2018年05月19日

商店街西、坂の上、縁結びアパート。(4)

 片付けをしていて、大変なことに気がついてしまった。礼陣大学の入学式は、学校ではなく公民館で行なわれるのだ。この町の公民館がどこにあるのか、方向音痴のわたしは直々に確認に行くことにした。それにしても、今のうちに気がついてよかった。
 地図とスマホと財布というおなじみのセットをバッグに入れ、部屋を出るとまたもや九鬼先輩に遭遇した。すでに驚かなくなっているあたり、わたしはこのアパートに順応し始めたのだろう。
「よう、今日はどこに?」
「公民館まで。わたし、入学式を公民館でやるって知らなくて。九鬼先輩なら公民館の場所知ってますよね」
「もちろん。案内してやろうか」
 暇そうなので、素直に案内してもらうことにした。九鬼先輩は二〇六号室から時澤先輩を召喚し、またこの三人で出かけることになった――のだが。
「おいおい、慧と一日、女の子連れてどこ行くの。ていうか、その子新入りじゃん?」
 階段を下りたところで、変な大人に捕まった。一〇一号室の前の段差に腰かけていたその人は、髪をツーブロックにして口の周りに髭を生やしている。人によってはかっこよく見えるのだろうけれど、正直その人には似合っていなかった。
「ヒロさん、どうも。外にいるのに煙草吸ってないなんて珍しい」
「この子は礼大の後輩です。つまりヒロさんの後輩でもあるってわけで、これから入学式会場の下見に行こうとしてるんです。まりちゃん、この人は礼大のOBで、ヒロさんていうんや」
 なんと、この見た目がちょっと残念な大人はわたしの先輩らしい。あんまり納得できないまま、わたしは自分の名前を告げて頭を下げた。ヒロさんと呼ばれているその人は「茉莉花ちゃんか、可愛いね」と褒めてくれたけれど、あまり嬉しさはなかった。
「オレは平松浩。五年前の春に礼大卒業して、そのままこの町の企業に就職してるから、このアパートには長く住み続けてる。九年も住んでいれば、新しく入って来た人を迎えるのも、人が出ていくのを見送るのも、もう慣れたもんだね」
「九年……」
 今のところ四年しか住むつもりのないわたしには、ちょっと大きな数字だ。言葉を失っていると、時澤先輩が問いをぶつけた。
「で、ヒロさんは煙草じゃないなら何してはるの。部屋、一〇二号室やないですか。ここ人んちの前ですよ。邪魔んなりますよ」
「邪魔とは失礼な。ちゃんと一〇一号室の住人に用があって待ってるんだよ。お前らが茉莉花ちゃんにいろいろ教えてるみたいに、オレも新入りの世話してんの」
 ヒロさんが言い返した直後に、一〇一号室のドアが開いた。身長はわたしより高いけれど、顔立ちはまだ幼い男の子が、ひょこりと出てくる。そういえば、高校生だっていっていたっけ。
「ヒロさん、お待たせ。あ、上の階の方ですか。こんにちは」
 男の子は部屋から出てドアをきちんと閉めると、わたしたちに向かってとてもきれいに一礼した。このびしっと決まった角度からして、体育会系なのかもしれない。こちらも思わず姿勢を正し、こんにちは、と声を揃えて返した。
「俺、錫木真生っていいます。この春から礼陣高校の一年生です」
「へえ、礼高か。じゃあ部活はもう決まってんの?」
「はい。礼高剣道部、ずっと憧れだったんです」
 先日は結局一歩出遅れて、話ができなかったそうだから、初めて見るはずの九鬼先輩の怖い顔。しかし少しも動じず、むしろ爽やかな笑顔で返事をする錫木君に、わたしは感心するばかりだった。時澤先輩まで「大した子やなあ」と呟いている。そして九鬼先輩はというと、「だからか」と何か合点がいったというように頷いていた。
 九鬼先輩はこちらを振り向くと、にやりと笑った。やっぱり私には、悪い笑顔に見えてしまう。
「わかったぜ、在さんが真生と笑いながら喋ってた理由」
「え、そうなんですか?」
 わたしがそのことを実はずっと気にしていたということが、九鬼先輩にはばれていたのだろうか。わたしには笑ってくれなかった、という問題の解決にはならないけれど、糸口くらいにはなるかもしれない。九鬼先輩の説明に、わたしは真剣に耳を傾けた。
「真生は礼高生、在さんの後輩にあたるんだよ。在さんには弟がいて、その人も礼高、しかも剣道部だった。その話で盛り上がったんだろ」
 九鬼先輩が錫木君に確認すると、彼は頷いた。
「そうです。不動産会社の常田さん、だと紛らわしいんですよね。在さんとは礼高と剣道のことで話が合って、引っ越してきた当日は楽しくお話させていただきました。在さんは高校時代に生徒会長も経験していて、弟さんは全国大会で団体準優勝したときのメンバーだったとか。強豪としての礼陣高校の話は、やっぱりいいですね」
 あの真面目な在さんと談笑するだけの話題を、錫木君は十分に持っていたということだ。不確かな「縁結び」なんかにうつつをぬかしていたわたしと違って、錫木君の話は在さんにとってリアルだった。つまり、そういう差だったのだ。
 それにしても、在さんの経歴もなかなかすごかったようだ。生徒会長……あまりに似合いすぎる。剣道の強い弟がいるという話まで加わると、なんだか物語の中の人みたい。
「真生、剣道部の見学に行くなら、そろそろ出たほうがいいぞ」
 ヒロさんの声で、わたしは我に返った。そうだ、わたしも公民館までの道を覚えなければ。
