2016年03月06日

工場時代の思い出

本日は創作文章ではなく、私自身の思い出話です。なのでカテゴリは日記。こうして自分の話をするのは、ブログでは久しぶりのことですね。
2月27日に日付が変わった頃、私はTwitterにちょっと長い連続ツイートを投稿しました。今回お話させていただくのは、そのとき語ったもののまとめと、その時は書かなかったけれど今でもよく憶えている、当時のエピソードです。
呟く(というか語る、ですね)に至ったきっかけは、村山早紀さんの作品『竜宮ホテル 水仙の夢』(徳間書店)を読んだことです。作中に、携帯電話の開発に関わっていたというお兄さんが登場するのです。携帯電話開発への誇りと、携帯電話そのものへの愛情を強く持っていたお兄さんが。
その物語から思い出したことを、ある程度整理して、けれどもほとんど勢いで、書いて投稿したのでした。ええ、一部の方はご存知かもしれませんが、私もかつて携帯電話をつくることに関わっていたことがあるのです。作中のお兄さんとは違い、その下請け、あるいは孫請けのような、本体の組み立てや部品の検査、完成品の梱包などをしている工場で働いていました。

その仕事を始めたのは、大学を出て少しした頃の4月終わりのことでした。当時の私は実家に戻って来ていて、職を探していました。そんなときに知人から「さほど人と話さなくてもいい」として紹介してもらったのが、携帯電話を製造する工場での仕事でした。派遣会社を通しての、つまりは派遣社員で、けれども当時はとても忙しく人手が足りなかったくらいの仕事だったので、すぐに就職が決まりました。任じられた仕事の内容は、携帯電話の部品検査。プラスチックのそれに、バリがあれば丁寧に取り除き、接着剤のはみ出しがあれば余分なところを剥がし、どうにもならない不良品があれば分別する、というようなものでした。黙々と部品を見つめ、汚れや空気、ゴミの混入がないかどうか探して、基本的には8時半から17時半まで、一時間の昼休みを挟んで八時間たっぷり働きます。たしかに研修と業務確認以外は人と話すことがほとんどありませんでした。
目は疲れるし、ダブルチェックで自分の仕事の甘さを指摘されたりもしましたが、ひたすら一つのことに集中するのは性に合っていましたし、ほぼ毎日の、上司の裁量で長くて二時間ずつあった残業も、辛さをあまり感じることなくこなせました。
当時の時給はたしか600円台(660円くらいだったかな)だったと思いますが、仕事の時間が長かったので手取りは現在よりも良かったです。
扱う物は部品で、製品の一部でしかありません。関わらなければほとんど誰も気にしないような、そんな部分だったと思います。けれどもこれが組み合わさって携帯電話という形になり、誰かの手元に届くんだと思うと、やっぱり仕事に多少の誇りみたいなものが生まれてくるのでした。ショップに並ぶその機種を見る度に、ああこれだ、と嬉しくなったりしたものです。店頭に出るのはもちろんのことモックで、製品そのものではないのに、こっそり手に取ってその部品をチェックしたりしました。
この製品を選んで使う誰かのところに、きれいなものが届くといいと、そうでなければならないと、私は私の仕事を全うしようとしていました。

ですが、状況は突然変わりました。2011年3月11日に発生した、東日本大震災を境に。
私の住む、そして働く工場のある場所は、もともと地震のめったに起こらない、または起こっても影響を受けにくい地域です。その日も珍しく長い揺れがあっただけで、被害はほとんどありませんでした。あの時間は仕事中だったので、東北や関東で何が起こっているのかもわかりません。上司も工場が揺れる中、「はい、仕事に集中してねー」と普段の調子で言っていました。
何があったのか知ったのは、業務が定時で終わってからのことです。それが大きな地震であったこと、その影響で電話が繋がりにくくなっていることを認識し、家に帰ってからあの凄まじい被害をテレビの画面を通して見たのでした。
まず気にしたのは大学時代の友人、知人の安否であり、自分自身に大きな影響が及ぶなんて考えていませんでした。
しかし、というか当然ながら、翌業務日以降に、影響は私たちへ及んできたのです。私たちが扱っていた、あの毎日検査をしていた部品を作っている工場は被災していて、たとえ無事だとしても流通がままならず、しばらく部品がほとんど入ってこないことになりました。無事だったところからは少しずつ部品が届きましたが、とても従業員全員をフルタイムでもたせる量はありません。
そのあいだ私たちにできたのは、今なんとか在庫を持っている部品を引き続き検査することにプラスして、他の部署の手伝いをすることでした。様々な部署をたらい回しになったわけです。
おかげで工場内でいろんな仕事を経験することになりました。別の製品の、完成品の梱包。携帯電話の中身を保護するシールをきれいに貼る。出てしまった不良品を素材ごとに分別して処分する。油が塗ってある防水パッキンを、竹串を操って細い溝にしっかりと装着する。……などなど。特にパッキンの装着は自分で言うのもなんですがほぼ完璧に速くできるようになり、心の中で竹串マスターを自称するほどでした。
もとの検査の仕事には、ときどき、本当に少しだけ呼ばれました。なかなか本来の仕事には戻れなくなりました。携帯電話とは全く関係のない部署もありましたので、そちらにいたこともあります。
そんな日々を経て、ついに別の部署に、完全に異動することになりました。検査する部品がほとんどなくなり、検査を担当する部署そのものの存続が難しくなったためです。

新しく配属された部署ではスマートフォンの組み立てをしていました。班を組んで流れ作業で、スマートフォンを完成形にするのです。私が担当した作業は、電動ドライバーでネジを装着したり、内部の小さな防水シールを貼るといった細かい仕事でした。そもそも手先が不器用な自分には、難しいものです。竹串マスターになれたのが奇跡だったのです。リーダーに何度も叱られ、長くなった残業時間(その部署は4時間ほどの残業になることもしばしばでした)や頻繁な休日出勤に適応できるようにし、新しい仕事をクリアしようとしました。
組み立てていた機種は、実は震災後の一時期に、幾分かつながりやすかったと話題になったキャリアで扱っているものでもありましたので、親会社からの発注台数が多かったのだそうです。
けれどもそんな状況も、まただんだんと変わっていくことになります。工場と契約をしていたある派遣会社が、業務から手を引いたのでした。その会社から派遣されていた従業員は、私が所属していた会社で多くを引き取ることになりました。ですが手を引くところが出てきた、という事実に、私たちは危機感を覚えたのです。
検査をしていた部品以外は、メーカーがすぐそばにあったこともあり、震災が仕事へ与えた影響がもともと少ないということはありました。それでも関わる会社が減ったということは、その頃にはすでに仕事がなくなってきていたのかもしれないし、派遣会社が見切りをつけ始めていたのかもしれないし、単に工場との契約が切れたということも考えられますが、そのことは派遣社員にショックを与えていました。私も派遣で働いている人間です。いつ自分の番になるか分かりません。
この頃から私は転職すること、というより派遣社員以外の道を考えるようになり、就活をするようになりました。役に立ちそうな職業訓練も探しました。
そうしているうちに、仕事に変化が出始めたのです。スマートフォンの組み立てをする部署は残業が多かったのですが、残った時間で組み立てではなく、翌日使うネジの準備をして時間を潰すということが出てきました。仕事はなくなってきていたのでした。通信の面が復旧していくにつれ、私たちのつくるスマートフォンは、あまり人気がなくなってきていたということもありました。環境が整えば、日々新しいものが生まれます。Twitterでは震災の影響で部品の供給が不安定だったと書きましたが、もしかするとそれよりも、こちらの要因のほうが大きかったかもしれません。メーカーは一応、そばにあったわけですし。

そうして2011年12月、新しい就職口はとうとう見つかりませんでしたが(受けた会社全部落ちたのでした)、職業訓練の方は情報を手に入れることができたので、私は工場をやめることを決意しました。すぐにというわけにはいかなかったので、契約が更新になる翌年の2月いっぱいまでということにして。
もともと派遣で長く続くとは思っていませんでしたし、いつまでもこのままでは後々大変になるという心配もありました。ですが自分の性格に合っていた仕事だったので、やっぱり少しは惜しかったです。
しかし、自分がやめた後、他に入っていた多くの派遣会社が一斉に工場業務から撤退して、失業者が大量に出たという話を耳にすることになりました。
工場をやめざるをえなかった人々は、他の仕事を探し、勤め、あとで再就職した時に再会したりもしました。検査部署の上司と職業安定所で会ってしまって、気まずい思いをしたこともあります。仕事を失ったのは、あるいは見限らざるをえなかったのは、派遣社員やパートだけではなく、正社員もそうだったのでした。
かつてはあの工場で、たくさんの人が働いていました。早朝から遅くまで、業務をこなし、みんなが廃れつつあった携帯電話や、あまり有名ではないスマートフォンを、一生懸命つくっていました。誰かの手にわたすために。また災害があった時、役に立つように。それでも多くの人が長くは続けられませんでした。仕事がなくなってしまったのですから、どうしようもなかったのです。
今でも工場はあるし、働いている人はいますが(それなりに大きな会社の下請け、孫請けなので)、当時と同じ仕事をしているのかはわかりません。当時の人はどのくらい残っているのでしょうか。業務は縮小されて、正社員もやめてしまって、今はいったいどんな仕事を。そんなことを、今でもふと思います。

ここはもともと職業選択の幅がそんなに広くない田舎です。私はあのあと職業訓練を受け、職を転々としましたが、現在働いている職場には、あの工場で働いていた人が結構多く流れてきていました。少なくはない人数が、履歴書に同じことを書いてきているわけです。
たまに、ですが、あのまま転職しないで続けていたらどうなっていたかなと思うのです。派遣切りにあっていたか、それとも雑用として残されていたか。いずれにせよ、私があの仕事をなかなか気に入っていたのはたしかです。今の仕事も、ものづくりではありませんが、取り組み方は似ていますし。
同じように考えたかもしれない人が近くにいるというのも不思議なものです。

そんなお話でした。現在もガラケーを見ると懐かしい気持ちになりますし、今使っているスマートフォンも、これが作られる過程でたくさんの人が関わって「魔法」を生み出していたのだなと、しみじみ思うのです。
物語にあったように、私たちは魔法使い、とまではいかなくても、例えば靴屋の手伝いをする妖精のようなことはできていたんじゃないかな、なんて。
この小さな機械が、たくさんの人が関わるものであることを、そしてたくさんの人が離れていってしまうこともあるということを、私は知っています。ひとつひとつが人間の手で組み立てられるもの(少なくとも私たちはそうでした)であることを知っています。だからこそ、物の向こう側にいる人々のことを、忘れてはいけないなと感じたのです。
以上、2010年4月から、2012年2月にかけての思い出話でした。
……と、書いていると、なんとテレビで例のスマートフォンの最新機種のCMが! つくってるのかな。まだあの場所で、誰かが。
posted by 外都ユウマ at 10:56| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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