2018年04月29日

商店街西、坂の上、縁結びアパート。(1)

 なんでもいい、なにものにでも縋りたい、そういう気分だった。
 第一志望の大学に落ち、第二志望もほぼ絶望的。わたしを掬ってくれたのは、念のために受けていた、進路相談担当の先生が薦めてくれた一校だけ。そんな状況で仕方なく、そこへ通うための準備を進めていた。実家からは遠い、田舎の町に学校はある。入学手続きと同時に、家探しをしなければならなかった。
 その町の不動産会社に問い合わせ、これでいいか、とあまり考えずに家賃の安いワンルームについてメールで尋ねてみたら、すぐに返事があった。

 宝泉茉莉花様
 このたびは物件についてお問合せをいただき、ありがとうございます。
 お問い合わせいただいた「コーポラス社台」には、現在二部屋の空きがございます。詳細を添付いたしましたので、参考にご覧ください。
 また、この物件にはおまけがございます。「コーポラス社台」は神社に近い立地でありまして、縁結びのご利益があるともっぱらの評判です。ぜひとも入居をご検討いただければと思います。
 常田不動産 担当:常田

 縁結びのご利益。その部分を繰り返し読んで、わたしはそろそろと添付されていた資料を開いた。


 思わず呻きが漏れる。地図の見方はこれで正しかったのだろうか。すでに駅を出て十五分が経過した。しかし「駅から徒歩十五分」のはずの目的地は、まだ見えない。
 地元から、列車を乗り継いで、降り立った駅。駅名の「礼陣」は、この町の名前でもある。春休みの駅前は子供からお年寄りまでいろいろな人がいて賑やかだ。駅前は全国展開の大きな店や、立派なビルが並んでいる。思っていたよりも「田舎」ではなさそうだ。
 けれども、私が向かったのは駅の裏。そこに東西に伸びる商店街があることは、不動産会社からのメールと、自分でも調べてわかっている。でも、問題はその先だった。地図上では整然としている商店街は、実際は細い道があちこちにあって、たぶんどこに行ったらどんなところに着くのかは、この町に住んでいる人にしかわからない。
 キャリーバッグをカラカラと引いて、ずっと同じ場所を行ったり来たりしているわたしをみかねたのか、とうとう親切な人が声をかけてくれた。
「礼陣大学方面? 社台のアパート? それなら加藤パン店の脇の坂道を上って行ったらすぐだよ」
「それは聞いて知ってるんです。でも、そのパン屋さんが見つからなくて」
「商店街の西のほうだし、少し歩くからね。この道をまっすぐ行って――」
 丁寧な道案内のおかげで、目印はやっと見つかった。「加藤パン店」の看板と、店から流れてきて鼻腔をくすぐる香ばしい匂い。わたしはホッとすると同時に、ごくりと唾を呑み込んだ。
「ちょっとだけなら……。あ、でも、約束の時間とっくに過ぎてるし。早くしないと運送屋さんも来ちゃうから、先に行かないとだめだ」
 独り言をこぼしながら、誘惑を振り切る。把手をぎゅっと握りなおしたキャリーバッグを引いて、パン屋の脇からのびる坂道――これはすぐにわかった、まさに真横だったのだ――を歩く。
 パン屋以外にも食べ物の匂いは、商店街に入ってからずっとまとわりついてきていて、それもわたしの足を止めさせる原因になっていた。店を覗こうかどうか迷って、ふらふらして道を見失うのだ。
 空腹を感じると、道のりは余計に長く感じる。目印が見つかっただけで、ゴールはまだ先だ。
「やっぱり不動産屋さんまで行けばよかったかな。現地のほうが近いっていうから、つい行けますって言っちゃったけど」
 こんなことなら意地を張らずにタクシーでも拾えばよかったな。印刷して持って来た地図をもう一度見て、坂をまた上る。間違っていなければ、この先は住宅地になっている。そして目指す建物にも、大きな目印があるはずだった。
 さほど急な坂ではなかったけれど、列車を乗り継いで遠くから来て、さらにここまでさまよった足にはこたえる。早く到着して休みたい。大きく一つ息を吐き、もう一歩大きく踏み出して、わたしは目印を探すために顔をぐっと上げた。