「錫木君、用事があったのに引き留めてごめんね。剣道、頑張って」
「ありがとうございます」
 またも礼をびしっと決める錫木君。こんなにしっかりしているのに、世話なんて必要なのだろうか。錫木君と一緒に歩きながら「さっきの、でかいのが慧、そんなにでかくないのが一日、女の子が茉莉花ちゃんな」と説明しているヒロさんを見ていると、溜息が出そうになる。
「本当に真生君の世話するの、ヒロさんでいいんやろか。そのうちヒロさんが真生君に世話されそうや」
 時澤先輩の容赦ない一言に、しかしわたしと、九鬼先輩までもが頷いた。

「アパートに住んでるやつには、もうほとんど会ったんじゃねえのか」
 公民館の場所を無事に確認した帰り道、九鬼先輩が言った。澄田さん、杉本さん、弥富さんにも会ったという話をすると、そう返ってきたのだ。
「そうですね。もう十人に会いましたから、あと三人でコンプリートです」
 わたしが頷くと、時澤先輩が手をぱたぱたと扇ぐように動かしながら苦笑いした。
「あとの三人には会うチャンスほぼないで。二人はほとんどアパートに帰って来おへんし、一人は逆に部屋から出て来おへん。まりちゃんがどうしても会いたいなら、運がないと」
 コーポラス社台は現在満室だ。だから住人は十四人いるはずなのだが、どう頑張ってもすぐに会えるのは自分を除く十人なのだという。九鬼先輩も渋い顔で頷いた。
「一〇六号室の人は先月から入ったんだが、その当日以来見てねえな。なんか放浪癖があるらしい。礼陣にいる親戚は、いつものことだから大丈夫って言ってたけど。一〇七号室の人は写真家なんだが、全国を回って撮影してるからなかなかアパートに戻らない。礼陣で個展を開くときにはいるから、そのときが狙い目。二〇五号室の人はそもそも人と会うのが苦手で、仕事も在宅だからなかなか出てこねえんだ」
 コンプリートは難しいな、ということだ。別にコンプリートしなくてもいいのだけれど、放浪癖があるという人や、部屋から出てこない人は、はたして大丈夫なのだろうか。顔も知らない他人のことを、つい心配してしまう。
 その三人を除く「会える人たち」には、わたしはもう会えたようだった。それなりに会話もしているし、九鬼先輩と時澤先輩に至ってはこうして一緒に出掛けるまでになった。たった数日で、こんなに人と知り合えるものだろうか。ただ、同じアパートに住んでいるというだけで。
「もしかして、ご利益?」
 コーポラス社台は、縁結びアパート。その噂が、もしもいい加減なものではなく、本当だとしたら。――なんて考えたら、きっと在さんには嫌な顔をされるのだろうけれど。
「そう思っててもいいんやないの」
 しかし時澤先輩は、わたしの呟きを微笑みで受け止めてくれた。
「ご利益だって信じたいやつは信じればいい。在さんが嫌なのは縁結びとか、それ目当ての人じゃないんだぜ、たぶん」
 九鬼先輩はわたしの考えていたことを読んだように言う。
 アパートの人たちとの出会いがご利益にしろただの偶然にしろ、わたしはあの場所で暮らしていくのだ。人と関わりながら、この町で大学生活を過ごすのだ。それだけは変わらない、たしかなこと。
 思い切り伸びをして、春の空気を吸い込んだ。始まりの季節の空気を。



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商店街西、坂の上、縁結びアパート。(3)

 集中して片づけをし、なんとかこれから暮らしていける状態になった部屋を見回す。やっぱり狭くはなったけれど、わたしは満足だ。四年間、ここで暮らしていけるという自信を取り戻す。
 今日は買い逃していたこまごましたものを揃えるために、そしてこの町の地理を少しでも覚えるために歩こう。地図とスマホと財布をバッグに入れて、肩にかけて意気揚々と玄関を出る。と、そこにはなぜか九鬼先輩がいた。
「よう、茉莉花。部屋は片付いたか」
「部屋はなんとかなりました。それより、どうしていつもわたしが外に出るタイミングでここにいるんです?」
「逆かもしれないぜ。俺が外にいるときにお前が出てくるのはどうしてだ?」
「それは……偶然ですよ」
「じゃあ俺がここにいるのも偶然だ。で、今日はどこに行くんだ」
 腑に落ちない回答はひとまず置いておくことにして、買いそびれたものを調達しに行くのだということを告げる。九鬼先輩は、今日はついてくるつもりはないようで、わたしが階段へ向かうのを「いってらー」と見送ってくれた。
 駅裏商店街でもらったクーポンの類を早速使うべきか迷ったけれど、結局は道を覚えることを優先して、学校のほうへ向かった。スーパーがその方向にあるはずだ。ちょっと入り組んだ住宅街を、秋華さんと一緒にコンビニに行った道を思い出しながら歩いていく。
 コンビニにはすぐに着いた。スーパーはこの先だ。看板は見えているので、その方向に行けば間違いないだろう。わたしは大きな看板を目指して、少し上を向いて再び進んだ。
 こっち側にも、いろいろな店がぽつぽつとあるようだ。文具や画材の店、小さな書店、住居かと思ったらビジネスホテルだったとか。コンビニももう一軒あった。そういえば神社が近いということだったけれど、それはどこにあるのだろうか。
 やっと見つけたスーパーよりも、その向かいにある喫茶店が気になる。「しろまる」という変わった名前で、表に出したイーゼルにかかった黒板には本日のおすすめが綺麗な字で書かれている。隅っこにある猫のイラストが可愛い。
「買い物帰りに寄ってみようかな。こんなお店、九鬼先輩なんていたら来られないだろうし。あ、時澤先輩なら似合いそう。秋華さんも、ビールもいいけどこういうお洒落なお店には興味ないのかな」
 名前を並べてみて、ここに来てからほんの少ししか経っていないのに、急に知り合いが増えたことを実感する。
 秋華さんは、わたしたちが商店街に買い物に行った日の夜も、外に出て空を見上げながらビールを飲んでいた。やっぱり知らない銘柄だった。
 他のアパートの人とは、まだ会っていない。新しく入ってきた男の子は見かけただけで、話したわけじゃない。在さんが笑顔になるような、何をあの子は持っていたのだろう。
 黒板を眺めながらあれこれ考えていると、喫茶店のドアが、からん、と音をたてて開いた。中から白いシャツに黒いエプロン姿の人が出てきて、わたしを見て微かに笑う。
「おすすめ、気になりますか?」
 ハスキーな、男性とも女性ともつかない声。清潔感のあるショートカットの髪と黒ぶちの眼鏡をかけた顔を見ても、性別は判別しにくい。お化粧をしていないようなので、男性だろうか。
「おすすめも気になりましたけど、猫の絵も可愛いなと思って」
「ありがとうございます。それ、自分が描いたんですよ」
「そうなんですか。白くてふっくらしてて、とても店の雰囲気に合ってますよね」
「店名の由来ですから。しろまるって、店長の飼っている猫の名前なんです」
 店には出てきませんけれど、と店員さんは視線だけ店内に向ける。何人かお客さんが入っているようで、ここから見えるカウンター席では眼鏡をかけた女の人が本を読んでいた。白いカーディガンと黒く長い髪、すっと伸びた背筋が上品だ。ああいう人がこういう喫茶店にいるって、似合いすぎる。
「良かったら、時間があるときにでも寄って行ってくださいね。お待ちしてます」
「今! 今あります! お茶していきます!」
 店内に戻ろうとする店員さんの背中に、わたしは思い切り叫んでしまった。店内にいた上品なお客さんまでもがこちらを見て、目を丸くしている。ああ、またやってしまった。でも、帰りは荷物がいっぱいになるから、喫茶店に寄るなら今のほうが良い。店員さんがクスッと笑って、「いらっしゃいませ」と通してくれた。
 店内にはごく小さな音量で音楽が流れている。これはジャズピアノの音色だろうか。お客さんはさっきから気になっていたカウンターの上品なお姉さんと、テーブル席の老夫婦らしき人たちと、一人でテーブルの上に紙を広げている女の人。わたしは思い切ってカウンター席についた。
 メニューにはコーヒーとお茶とケーキが数種類。とりあえず、おすすめにあったドライベリーとハーブのお茶を頼む。それからもう一度ゆっくり店内を見回すと、そこかしこに猫の絵や写真、グッズがあった。わたしは犬は苦手だけれど、猫は大好きだ。店長さんとは気が合いそう。
 まもなくして透明なポットと一緒に出されたハーブティーは、甘くて爽やかな香りがした。春の匂いだ、と思った。
「初めて見るお客様ですね。もしかして、礼陣に来たばかりですか」
 カウンターの向こうから、穏やかでのんびりとした声の女の人が訪ねる。この人も、白いシャツに黒いエプロン姿が似合っていた。
「ついこのあいだ来たんです。四月から礼陣大学に通うので」
 甘いハーブティーの香りと味を楽しんでいると、クッキーののった小皿が差し出される。「おまけです」と、入口で会った人がこちらも穏やかな笑みで言った。
 学校からも近い場所で、素敵な喫茶店を見つけてしまった。今日はいい日かもしれない。わたしはさっくりと甘いクッキーを、時間をかけて味わった。

 買い物を終えてアパートに帰ると、奇妙な光景が繰り広げられていた。
「九鬼先輩、何してるんですか?」
「茉莉花! 助けてくれ、こいつしつこいんだ!」
 わたしの部屋の真下、一〇八号室の前で、九鬼先輩が女の人に抱きつかれていた。いや、あれは組み付かれているといったほうが正しいかもしれない。九鬼先輩のがっしりとした体に、細いけれど筋肉が程よくついている女の人が絡んでいる。
「いいじゃんか、慧。ちょっと付き合えよ。このアタシが早上がりで退屈してるんだから遊べー」
「くっつくんじゃねえっての! あー重い……」
「そこの子も一緒に遊ばない? でもプロレス技かけるのは可哀想か、せっかくふわふわしてるし」
 たしかにわたしはプロレスなんてできない。できればこのまま何も見なかったことにして立ち去りたいところだけれど、九鬼先輩がこれまで見せることのなかった懇願の眼差しを向けてくるので、無視できない。仕方なく二人に近づいて、おそるおそる言った。
「あの、九鬼先輩が嫌がるってよっぽどだと思います。やめてあげたほうがいいのでは」
「そう? じゃあふわふわちゃんに免じて解放するわ」
 女の人はあっさりと九鬼先輩から離れる。自由になった彼は、女の人から距離をとって、けれどもそこから逃げ出すことはなかった。
「助かったー……。茉莉花が来なけりゃ、乙に殺されるところだった」
「殺しゃしないよ、失礼な。で、ふわふわちゃんは慧の何? 彼女?」
「全然違います。隣に越してきたんです」
 わたしが即座に首を横に振ると、九鬼先輩はちょっとがっかりした顔をしていた。ごめんなさい、親切だけれど、あんまり好みのタイプではないのです。
 そして女の人は、そんな九鬼先輩を見て大笑いした。ひとしきり笑ったあとで、わたしに自分の名前を告げた。
「アタシはこの一〇八号室に住んでる、構っての。名前は乙」
「宝泉茉莉花です。真上に越してきたので、ご迷惑おかけするかもしれません。よろしくお願いします、構さん」
「こいつにはあんまり気を遣わなくてもいいんだぞ、茉莉花。肉焼くときくらいしか活躍しねえし」
「黙ってろ、慧。肉焼くのは大事な役割でしょうが。たまにアパートの都合つく人同士で集まって、焼き肉とかするんだよ。今度やるときは茉莉花ちゃんも誘うね」
 このアパートの住人は、今まで会った人はみんな仲が良かったけれど、構さんと九鬼先輩は特に仲が良さそうに見える。たぶん、構さんが九鬼先輩のことをものすごく可愛がっているのだ。地元の、弟がいる友達によく似ている。九鬼先輩でも勝てない人はいるんだなあ、としみじみ感心してしまった。
「もういいだろ、乙はこんなやつってことだけ覚えれば。それよりまた随分買い物してきたんだな、上まで持って行ってやるよ」
 ひょい、とわたしの手からエコバッグを取り上げて、九鬼先輩は階段のほうへ向かう。わたしが構さんに一礼すると、彼女はにいっと笑って手を振った。
 階段を上りながら、九鬼先輩はわたしの顔をちらりと見る。
「なんか機嫌良さそうだな、茉莉花」
「はい、ご機嫌です。素敵なお店を見つけたんですよ。『しろまる』っていう喫茶店なんです」
「ああ、あそこか。周りの女子、あの店好きなんだよな」
 アパートの女性も足繁く通う人気店らしい。ということは、秋華さんも行くのだろうか。もしかして、わたしがまだ知らないアパートの住人が、今日のあの場にいたりして。
 なんてことを妄想して一人で笑っていると、九鬼先輩が変なものを見るような目でわたしを見ていた。今更真面目な顔をしてももう遅いので、そのまま笑ってごまかしておいた。

 夜になって、買ってきたものを使ってこまごましたものを整理していると、チャイムが鳴った。部屋に誰かが訪れていることを報せるものだけれど、わたしが来てから使われたのは初めてだ。ドアののぞき穴からそっと外を見てみると、九鬼先輩と、もう一人知らない男の人がいた。念のためチェーンロックをかけたままドアを開ける。
「どちらさまですか?」
「茉莉花に紹介しとかなきゃいけねえ、大事な人を連れてきた。もう晩飯は食ったか?」
 九鬼先輩の問いに、首を横に振る。片付けに夢中になっていて、夕食はとっていなかった。これから作るとしても、冷凍しておいたご飯を温めて、インスタントの汁物を付けるだけになるだろう。
 わたしの返事に、九鬼先輩と、そして男の人もにやりと笑った。今度は何をしようというの。
「食ってないならちょうどいい。この人はアパートの食料事情に関わってくる人だ。ここの住人ほぼ全員に、作りすぎたおかずを分けてくれる、ありがたい存在なんだぜ」
「はじめまして、宝泉さん。慧から話は聞いてるよ。俺は一〇五号室の近江健太」
 九鬼先輩よりも背は低いけれど、大人に見える。それもそのはず、よくよく聞いてみれば近江さんはすでに大学を卒業した人で、昨年からこの町のちょっと大きな企業でお仕事をしている人だということだった。
 おかずを分けてくれるのは、趣味の延長。きちんと火を通した献立を、日頃のストレス発散に、ときどき大量に作っては住人に配り歩いているのだという。今日のおすそわけは魚の煮つけだった。
「もらっちゃっていいんですか? すごく良い匂いがします」
 空腹を感じたわたしの警戒心は薄れていて、ドアのチェーンロックを簡単に解除する。近江さんから差し出されたタッパーはまだ温かく、手にじんわりとその熱を伝えていた。
「男の料理だし、もし宝泉さんが嫌ならそれでいい。でももし食べてくれるなら……」
「食べます! いただきます! 魚って独り暮らしだとなかなか食べられないんだなって思ってたところだったんですよ。しかも煮つけ、すごく美味しそう」
 涎が出そうになるのを我慢して、タッパーを受け取る。これは片づけをすぐに中断し、早くご飯を解凍しなければ。本当は炊きたてがいいのだけれど、今回ばかりは仕方がない。
「良かった、喜んでくれて。タッパーは俺の部屋のドアに袋をかけておくから、そこに入れておいて。汚れたままで全然かまわないから」
「そんな、ちゃんと洗って返しますよ。ありがとうございます、近江さん」
 アパートの食料事情。そういえば構さんも肉を焼くとか言っていた。案外、みんなで同じものを食べる機会はあるのかもしれない。このアパートの人間関係は、なかなかに密だ。
 近江さんの作った魚の煮つけは、もちろん美味しかった。生姜醤油の甘辛さでご飯がすすむ。こんなに美味しいものならいつだって食べたいけれど、わたしからも何かお返しをしなくては。そのためにもう少し凝った料理を作れるようになろうと、小さな決意を固めたのだった。
 タッパーは忘れないうちにすぐに返そうと思って、丁寧に洗って持って行こうとした。すると階段の下で、三人ほど人が集まっているのに遭遇した。みんな同じタッパーを持っている。もしやこれは、と階段を駆け下りると、その音にその人たちが振り返る。そして、お互いに「あ」と声をあげた。
 三人とも、昼間に顔を見ている。そしてその人たちも、わたしを見ていた。あの喫茶店「しろまる」で。一人はテーブル席で紙を広げていた女の人、一人はカウンター席で本を読んでいた上品な女性、そしてもう一人は「しろまる」の出入り口で会った店員さんだった。
「君、昼間に店に来てくれた子だね」
「私も憶えてるわ。一緒にカウンター席に座った子」
「初めて来た子だから、あたしも作業の合間にちらちら見てました。まさか同じアパートの住人だったとは」
 はい、わたしもびっくりしています。つまり、あの店にいた人の大半が、コーポラス社台の住人だったというわけだ。まるでドッキリか何かの企画みたいな展開に、みんなで笑ってしまった。
 タッパーを持ったまま、その場で自己紹介をする。傍から見たら何の集まりか、不審がられるかもしれない。
「あたしは二〇一号室の澄田悠奈。去年、北市女学院大学の芸術学部を卒業して、今はイラストレーターを目指して修行の日々です。平日は普通の会社員ですけど」
 テーブルに紙を広げていた彼女が、にっこり笑った。
「一〇三号室、杉本千穂です。北市女学院大学院の一年生。文学研究を専攻にしています」
 細いフレームの眼鏡をかけた、髪の長い上品なその人が、小さくお辞儀をする。
「自分は弥富ナナセ。部屋は二〇二号室。喫茶店で働いています、どうぞご贔屓に」
 黒ぶち眼鏡のハスキーボイスが、穏やかに告げる。
 わたしは三人の圧倒的なレベルの高さを感じつつ、それを笑ってごまかしながら言った。
「二〇八号室に越してきました、宝泉茉莉花です。礼陣大学の一年生になります。どうぞよろしく」
 だって、そうでしょう。秋華さんも言っていた、北市女学院は賢い女の子が通うところだと。あのあと自分でも調べたのだけれど、礼陣大学とは比べものにならない偏差値の高さだった。そこの卒業生と、院生と、そして学歴こそわからないけれど素敵な喫茶店で働いている大人。それに比べたら、大学に二つ落ちてやっとのことで礼陣大学に引っかかったわたしなんて、恥ずかしい。この三人には本当のことは言えないな、と思った。
「とりあえず、タッパー返してきましょうか。近江さんって本当に料理上手よね」
「ですよねー。あたしの先輩から聞いた話なんですけど、健ちゃんの料理の師匠は、以前このアパートに住んでた人らしいです」
「家庭料理が得意なんだよね、近江君は。宝泉さんは自炊してるの?」
「今のところ、ご飯を炊いてインスタントの味噌汁つけるばっかりです」
 一〇五号室のドアにはちゃんと袋が提げてあって、わたしたちは順番にタッパーを入れてから、ドアに向かって「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
 まだここの人のことはよくわからない。でも、もしかしてみんなすごい人なんじゃないだろうか。わたしだけが平凡あるいはそれ以下だったらどうしよう、とこっそり悩む夜になった。



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商店街西、坂の上、縁結びアパート。(2)

 引っ越し荷物を片付けながら、生活用品を揃えていかなければならない。越してきて二日目は、すぐに使うものと春物の服を出して、区切りがついたところで買い物に出かけた。とはいえ方向音痴がすぐに直るわけはないので、今日も地図をくるくる回しながら道を確認する。
「スーパーはあっち、ホームセンターは……ちょっと遠そう」
 今度こそ無理をせずにタクシーを使った方がいいのでは、でもそんなことをしていたら買い物をするためのお金がなくなってしまう。アパートの前で悩んでいるわたしの肩を、不意に誰かが、ぽん、と叩いた。
「どうした、どっか行きたいのか」
「ぎゃああ!」
 重低音と、振り向いた先の真っ黒な大きい影。魔物の出現に悲鳴をあげたわたしに、当の魔物は目を丸くして手を離した。
「なんだよ、そんなに驚くなよ」
「す、すみません。わたし、今まで周りに九鬼先輩くらい大きい人っていなかったので」
 九鬼先輩。その人が礼陣大学の学生であることは、昨夜秋華さんが教えてくれた。今度二年生になるというからわたしの一つ上の学年だ。九鬼先輩はわたしが後輩になることを喜んでいるようだったけれど、こちらとしては怖い先輩がいることが判明してしまい不安が心に積もっていく。日常生活だけではなく、学校生活までこの人と一緒だなんて。
 けれども先輩は先輩だ。わたしが「九鬼先輩」と呼ぶと、「先輩って響き、いいな」と満足げに頷いていた。そのあと秋華さんに「感動しすぎ」と笑われていたけれど。
「で、どこに行きたいんだ。目的は」
 我に返ったときには、地図は九鬼先輩の手に渡っていた。わたしが付けたマークを指でなぞり、首を傾げている。わたしは彼の隣に並んで、ちょっと高い位置にある地図を覗き込んだ。
「ホームセンターとかスーパーとか、生活用品が揃えられそうなところに行きたいんです。洗濯洗剤やハンガーなんかは急務です。早く洗濯機使ってみたいので」
「洗濯したいんじゃなく、洗濯機を使いたいのか。変なやつだな。スーパーはともかく、ホームセンターは遠いぞ。全部近場で済ませられるいい方法があるんだが」
「え、そうなんですか?」
「しかもお得だ」
 にやり、と笑う九鬼先輩はやっぱりちょっと怖い。けれども晴れた午前の明るさのおかげか、今日はちょっと頼もしかった。
 お得情報についてもう少し聞きたいと思ったら、九鬼先輩はわたしに地図を返し、アパートに戻っていった。言うだけ言って帰るつもりなのか、とムッとして目で追いかけていたら、しかし彼は自分の部屋ではなく、その隣の二〇六号室のドアを叩き始めた。
 そこの住人らしい人はすぐに出てきた。癖っ毛がふわふわしているのが遠目にもわかる、九鬼先輩よりも背の低い男の人だ。大きな欠伸をして、不躾な訪問者を見上げている。
「もう、何なん? 僕、休みの日は昼までだらだらしてたいんやけど」
「緊急事態だ。女子の買い物をサポートするぞ」
 九鬼先輩が言い切る。サポートって、そこまで頼んでないのに。戸惑うわたしを、二〇六号室の住人が首を伸ばすようにして見ている。なんだか恥ずかしい。
「女子ってあの子? あー、なんやふわふわしてかわいい子やね。慧ちゃん、ああいう子が好みなん?」
「馬鹿、好みだとかそういうのは関係ねえんだよ。とにかく大量に買い物あるんだったら、人手が必要だろ。たった一人で引っ越してきてんだから」
「それもそうやね。僕も慧ちゃんに助けてもらったし、ここで情けを巡らしとくのは道理やな」
 わたしが口を挟む隙どころか距離もないまま、話はあれよあれよという間に進んでいく。なにしろ九鬼先輩の声は大きいし、相手も口調のわりにはっきり話すので、内容はここからでも丸聞こえだ。二人は階段を下りてわたしのところへやってくると、「それじゃ行くか」と歩き出した。
「ちょっと、ちょっと待ってください先輩! どうして先輩も行くことになってるんですか。あと、その人は誰ですか。知らない人を付き合わせるのは悪いですって!」
 駆け足で追いついたわたしに、九鬼先輩はたった今思いついたように、そうだったな、と言う。そして隣の癖っ毛の彼を指さした。
「こいつは大学の同級生で、時澤ちはる。部屋が隣ってこともあって、しょっちゅうつるんでる」
「どうも、時澤です。ちはるは一日って書くんやで。これからよろしく、ええと……」
「宝泉茉莉花だ。俺のことをめちゃめちゃ怖がってて、秋華さんとはもう一緒にコンビニに行く仲」
 わたしが自己紹介をするまでもなく、九鬼先輩が人間関係までも話してしまう。時澤先輩はそれを自然に受け入れていて、「よろしくなあ、まりちゃん」なんてぽわぽわと微笑んでいる。同級生というだけあって九鬼先輩のペースに慣れているのかもしれないけれど、こっちは完全に置いてけぼりだ。
「あの、本当に買い物手伝うつもりなんですか? 見ず知らずのわたしなんかの」
「自己紹介したんだし、同じアパートの住人だし、もう見ず知らずじゃねえだろ。俺たちがいれば、重い物も楽して持って帰れるぞ」
 九鬼先輩はやる気満々、時澤先輩も頷いている。仕方ない、男の人がいると買いにくいような物は後回しにするとして、ちょっと大きい物やかさばるような物はお願いしよう。正直なところ、重い物を持って歩き回ることには不安があった。
「じゃあ、よろしくお願いします。それで、お得ってなんですか?」
 ようやく尋ねることができたわたしに、九鬼先輩がまたにやりと笑った。
「まあ、ついてきなって。すぐ近くだからさ」
 九鬼先輩と時澤先輩が並んで歩くのを、わたしが少し遅れて追いかける。三人で坂を下るあいだ、九鬼先輩は天気のことやご飯のことをずっと喋っていて、時澤先輩はそれに相槌を打ち続けていた。

 子供が駆けまわり、大人はそこかしこで井戸端会議。軒を連ねる店からは威勢のいい掛け声が聞こえてくることもあれば、店の人とお客さんたちがまったりと話している姿も見える。幟に暖簾、看板がずらりと並ぶそこは、昨日わたしも通ってきた商店街だった。
「礼陣駅裏商店街だ。歴史は長く、老舗も多い。でも時代に合わせて営業形態を変えたりしていて、常に工夫することを考えている。店が生き残ることと客を大切にすることをしっかり両立させている、元気な商店街なんだぜ」
 九鬼先輩が自分のことを話すみたいに、自慢げに胸を張る。たしかにわたしの地元にある寂れた駅前商店街よりも、随分と賑わっているようだ。
「流行のものや若者が好みそうなものは、たしかに駅前の店や、町の南側にある川向こうのショッピングモールのほうが多い。でも、サービスと良いものを取り揃えることに関しては、この商店街だって負けちゃいない」
「慧ちゃんは商店街贔屓やから、買い物はできるだけここでって決めてるんやで。生まれ育った町だから、馴染んでるしな」
 僕もあっちの店のコロッケとか好きなんや、と時澤先輩が通りの向こうを指し示す。こじんまりとした総菜屋の、大きな看板が見えた。けれどもわたしは、総菜屋よりも時澤先輩の言葉のほうが気になっていた。
「九鬼先輩、ここが地元なんですか?」
「ああ、生まれも育ちも礼陣だ。町の人にはガキの頃から世話になってる」
「なのに独り暮らしを? 地元なら、実家から大学に通えるんじゃないですか」
「だってしてみたいじゃん、独り暮らし」
 そう言って九鬼先輩は、商店街の大きな道を真っ直ぐに歩いて行った。もう行く店は決まっているらしい。わたしの用事なのに。時澤先輩に促されて、あとをついていく。
 子供の頃からこの町に住んでいるだけあって、九鬼先輩が商店街を歩くと、色々な人に声をかけられている。立ち話をしていた奥様も、彼を見つけると「慧君、元気ー?」と手を振る。店の人も「よお、慧じゃねえか。ちょっと見ていけ」と誘う。九鬼先輩も、怖い顔ながら、それらに軽妙に返事をしていく。どうやら彼は、商店街の人気者のようだった。
 わたしと時澤先輩はその後ろを歩き、ときどき話しかけてくる人に挨拶を返した。驚くことに、多くの人がわたしがこの町に来たばかりであることを見抜いた。中には初日に迷子になってうろうろしていたのを見ていた人もいて、恥ずかしい思いもした。
 そして誰もが口を揃えて言うのだ。――慧ちゃんと知り合いになれたなら、この先安心だね。
「九鬼先輩は有名人なんですね」
「慧ちゃんが有名というより、この町の人が住民をよく覚えてるんや。新しく入ってきた人はすぐわかる。僕も去年は、今のまりちゃんみたいやった」
 噂がまわるのも早いから気をつけたほうがええで。時澤先輩がいたずらっぽく笑う。つまり、ここで悪いことはできないということだ。もしかしたら、わたしが迷っていたことも、みんなとっくに知っているのかもしれない。
 しばらくして、九鬼先輩が店に入った。入口の上に「竹村商店」という古めかしい看板がかかっている。レトロな外観に反して、中に入ると最近の規模の大きいドラッグストアのようだった。床も壁も、商品棚もきれいにしてある。食品や日用品がずらりと並び、ここなら大抵の物は揃いそうだ。
「あれえ、慧君じゃないか。今日は何が入用だい」
 この店の人とも九鬼先輩は親しいらしい。「俺じゃなく、こいつの用事」とわたしを指さすと、店の人は他の町の人と同じように、すぐに「おや、初めて来るお嬢さんだ」と破顔した。
「洗剤は置いてるよな。ハンガーとかどこだっけ」
「あっちの棚に何種類か置いてるよ。ハンガーラックも一緒にある。折りたためて便利だよ」
 引っ越してきた人の対応には慣れているのだろう。何が必要なのか、この店の人には全てわかっているようだった。わたしは教えてもらった通りに洗剤を選び、ハンガーをかごに入れた。大きいハンガーラックは九鬼先輩が持ってくれる。たしかに一人じゃ買い物は難しかったかもしれない。
 他にも日用品をいくらか、一緒にレジカウンターに持っていく。店の人が丁寧かつ素早くレジを打ち、出した値段を見て、わたしは目が飛び出るかと思った。頭の中で計算していた値段より、あまりに安すぎたのだ。
「あの、間違ってませんか。こんなに安いはずないですよ」
「初めて店に来た人は、こうやっておまけしてるの。また来てほしいからね、初回サービスだよ」
 またどうぞ、とクーポンを渡される。次回以降に使うと、一割引きになるそうだ。わたしがぽかんとしているあいだに、ハンガーラックの箱は九鬼先輩が、他の荷物は時澤先輩がそれぞれ持っていた。
「まだ買うのあるんだろ。次行くぞ、次」
「ありがとうございます。でもそんなに大きいの持って、大丈夫なんですか」
「次の店で預ければいい。この商店街じゃなきゃ、こういうことはできねえよな」
 お得だろ、と九鬼先輩が笑う。時澤先輩も「僕も去年は驚いたなあ」とのんびりとした笑みを浮かべている。商店街といい、不動産会社の社長さんといい、この町の人には「おまけ」が当たり前のようだ。
 九鬼先輩の言葉に甘えて、そのあとも食料品や日用品を買いこんだ。どの店の人も例外なく「おまけ」をくれて、わたしの財布には予想よりも多くのお金が残っていた。
「なんだか申し訳なくなっちゃいますね。これじゃお店が損するじゃないですか」
「これから通って、たくさん買えばいい。それを狙っての初回割引だからな」
「あとで初めて来たふりしても駄目なんだよね、すぐばれるから」
 これから通う。この町の人間として、通い続ける。ここにいる人たちの行動は、それを見越してのものなのだと九鬼先輩は言う。こんなにサービスされてしまったら、たしかに通わないわけにはいかないだろう。だいたいにして、住宅街の中のスーパーやコンビニを除けば、ここが一番近い買い物の場で、あちこちを見てまわる楽しみを得られる場所でもあった。
 買い物を終えてから、先輩たちが総菜屋でコロッケを奢ってくれた。三つ買ったら、一つおまけがついてきて、それもわたしが貰ってしまった。「初めてのお客さんだから」と店の人がコロッケを包みながら言っていた。勧められるままにその場でかぶりつくと、衣はサクサク、じゃがいもはホクホク、ひき肉はジューシー。時澤先輩がここのコロッケを好きな理由が十分すぎるくらいわかった。
「今日はありがとうございました。わたし一人だったら、こんなに一気には片付きませんでした」
「だから助け合うんだよ。俺はこの町が好きで、ここに来たやつにも好きになってほしいから、新入りにはすぐに話しかける」
 逃げられたけど、と口をとがらせた九鬼先輩に、わたしは慌てて「すみませんでした」と頭を下げた。するとその下げた頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜられる。
「冗談だよ」
「もう、なにするんですか。髪ぐちゃぐちゃになったじゃないですか」
「僕が直してあげる。慧ちゃん、力いっぱい撫ですぎや」
 ああ、今のは撫でられていたのか。ぐしゃぐしゃにされすぎて、言われるまで気づかなかった。わたしの髪を直してくれる時澤先輩の手のほうがずっと優しくて、こっちのほうが撫でられているみたいだった。

 アパートに戻ると、引っ越し業者のトラックが停まっていた。業者さんがひっきりなしに、一階の階段に一番近い部屋に出入りしている。そしてその部屋、一〇一号室の前では男の子と在さんが談笑していた。――あのわたしの前では愛想笑いの一つもしなかった在さんが、笑っていたのだ。
「お、最後の一人だな。今回は茉莉花と、もう一人来る予定だったんだ」
「姿勢の良い男の子やね。たしか高校生って噂だよな」
 九鬼先輩と時澤先輩が、在さんと男の子に挨拶をしてから階段を上って行った。わたしも「こんにちは」と会釈をする。男の子は元気よく「こんにちは!」と返してくれ、在さんもこちらに頭を下げる。その表情は、男の子と話していたそのまま、微笑んでいた。昨日、わたしに接していたときとは別人のようだ。
「常田さんって、あんなふうに笑うんですね」
 部屋の前まで荷物を持ってきてもらってから、わたしは声を潜めて呟いた。すると九鬼先輩は当たり前みたいな顔をして頷いた。
「普通に笑うぜ。いつもは真面目に仕事してるから表情硬いけど、雑談すると楽しそうにしてる」
「新しく来た子とも、話が合ったんやね。いつも以上に盛り上がってはる」
 時澤先輩も柵からちょっと乗りだすようにして、にこにこしながら階下の様子を眺める。業者さんたちの声の中に混じって、二人分の笑い声が、わたしにも聞こえた。わたしのときにはなかった声だ。つい昨日のことなのに、何か月も前のことのように感じる。
「先輩たちがここに引っ越してきたとき、常田さんの様子ってどうでした?」
「大事なことは真面目に説明してたな」
「そうそう、必要事項は淡々と話すんよね。でも引っ越してきた理由の話になると、笑ってくれはる。トラブルあったらすぐ来てくれるし、感じ良い人やで」
 そうでしょうか、と言いたいのを呑み込んだ。時澤先輩がいうような人は、昨日わたしの前には現れなかった。一応在さんのお祖父さんだという不動産会社の社長さんと間違っていないかどうか訊いてみたけれど、たしかに在さんが担当だったという。社長さんは実際に不動産会社に行って会うか、メールでやりとりをするかしか関わる方法がないと、九鬼先輩も言った。そのメールがとても面白いということも。
「メールは正造さん……社長さんのほうが断然面白い。在さんのメールはガッチガチだな」
「でしょうね。本当に真面目なんですもん、あの人」
 わたしは時澤先輩の隣で柵に寄り掛かり、まだ男の子と話をしている在さんを見た。笑顔は爽やかだ。まさにわたしの好みそのものなのに、昨日は一度も見せてくれなかったその表情。
 わかっている。たぶん、わたしがこのアパートへの入居を決めた理由が「縁結びのご利益」にあったからだ。秋華さんも言っていたけれど、在さんはその手のことを意地でも信じない。そしてそんなことで簡単に物件を選んでしまうような人も、あまり好きではないのだろう。
 でも、ただの愛想笑いでもいいから、見せてほしかったな。溜息を吐きながら、わたしは部屋の鍵を開けた。
 荷物を部屋に入れてくれた九鬼先輩は、そのまま駆け足で階段に向かった。新しい住人と自分も話したいのだろうと、時澤先輩が言う。わたしに話しかけようとしてくれたように。わたしは逃げてしまったけれど、あの男の子はすぐに九鬼先輩とも打ち解けそうだ。
「時澤先輩。先輩も、九鬼先輩に話しかけられて仲良くなったんですか?」
 わたしが呼び止めると、時澤先輩はにっこり笑って首肯した。
「そう。隣に引っ越してきたから、挨拶くらいはせなと思って外に出たら、もうそこで待っとった。あいつのほうが二日くらい早く入居してたんや。同じ学校やし仲良くしよかって、握手してからはほぼ毎日部屋を行き来してる」
「やっぱり握手するんですね」
 それが九鬼先輩の挨拶なのか、と思うと、ちょっと面白い。見た目に反してフレンドリーなのだということは、今日一日だけでもよくわかった。あの人懐っこさを少しでも在さんに分けてくれたら、と思っていたら、在さんも誰かと笑って話せるという事実を見た。
 何が本当なのかわからない。腕組みをして唸るわたしに、時澤先輩が「大丈夫?」と尋ねる。
「まりちゃん、具合悪い? 今日いっぱい歩いたもんなあ」
「違うんです。怖いと思っていた九鬼先輩が実は怖くなくて、わたしにはちょっとも笑ってくれなかった在さんが普通に笑顔で会話してることに、混乱してるだけです」
「あー、まりちゃんには笑わんかったんか、在兄さん。あの人照れ屋だから」
 そんなふうに簡単に言って、時澤先輩は「またね」と自分の部屋に戻っていった。ありがとうございました、と見送って、わたしも部屋に入ってしまうと、しばらく静けさが落ち着かなかった。



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posted by 外都ユウマ at 11:19| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする