしてます」
「今! 今あります! お茶していきます!」
 店内に戻ろうとする店員さんの背中に、わたしは思い切り叫んでしまった。店内にいた上品なお客さんまでもがこちらを見て、目を丸くしている。ああ、またやってしまった。でも、帰りは荷物がいっぱいになるから、喫茶店に寄るなら今のほうが良い。店員さんがクスッと笑って、「いらっしゃいませ」と通してくれた。
 店内にはごく小さな音量で音楽が流れている。これはジャズピアノの音色だろうか。お客さんはさっきから気になっていたカウンターの上品なお姉さんと、テーブル席の老夫婦らしき人たちと、一人でテーブルの上に紙を広げている女の人。わたしは思い切ってカウンター席についた。
 メニューにはコーヒーとお茶とケーキが数種類。とりあえず、おすすめにあったドライベリーとハーブのお茶を頼む。それからもう一度ゆっくり店内を見回すと、そこかしこに猫の絵や写真、グッズがあった。わたしは犬は苦手だけれど、猫は大好きだ。店長さんとは気が合いそう。
 まもなくして透明なポットと一緒に出されたハーブティーは、甘くて爽やかな香りがした。春の匂いだ、と思った。
「初めて見るお客様ですね。もしかして、礼陣に来たばかりですか」
 カウンターの向こうから、穏やかでのんびりとした声の女の人が訪ねる。この人も、白いシャツに黒いエプロン姿が似合っていた。
「ついこのあいだ来たんです。四月から礼陣大学に通うので」
 甘いハーブティーの香りと味を楽しんでいると、クッキーののった小皿が差し出される。「おまけです」と、入口で会った人がこちらも穏やかな笑みで言った。
 学校からも近い場所で、素敵な喫茶店を見つけてしまった。今日はいい日かもしれない。わたしはさっくりと甘いクッキーを、時間をかけて味わった。

 買い物を終えてアパートに帰ると、奇妙な光景が繰り広げられていた。
「九鬼先輩、何してるんですか?」
「茉莉花! 助けてくれ、こいつしつこいんだ!」
 わたしの部屋の真下、一〇八号室の前で、九鬼先輩が女の人に抱きつかれていた。いや、あれは組み付かれているといったほうが正しいかもしれない。九鬼先輩のがっしりとした体に、細いけれど筋肉が程よくついている女の人が絡んでいる。
「いいじゃんか、慧。ちょっと付き合えよ。このアタシが早上がりで退屈してるんだから遊べー」
「くっつくんじゃねえっての! あー重い……」
「そこの子も一緒に遊ばない? でもプロレス技かけるのは可哀想か、せっかくふわふわしてるし」
 たしかにわたしはプロレスなんてできない。できればこのまま何も見なかったことにして立ち去りたいところだけれど、九鬼先輩がこれまで見せることのなかった懇願の眼差しを向けてくるので、無視できない。仕方なく二人に近づいて、おそるおそる言った。
「あの、九鬼先輩が嫌がるってよっぽどだと思います。やめてあげたほうがいいのでは」
「そう? じゃあふわふわちゃんに免じて解放するわ」
 女の人はあっさりと九鬼先輩から離れる。自由になった彼は、女の人から距離をとって、けれどもそこから逃げ出すことはなかった。
「助かったー……。茉莉花が来なけりゃ、乙に殺されるところだった」
「殺しゃしないよ、失礼な。で、ふわふわちゃんは慧の何? 彼女?」
「全然違います。隣に越してきたんです」
 わたしが即座に首を横に振ると、九鬼先輩はちょっとがっかりした顔をしていた。ごめんなさい、親切だけれど、あんまり好みのタイプではないのです。
 そして女の人は、そんな九鬼先輩を見て大笑いした。ひとしきり笑ったあとで、わたしに自分の名前を告げた。
「アタシはこの一〇八号室に住んでる、構っての。名前は乙」
「宝泉茉莉花です。真上に越してきたので、ご迷惑おかけするかもしれません。よろしくお願いします、構さん」
「こいつにはあんまり気を遣わなくてもいいんだぞ、茉莉花。肉焼くときくらいしか活躍しねえし」
「黙ってろ、慧。肉焼くのは大事な役割でしょうが。たまにアパートの都合つく人同士で集まって、焼き肉とかするんだよ。今度やるときは茉莉花ちゃんも誘うね」
 このアパートの住人は、今まで会った人はみんな仲が良かったけれど、構さんと九鬼先輩は特に仲が良さそうに見える。たぶん、構さんが九鬼先輩のことをものすごく可愛がっているのだ。地元の、弟がいる友達によく似ている。九鬼先輩でも勝てない人はいるんだなあ、としみじみ感心してしまった。
「もういいだろ、乙はこんなやつってことだけ覚えれば。それよりまた随分買い物してきたんだな、上まで持って行ってやるよ」
 ひょい、とわたしの手からエコバッグを取り上げて、九鬼先輩は階段のほうへ向かう。わたしが構さんに一礼すると、彼女はにいっと笑って手を振った。
 階段を上りながら、九鬼先輩はわたしの顔をちらりと見る。
「なんか機嫌良さそうだな、茉莉花」
「はい、ご機嫌です。素敵なお店を見つけたんですよ。『しろまる』っていう喫茶店なんです」
「ああ、あそこか。周りの女子、あの店好きなんだよな」
 アパートの女性も足繁く通う人気店らしい。ということは、秋華さんも行くのだろうか。もしかして、わたしがまだ知らないアパートの住人が、今日のあの場にいたりして。
 なんてことを妄想して一人で笑っていると、九鬼先輩が変なものを見るような目でわたしを見ていた。今更真面目な顔をしてももう遅いので、そのまま笑ってごまかしておいた。

 夜になって、買ってきたものを使ってこまごましたものを整理していると、チャイムが鳴った。部屋に誰かが訪れていることを報せるものだけれど、わたしが来てから使われたのは初めてだ。ドアののぞき穴からそっと外を見てみると、九鬼先輩と、もう一人知らない男の人がいた。念のためチェーンロックをかけたままドアを開ける。
「どちらさまですか?」
「茉莉花に紹介しとかなきゃいけねえ、大事な人を連れてきた。もう晩飯は食ったか?」
 九鬼先輩の問いに、首を横に振る。片付けに夢中になっていて、夕食はとっていなかった。これから作るとしても、冷凍しておいたご飯を温めて、インスタントの汁物を付けるだけになるだろう。
 わたしの返事に、九鬼先輩と、そして男の人もにやりと笑った。今度は何をしようというの。
「食ってないならちょうどいい。この人はアパートの食料事情に関わってくる人だ。ここの住人ほぼ全員に、作りすぎたおかずを分けてくれる、ありがたい存在なんだぜ」
「はじめまして、宝泉さん。慧から話は聞いてるよ。俺は一〇五号室の近江健太」
 九鬼先輩よりも背は低いけれど、大人に見える。それもそのはず、よくよく聞いてみれば近江さんはすでに大学を卒業した人で、昨年からこの町のちょっと大きな企業でお仕事をしている人だということだった。
 おかずを分けてくれるのは、趣味の延長。きちんと火を通した献立を、日頃のストレス発散に、ときどき大量に作っては住人に配り歩いているのだという。今日のおすそわけは魚の煮つけだった。
「もらっちゃっていいんですか? すごく良い匂いがします」
 空腹を感じたわたしの警戒心は薄れていて、ドアのチェーンロックを簡単に解除する。近江さんから差し出されたタッパーはまだ温かく、手にじんわりとその熱を伝えていた。
「男の料理だし、もし宝泉さんが嫌ならそれでいい。でももし食べてくれるなら……」
「食べます! いただきます! 魚って独り暮らしだとなかなか食べられないんだなって思ってたところだったんですよ。しかも煮つけ、すごく美味しそう」
 涎が出そうになるのを我慢して、タッパーを受け取る。これは片づけをすぐに中断し、早くご飯を解凍しなければ。本当は炊きたてがいいのだけれど、今回ばかりは仕方がない。
「良かった、喜んでくれて。タッパーは俺の部屋のドアに袋をかけておくから、そこに入れておいて。汚れたままで全然かまわないから」
「そんな、ちゃんと洗って返しますよ。ありがとうございます、近江さん」
 アパートの食料事情。そういえば構さんも肉を焼くとか言っていた。案外、みんなで同じものを食べる機会はあるのかもしれない。このアパートの人間関係は、なかなかに密だ。
 近江さんの作った魚の煮つけは、もちろん美味しかった。生姜醤油の甘辛さでご飯がすすむ。こんなに美味しいものならいつだって食べたいけれど、わたしからも何かお返しをしなくては。そのためにもう少し凝った料理を作れるようになろうと、小さな決意を固めたのだった。
 タッパーは忘れないうちにすぐに返そうと思って、丁寧に洗って持って行こうとした。すると階段の下で、三人ほど人が集まっているのに遭遇した。みんな同じタッパーを持っている。もしやこれは、と階段を駆け下りると、その音にその人たちが振り返る。そして、お互いに「あ」と声をあげた。
 三人とも、昼間に顔を見ている。そしてその人たちも、わたしを見ていた。あの喫茶店「しろまる」で。一人はテーブル席で紙を広げていた女の人、一人はカウンター席で本を読んでいた上品な女性、そしてもう一人は「しろまる」の出入り口で会った店員さんだった。
「君、昼間に店に来てくれた子だね」
「私も憶えてるわ。一緒にカウンター席に座った子」
「初めて来た子だから、あたしも作業の合間にちらちら見てました。まさか同じアパートの住人だったとは」
 はい、わたしもびっくりしています。つまり、あの店にいた人の大半が、コーポラス社台の住人だったというわけだ。まるでドッキリか何かの企画みたいな展開に、みんなで笑ってしまった。
 タッパーを持ったまま、その場で自己紹介をする。傍から見たら何の集まりか、不審がられるかもしれない。
「あたしは二〇一号室の澄田悠奈。去年、北市女学院大学の芸術学部を卒業して、今はイラストレーターを目指して修行の日々です。平日は普通の会社員ですけど」
 テーブルに紙を広げていた彼女が、にっこり笑った。
「一〇三号室、杉本千穂です。北市女学院大学院の一年生。文学研究を専攻にしています」
 細いフレームの眼鏡をかけた、髪の長い上品なその人が、小さくお辞儀をする。
「自分は弥富ナナセ。部屋は二〇二号室。喫茶店で働いています、どうぞご贔屓に」
 黒ぶち眼鏡のハスキーボイスが、穏やかに告げる。
 わたしは三人の圧倒的なレベルの高さを感じつつ、それを笑ってごまかしながら言った。
「二〇八号室に越してきました、宝泉茉莉花です。礼陣大学の一年生になります。どうぞよろしく」
 だって、そうでしょう。秋華さんも言っていた、北市女学院は賢い女の子が通うところだと。あのあと自分でも調べたのだけれど、礼陣大学とは比べものにならない偏差値の高さだった。そこの卒業生と、院生と、そして学歴こそわからないけれど素敵な喫茶店で働いている大人。それに比べたら、大学に二つ落ちてやっとのことで礼陣大学に引っかかったわたしなんて、恥ずかしい。この三人には本当のことは言えないな、と思った。
「とりあえず、タッパー返してきましょうか。近江さんって本当に料理上手よね」
「ですよねー。あたしの先輩から聞いた話なんですけど、健ちゃんの料理の師匠は、以前このアパートに住んでた人らしいです」
「家庭料理が得意なんだよね、近江君は。宝泉さんは自炊してるの?」
「今のところ、ご飯を炊いてインスタントの味噌汁つけるばっかりです」
 一〇五号室のドアにはちゃんと袋が提げてあって、わたしたちは順番にタッパーを入れてから、ドアに向かって「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
 まだここの人のことはよくわからない。でも、もしかしてみんなすごい人なんじゃないだろうか。わたしだけが平凡あるいはそれ以下だったらどうしよう、とこっそり悩む夜になった。



しろまる組の登場です。そのうちしろまるだけのお話とかも考えてみたい。
posted by 外都ユウマ at 11:39| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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