 はたしてそこには、大小さまざまな住宅が軒を連ねていた。どこを見ても縦や横に長い建物があって、そこには窓やドアがたくさん、規則正しく並んでいる。これらはみんな、マンションやアパート、下宿なのだ。そして奥にある最も大きな建造物は、外観からしてこれから通うことになる礼陣大学。サイトで何度も確認したとおりだった。
「ああ、ここが」
 ようやく少し、実感が湧いてくる。ここがわたしがこれから住む町なんだ。少し緩んだ口の中で小さく呟いた途端、そこに突然現れたかのように目に入ったアパートがあった。
 壁には単純明快な書体で大きく「コーポラス社台」と書かれている。これが探していた目印だ。わたしはキャリーバッグの把手を収納し、両腕に抱え込んで走った。限界に近かったはずの足は、そこまでちゃんと動いてくれた。
 ここが目指していた場所。やっと着いた。不思議な感動ににやけた表情を、建物の二階通路から、おそらくわたしを待っていたであろう人にばっちり見られた。彼は喜ぶでもなく、安心するでもなく、ただ真面目そうな表情でこちらへ声を投げかけた。
「宝泉さんですか。お待ちしていました」
 低すぎない穏やかな声と、すっきりとした顔立ちは、ちょっとばかりわたしの好みのタイプだった。
「さすが『縁結びアパート』……」
 さっそく素敵な男性に出会えるなんて。期待に膨らむ胸を抱えたバッグで強く押さえ、わたしはアパートの階段へ向かった。

 築二十年、耐震性能に問題なし。部屋は一階と二階に七部屋ずつ、計十四部屋ある。部屋番号に「四」がないので、階段から一番遠いわたしの部屋は二〇八号室。二階の部屋の前の通路には高い金属製の柵があり、ピカピカに磨き上げられている。
 ほんの少し身を乗りだすようにして、そこから見た景色は、各々違う形をしたアパートや下宿と、その向こうのところどころピンク色の混じる山だ。事前の内見をしなかったわたしのために、不動産会社の人が送ってくれたメールや添付してあった画像と、今のところは情報が違わない。
「こんにちは、宝泉さん。本日こちらのお部屋を担当いたします、常田と申します」
 深緑色をしたジャンパーを着た真面目そうな男性が「よろしくお願いします」と名刺を差し出す。わたしは「こちらこそ」と頭を下げてから、慌ててバッグを置いて名刺を受け取った。
 常田、という名前は、もうすでにわたしにとって馴染みあるものになっていた。この物件について確認するたびに何度もメールを返してくれた、担当者の名前。この人があの丁寧で、ちょっとお茶目なメールを送ってくれていたのかと思うと、ドキドキする。間近で見ると、想像以上に整った顔をしている。
 改めて名刺を見ようとしたけれど、その前にカチャリと部屋の鍵が開けられた。どうぞ、と常田さんに促されて、わたしは名刺をポケットにしまい、バッグを再び抱えて、部屋に足を踏み入れた。
 六畳のワンルームと聞いていたが、まだ家電を含めて荷物が何も入っていない部屋は、もっと広く見える。小さなクローゼットがありますとメールに書いてあったが、中にあとで届くはずの四段収納ボックスを入れられるだけの大きさだ。洗濯機と冷蔵庫、テレビとテーブルを入れれば多少は狭くなるだろうけど、初めての独り暮らしには十分なのではないだろうか。一口コンロが備えてあるささやかな台所も、電子レンジと炊飯器さえあれば自炊には事足りそう。
 部屋を床から天井まで見回して満足していると、背後から常田さんが声をかける。
「宝泉さん、鍵をお渡しします。それから何点か説明を。電気とガス、それから水道の業者もまもなく来ることになっていますので」
「あ、はい。お願いします」
 常田さんから鍵を受け取るとき、手が触れた。冷えていたのは、きっとわたしが大遅刻してきたせいだ。ずっと部屋の前で、わたしが来るのを待っていてくれたに違いない。そういえば、まだそのことを謝っていなかった。
「ではお部屋のご説明をさせていただきます。宝泉さんは内見にいらしていないということでしたので」
 わたしが口を開く前に、常田さんは至極真面目な調子で切り出した。こちらも思わず背筋が伸びる。
 わくわくするような新しい部屋の匂いの中、常田さんは部屋の設備の説明をする。玄関には靴箱、部屋は照明つき、ブレーカーはあそこに、エアコンの操作はこのリモコンで。設備は事前にメールを送ってもらったとおりだったので、すぐに頭に入った。
 でも、なぜだろう。わたしは先ほどから、常田さんに違和感を持っていた。メールの文面と本人の口調が、あまりにも違いすぎるせいだと気づいたのは、部屋の契約内容について話が及んだ頃だった。
 わたしが内見に行けない代わりに、と部屋の様子を説明してくれたメールは、読んでいて面白かった。何度もやりとりをしているうちに、感嘆符や星マーク、顔文字がしつこくない程度にあしらわれるようになって、引っ越し前日のメールなどは、まるで何年も知り合いだったかのように思えるほどだった。
 常田さんの説明は、丁寧で、淀みがない。ただ、仕事中であるということを差し引いても、あまりにも事務的で淡々としている。必要なことだけを箇条書きに並べてあるものを、読み上げているような印象だ。
 単純に風呂とトイレが別だということを説明するだけでも気の利いた一言が添えられて、部屋への興味をかきたててくれたメールとは、まるで別人のようだった。メールではおまけまで書いてくれていて、最終的にはそれが新生活への決定打となったほどなのに。
 しかし、メールのフッターにはたしかに担当者の名前が「常田」とあった。たしかにそういう記憶がある。
 それから、彼の顔立ちがすっきりしてはいるけれど、ちっとも笑わないことも気になった。わたしは説明を続けていた常田さんの横顔をじっと見ていたのだけれど、一度だって微笑んだりしなかった。
 やがて視線に気づいたのか、常田さんはわたしをちらりと見て、言葉を切った。
「何か分かりにくいことでもありましたか」
「いいえ。ただ、常田さんの印象がメールとは違うなと思って」
 正直に言ってしまってから、失礼だったかな、と思う。けれどもギャップがあるなら、それはそれで魅力的です。好みの顔に真面目な性格。そんな人と関わりを持てるのなら、この先の生活も期待大です。そう続けてしまいそうになって、慌てて口を閉じた。
 ところが常田さんは怪訝な表情で「メール?」と呟いてから、ふっとそれまでの無表情に戻って、説明を続けるように平坦な声で言った。
「宝泉さんとメールでやりとりをしていたのは、弊社の社長です。私ではありません」
「社長さん、ですか?」
「ええ。こちらの物件は弊社が直接管理しているもので、入居者がより住みよいように特に手をかけているんです。社長が」
 先ほど受け取った名刺をポケットから取り出し、今度こそじっくり眺めた。もちろん、目の前の彼に社長や代表などという肩書はついていなかった。スタッフ、常田在。――詳細で明るいメールを送ってくれていた、常田という人物ではない。別人のよう、ではなく、別人だったのだ。
 呆気にとられているわたしに、常田さんは続ける。
「メールは簡潔にと言っているんですが、若い方と話をするのが楽しいようで。基本的に家族経営なので誤解が生じやすいため、私はやめてほしいです」
「じゃあ、あなたは息子さんですか」
「孫です。祖父ほどユーモアがなくて申し訳ありません。こちらは仕事なので」
 言い切った。真面目な顔で、きっぱりと「仕事」と言い切る大人。そういう人がいることに、わたしは雷に打たれたような思いだった。
 そんな人には、今まで会ったことがなかったのだ。人を相手にする仕事をしている人は、たとえ見せかけだとしても、大抵は笑顔を浮かべているものだと思っていた。たとえば日々営業で駆け回っている父は、学校で進路相談に乗ってくれた教師は、疲れていてもにこやかにしていたから。それが仕事なのだと、当人たちも言っていた。わたしだってその大変さがわからないわけではないけれど、常田さんほど笑うことに力を使わない人は初めてだ。
 新居について教えてくれた常田不動産の常田さんという人は、きっとユーモアがあって、気が利いていて、優しい人なのだろうと考えていた。実際、メールをくれた「別の常田さん」はそうなのかもしれない。でも目の前で何事もなかったように説明を再開しようとする在さんという人は、わたしの考えていた「こうあるべき」「理想の」大人とは違うようだった。
 わたしと話すのは仕事。それはたしかにそうなのだろうけれど、でも。
「……いや、でも、楽しい話の一つくらいはありますよね。ここが『縁結びアパート』って呼ばれてることとか」
 わたしはメールから希望をもらい、期待していたのだ。常田さんに会うことに。会って実際に話をすることに。――このアパートの「ご利益」について、もっと語ってもらいたいと思っていた。
 このコーポラス社台というアパートには、縁結びのご利益があるという。それはメールにあったこの物件の「おまけ」であり、個人のブログやSNSでまことしやかに囁かれている噂だ。神社に近いこのアパートに入居した人々には、さまざまな縁に恵まれるという。
 たとえばそれは、住人同士の仲。このアパートに暮らす人々は自然と親しくなり、かけがえのない存在になるのだとか。住人同士で結婚したという話もある。
 たとえばそれは、仕事や学業での縁。コーポラス社台に入居してから、大きな企業と縁ができて、良い仕事が次々に舞い込んでくるようになったとか。あるいは、受講希望者が多くて必ず抽選になってしまう講義を、必ず受けられるようになるとか。
 その話の数々が、わたしの入居を決める後押しをしたのだ。大学受験にほぼ失敗していたわたしを慰めるように、それどころかこれも悪くない道なのだというように導いてくれた。落ち込んでいた気分はみるみるうちに盛り上がり、いつのまにか独り暮らしに期待を持つくらいの余裕ができていた。
 そうして、わたしにもそんなご利益が、縁があればいいなと思っていたのに。
「縁結び? まさかそんな話を信じて入居を決めたんですか」
 常田さん改め在さんの表情が、ほんの一瞬険しくなる。すぐに元の無表情になったけれど、続いて繰り出された言葉には一切の容赦がなかった。
「今更ですが、そんな曖昧な、うまくいかなければ簡単にそのせいにして文句を言えるようなものに頼って住まいを決めても仕方ないと、私は思います。大学に通われる間だけの短い期間かもしれませんが、あなたは本当にここで生活をするということを考えましたか?」
 抑揚のなさが、胸をぐさぐさと刺す痛みに拍車をかけた。その場で固まってしまったわたしを見ずに、在さんはさらに言葉を継ぐ。
「私は縁結び目的でこの物件への入居を希望してきた方には、そう尋ねるようにしています。すると皆さん、大抵引いていきます。家賃は安いですが、そう利便性の高い物件でもありませんし。ただ、社長はそういう噂も利用して人を入れようとするので、こちらは困っているんですよ」
 切った言葉の間に、深い溜息。そして、とどめの一発。
「念のため言っておきますが、その点について保証は致しかねますのでご了承ください」
 他への引っ越しをご希望ならご相談にも乗りますし、物件の紹介もさせていただきます。ついでのように在さんはそう付け足した。わたしは混乱しながら、なんとか告げられたことをゆっくり頭の中で反芻して、意味を捉えようとした。縁結びの噂は、在さんにとっては「曖昧」で「うまくいかなければ簡単にそのせいにする」ようなもの。こんなことで住まいを決めるのは、彼としてはいけないと思っている。だから今まで入居しようとした人にはそう話してきた。――それで引いていくのは、説明の所為ではないだろう。在さんが、入居希望者の期待を砕いてきてしまったように思われる。
 もしかしてこの人、とわたしは心の中で呟く。もしかしたら、あまりにも真面目すぎるのでは。そのために活用できるものを上手に使えていないんじゃないか。
 万が一にも再び物件の相談なんかできない。しっかりした物件を紹介してくれるとしても、会話をしているうちに心が折れてしまうかもしれない。
――どうしてこの人、この仕事できてるんだろう……。
 わたしはもう呆然としてしまって、そのあとの注意事項は半分も頭に入らなかった。ごみの分別と収集の曜日についてや、現在アパートは満室なので騒音などに気をつけてほしいなどといったことを言われた気がするけれど、よく覚えていない。ガスや電気や水道の業者が一斉に入ってきて、在さんとともに出ていくのを、生返事をしながら見送った。かろうじて常識的な応対はできていたはずだ。雑談を交えられた分、わたしのほうが在さんより常識的だった、と思う。
「それではこれからよろしくお願いします」
 そう言った在さんを思い出すと、なんだかがっかりしてしまう。
「あれじゃよろしくなんてできるかなあ……。真面目なのも考えものだよね……」
 今度はわたしが、深い深い溜息を吐く番だった。
 そうして結局、落胆したまま、到着した引っ越し業者さんたちを迎えることになった。業者さんの一人が元気がないわたしに気づいて、引っ越しは疲れますよね、と声をかけてくれた。その言葉がじんわりと胸に沁みる。こんなの、在さんとのやりとりには一切なかった。こちらも素直に「ありがとうございます」と言える。これが普通なんだよね、とわたしは頷く。
 揃った家具に安堵して、改めて新生活に思いをはせた。管理人がどうであれ、ここで暮らしていくと決めてしまったのだ。在さんがばっさりと斬り捨てただけで、このアパートに何らかのご利益があるという可能性が消えたわけではない。たとえば隣の人が在さんより素敵だったりして、わたしに親身になってくれたりして、心が躍るような毎日を送れるかもしれない。ネットで見た事例のように。
――良い噂があって、ここで暮らしたいと思う人がいるなら、それでいいと思うけど。どうしてあの人は、あんな言い方するんだろう。
 思い出すとまた心が萎んでしまう。働いてくれた引っ越し業者さんたちを見送るついでに、気分転換でもしよう。わたしは部屋から出ていく人々を追いかけるようにして外に出た。気持ちの良い日差しと春の暖かい風を浴びれば、きっと残念なことも忘れられるはず。
 けれども、吹いていたのはひやりとした夕方の風だった。もうそんな時間だったらしい。四月になる前の空気は、まだ肌寒い。
 腕をさすりながら、ふと隣の部屋へ目をやると、ドアが開いて人が出てきた。ぬうっと現れた影に、わたしは思わず後退った。相手が、でかい男の人だったのだ。
 わたしの身長は一五〇センチくらいだけれど、彼はおそらくゆうに一八〇センチを超えている。しかも身長が高いだけでなく、しっかりした筋肉がついていることが服の上からでもわかるくらい、体格がいい。彼はこちらに気づいて、わたしを見下ろした。その目は鋭くて、知っている範囲でたとえるなら猛犬。ちなみにわたしは犬が苦手だ。
 黒い長袖のTシャツに、これまた黒いジーンズ。そんな恰好の彼が、逆光のせいもあって巨大な魔物のように見える。彼はこちらを睨みながら、一歩近づいてきた。
「おい」
 声も低い。上から降ってくる音が重い。まさにそのまま重低音。そんなふうに何か話しかけられるとしたら、苦情しか思いつかない。さっきまで人が大勢出入りしてたので、騒がしくなるのは仕方がないのだけれど。神経質な人なら、耐えられないこともあるかもしれない。
「す、すみませんでしたっ! もううるさくしませんから!」
 絶叫して部屋の中に逃げ込み、素早くドアを閉めて鍵をかけた。ドアを叩かれたりしたらどうしよう、と思ったけれどそれはなく、しかし手は汗をかいている。
 ああ、怖かった。まだ心臓はバクバクしている。隣の人が素敵だなんてとんでもない。そんな妄想は一気に吹き飛んだ。あんな人と仲良くできるとは思えない。縁なんてもってのほか。あの人、絶対わたしのこと気に入らないよ――!
 管理人といい、住人といい、わたしの期待はみごとに良くない方向へ覆され続けている。こんなことで、このアパートでやっていけるのだろうか。縁って、ご利益って、なんだったんだろう。一日目にしてわくわくした気持ちは叩きのめされ、潰れてくしゃくしゃになっていた。積んだダンボール箱も開ける気になれず、引きずり出すようにして敷いた新品の布団にやっとのことで寝転んだ。
 わたし、独り暮らしできるのかなあ……。

 そうして気がついたら、すっかり陽が落ちていた。何時だろう、とスマホを見ようとしたけれど、電池が切れている。充電コードをバッグから探しだして繋げて、スマホを取り落としそうになるくらい仰天した。
「うそ……十時? こんな夜中じゃ、もうお店やってないんじゃない? そうだ、コンビニは……どこにあるんだろう、覚えてないや……」
 部屋の電気をつけて、地図を引っ張り出して広げる。ここからそう遠くないところに、コンビニが一軒あるようだ。それが大学の方向であることを確認してから、荷物からコートを出して羽織った。とりあえず、今夜と明日の朝の食べ物を確保してこなければ。お腹が空きすぎて、ちょっとくらくらする。とても明日までは耐えられそうにない。
 コートのポケットに財布を突っ込んで、まだ手に馴染まない部屋の鍵を握りしめて、玄関を出る。ドアにちゃんと鍵がかかったことを確かめて、階下へ続く階段へと視線を向けた。
 と、通路に誰かがいることに気がついた。柵に寄り掛かっているその人の手には缶。山のほうを見ながら、口をつけている。細い人だな、とわたしが思うのと、その人がこちらに気づいたのは、ほぼ同時だった。
「こんばんは。新入りさん?」
「あ、はい。はじめまして」
 きれいな声の人だった。少し掠れた、女の人の声。長い髪が、風にさらさらと靡いた。暗くてよく見えないけれど、美人のような気がした。
「はじめまして。そっか、もう二〇八号室は入ったんだ。ここは本当に、人が切れないね」
 くつくつと笑って、また缶を傾ける。おそるおそる近づいて、それがビールの缶であること、そしてその人が本当に綺麗な女の人であることがわかった。
「私、二〇三号室の相川秋華。よろしくね」
「二〇八号室に来ました、宝泉茉莉花です。よろしくお願いします」
 にっこり笑った顔につられて、わたしも名乗る。秋華さんはわたしの名前を何度か呟いてから、「良い名前」と頷いた。
「茉莉花ちゃんはどうしてここに来たの。進学?」
「はい、四月から大学生なんです」
「やっぱり若いね。いいなあ、若いって」
 秋華さんも十分若く見えますが、と返そうとしたけれど、代わりにわたしのお腹が盛大に鳴き声を発した。近所中に響いたんじゃないかというくらい大きな音で恥ずかしい。秋華さんにもクスクスと笑われてしまった。
「お腹空いたんだ。夜中だもんね」
「ええと、実はお昼から食べそこなってまして……。今からコンビニに買い出しに行こうと思っていたところです」
「ここ治安は悪くないけど、女の子の一人歩きは心配だなあ。よし、私も行こう。ちょうどビールも切れたし」
 空になった缶を振りながら、秋華さんは自分の部屋に入った。そしてすぐに、財布を持って出てくる。正直、道があやふやなのでありがたい。
 秋華さんと一緒に階段を下り、コンビニまでの道を教えてもらいながら歩いた。街灯の下で見る秋華さんはやっぱり綺麗で、思わず見惚れる。わたしもこんな大人になりたい、でも難しいだろうな、と思わされるほどの美人だ。
「茉莉花ちゃんは、礼大生?」
「そうです、礼陣大学です。……って、他に学校あるんですか、ここ」
「あるよ。北市女学院っていう、賢い女の子が通うところ。茉莉花ちゃんもそっちかと思った」
「とんでもない。わたし、第一志望も第二志望も落ちて、ここに来たんですよ。親は公立だから授業料が安く済むって喜んでましたけど」
 初対面にもかかわらず、秋華さんには何を話しても大丈夫だという気がしていた。途中、向かいからやってきた無灯火の自転車から庇ってくれさえした。「危ないなあ」と怒っても、美人は美人だった。
「……礼大、良い学校だよ。講義も面白いって、礼大生はみんな言う」
「そうなんですか。秋華さんは大学生じゃないんですか?」
「そんなのもうはるか昔に卒業したよ。私今年でもう三十五歳だもん」
 二十代かと思いました、と素直に言うと、秋華さんは「ありがとう」と笑った。そして到着したコンビニで、温かいコーヒーを一杯奢ってくれた。わたしたちは帰路でコーヒーを飲み、わたしは自分で買ったパンも齧りながら歩いた。普段ならこんな行儀の悪いことはしないのだけれど、お腹があまりにもうるさかったのだ。
 秋華さんの手には、ビール缶が三本ほど入った袋が提げられている。どれもあまり見ない銘柄だった。
「茉莉花ちゃん、アパートの印象はどう?」
 パンを口に含んでいたわたしに、秋華さんが尋ねる。印象か、初めて見たときは良かったのだけれど。
「ふぁい……、ええとですね、十分暮らしていけそうです。でも、隣の人と管理人さんが怖くて」
「隣?!」
 今までにこにこしていた秋華さんが、突然ふきだした。肩を震わせながら「隣ってあの子しかいないよねえ」と言う。秋華さんにとっては、あの大きくて怖い人も「あの子」らしい。それが少し意外だった。
「秋華さん、二〇七号室の人とお知り合いなんですか」
「アパートの人はだいたい知り合いだよ。私、あそこに来てから長いから。……でもまあ、戻ってきてから六年か。もっと長い人もいるからねえ」
 くつくつ笑いながら、気になることを言う。戻ってから六年。あのアパートを離れたことがあるのだろうか。わたしが考えているあいだに、秋華さんは話を元に戻した。
「隣の子、そんなに怖くないよ。管理人さんも優しいおじいちゃんだし」
「あ、わたしが会った管理人さんは、お孫さんのほうです。すごく真面目そうな」
「ああ、在君。たしかに真面目だね。そして迷信やおまじないを意地でも信じないタイプ」
「そう、そうなんです! わたしが縁結びのご利益のことを言ったら、呆れられてしまって」
「だろうね。一時期、そのご利益目当てにアパートの入居希望が殺到して、やっと入った人も『ご利益なんか全然なかった』って文句つけて出て行ったことがあるんだよ。それ以降慎重になってるの」
 そういうことなら、あの態度もほんの少しだけ納得できる。やはり仕事をする人としてはどうかと思うけれど、一応理由はあったのだ。
 あの子も根は良い子だから大丈夫、と秋華さんが言っているあいだに、わたしたちはアパートに到着した。静かに階段を上り、秋華さんの部屋の前で別れようとしたとき、奥の――二〇七号室のドアが開いた。私の部屋の、隣の。
「……お、秋華さんだ。またビール買いに行ったの?」
 低い声が、秋華さんに馴れ馴れしく話しかける。
「こんばんは、九鬼君。仕事が終わった後の一杯はどうしてもやめられなくてね」
 秋華さんも軽く笑って返事をした。
「一日くらい休肝日作ったら。また倒れるぜ。……で、なんで二〇八号室の新入りも一緒なの」
「コンビニ友達。昼から何も食べてなかったんだって」
「やっぱり。だから何か分けてやろうと思ったのに、逃げるんだよ、そいつ」
 大男は不満げに、いや、ちょっとがっかりしたみたいに言った。あれって、苦情を言おうとしたんじゃなかったの? 訝しむわたしに、大男はまたぬうっと近づいてくる。思わず秋華さんの後ろに隠れると、二人ともに笑われた。
「九鬼君、見た目が怖いもんね」
「うるせえ。……そんな警戒すんなよ、お隣さんだろ。仲良くしようぜ」
 秋華さんの陰から少しだけ出てきたわたしに、大男が手を伸ばす。
「俺の名前は九鬼慧だ」
 どうやら取って食おうというわけではなく、わたしと握手をしたかったようだ。こちらも名前を告げ、そっと手を伸ばすと、ぎゅっと握られて、ぶんぶんと上下に振られた。
「こら九鬼君、乱暴にしないの」
 叱りながら秋華さんが笑う。見た目は怖いけど、大男、いや、九鬼という人は、実はそれほど怖い人ではないのかもしれなかった。
 ……いや、こちらを見下ろしてにやりと笑う表情は、やっぱり怖い。




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posted by 外都ユウマ at 20:13| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする