2016年06月26日

記事整理しました

2015年の創作文章カテゴリの記事を削除しました。作品鑑賞、いきあたりばっ旅は残してあります。
四分の一くらいに減ったんじゃないかしら。ログは手元にとってあります。
2014年分の記事のログとっておくの忘れててごっそりないんだったなあ。

いつもは五月の連休あたりで整理してたんですが、今年は約二か月遅れ。やっとすっきりしました。
今年もあと半年だから、100いかないくらいの記事数になると思います。

ついでに7月のお話予定。別館に集中しようと思ってあまり載せない予定だったんですが、シリーズものじゃないストックがちょっとだけあるので、それをちまちまやろうかと思ってます。
8月は礼陣夏祭りができたらいいなあと思って、ネタ探し中です。練る段階まで行ってない。
posted by 外都ユウマ at 11:38| Comment(0) | 更新履歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月25日

文章収納しました

今月のお話をサイトのギャラリーに収納しました。
のんびりと6本。

礼陣群像劇
「夜明けまでの挨拶代わり」
海と美和の遭遇。「雨明けの縁」から夏祭りまでのあいだのお話です。
意外に混乱しなかったな。
「その日暮らしを令嬢と」
黒哉と雪のお話、これで一応一区切りです。
雪ちゃんちの事情を詳しく書いたのはこれが初めてですね。やっと設定蔵出し。
「旅の人 夏」
須藤春、一人旅をする。旅の人シリーズもこれで区切りです。たぶん。
神崎さんとこれからうまくやれるといいなあ。難しいかもしれないけれど。せめて春だけは。
「水と花」
名前の話。前からやりたかったので、海千花の二年くらい先までやってしまいました。
はじめ先生の名前の漢字も、ずっと考えていたものです。たぶん進道家の男にはみんな水が入ってる。
「清ら微笑、想い苑」
門市の歓楽街、ちょっと昔のお話。
黒哉の保護者、樋渡苑子さんについて語ることになるとは。インプットした情報の影響すごい。

からっぽ
「紺堂梧は本を読まない」
このシリーズはお久しぶりです。稲田空子、高校生。……というのも過去の話ですね。彼女は黒哉と同級生だったので。
梧が勝手な屁理屈並べたてて、空子がそれを軽くかわせるようになるまで、あともう少しです。前回より過去の話。

以上6本でした。
今月のお話はわりと好きです。明日はおやすみですが、記事整理します。
posted by 外都ユウマ at 10:51| Comment(0) | 更新履歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月19日

清ら微笑、想い苑

店の前で佇んでいる少女を見て、苑子は美しく整えた眉を顰めた。時刻は午後六時を過ぎている。子供は家に帰る時間ではなかろうか。少なくとも、これから大人のための空間となる歓楽街にいるのは、あらゆる意味で好ましくない。
「ちょいとあんた、こんなところで何してるの。店の前にいられると迷惑なんだけれど」
警察には、お客としてしか来てほしくない。苑子の店は酒を提供し、女性スタッフが客の相手をしているが、至って健全である。その状態を保っている。未成年なんかに秩序を乱されては困るのだ。
「あの、仕事させてくれませんか」
困るというのに、少女は言った。想定内だ。こういうことは、このあたりでは珍しくない。苑子も十分に気をつけている。うっかり未成年を働かせてしまったら、そうとは知らなかった、なんて言い訳は通用しない。店を取り仕切る自分が見誤れば、スタッフ全員の生活が危うくなる。だから苑子は、冷たく言い放った。これは大人としての義務なのだ。
「あんたみたいのにやらせる仕事はないよ、さっさと帰んな。うちだけじゃなく、ここいら一帯が迷惑するんだからね」
早急にこの場を離れることは、少女のためでもあるはずだ。ろくでもない大人に捕まれば、この子の人生も狂う。背伸びをしすぎた化粧に、肩幅の合っていないブラウス、手入れが雑なスカート、服には不釣り合いにぼろぼろな運動靴。ほんの少しの金さえあれば、もしかしたら金など使わなくても、こんな子供はいくらでも好きにできると考える輩は、残念なことに多い。
しかし少女は動かなかった。
「帰る場所なんかないです。お願いです、何でもします」
家出か、と苑子はわざと大きな溜息を吐いた。これも珍しいことではない。どうせ親とつまらないことで喧嘩でもしたんだろう。あるいは悪い仲間とつるんでいて、合わせる顔がないとか。どちらにせよ、苑子が面倒を見る義理はない。
「その服、親のを勝手に着てきたんだろう。靴だけは自分のかい。用意できるってことは、家があるってことじゃないの」
「ないです。あたしの家なんかどこにもない。だから仕事と住むとこ見つけなきゃ」
馬鹿なことをぬかしてんじゃないよ、と追い払うつもりだった。そうしなければならないと思っていた。だが苑子は、少女が切迫していると感じてしまった。持ち物は何もない。ブラウスが合っていないのは若すぎるからではなく、痩せすぎているからだ。手足も細く、ぼろぼろの運動靴はよく見ればサイズが大きい。厚化粧の頬もこけて、目は落ち窪んでいる。いったいこれまで、少女はどんな生活をしてきたのだろう。
「……あんた、歳はいくつなの。正直に言いな」
「に、二十……」
「正直に!」
「……ごめんなさい、十五です。今年で十六になります」
中学を出たばかりか。もしも真っ当に学校に通っていたなら、だが。厄介なものと出会ってしまったと、苑子は頭を抱えた。ひとまず警察に引き取ってもらうか、と考えたが、向こうも託児所じゃないのだ。これで解決、というわけにはいかないだろう。しかし相談くらいはしておいたほうがいい。
「おいで、世間知らず。仕事なんかね、こんなところじゃなくてもいくらでもあるんだよ。住み込みで働かせてくれるところだってある。まずは今夜をどう乗り切るか、それを話しに行くよ」
「行くってどこに」
「迷惑をかけるけど、ここから一番近いのは交番だね。あんたの身元を確かめなきゃ」
「保証してくれる人なんていません」
「それは大人が判断するよ」
少女を引っ張って、交番に連れて行く。ここの駐在はこういったトラブルには慣れているはずだ。苑子の店にもよく立ち寄っている。もっともそれは客としてではないけれど。お互い、仕事の付き合いだ。
「おう、苑子さん。店はどうした。……その子は? 煙草でも吸ってた?」
駐在は表情を変えずに尋ねた。苑子は首を横に振って、少女を屋内へ押しやった。
「仕事させてくれって来たんですよ」
「そりゃ無理だな」
「無理でしょう、十五歳だもの。とりあえず、親と連絡とってほしいんです。そういうの得意でしょう」
「ここは迷子センターじゃないんだけどね」
苦笑いをしながら、駐在は少女に椅子を勧めた。特に抵抗する様子もなく座り、名前と電話番号を書くようにという指示にもすんなりと従った。――苑子はそれを隣に座って見ていて、初めて少女の名前を知ったのだった。
「日暮清佳っていうのかい。清佳なんてきれいな名前じゃないの」
「……名前だけです」
俯く少女の目の前で、駐在が電話をかけていた。だが、誰も出ないらしい。しばらくしてから諦めて、清佳に住所も書くように言った。
「親は普段何してるんだ。仕事か」
「仕事してたら給食費だって教材費だってまともに払ってもらってました。パチンコとかで勝ったときにご機嫌をとって生活してたんですけど、もう義務教育が終わったから、面倒見る必要もないだろうって言われたんです。今も多分パチンコです。母はもしかしたら、恋人のところかも」
「まるで作り話みたいだな」
「あたし馬鹿だから、作り話なんてできません。……はい、親の住所」
ここからさほど離れていないアパートの住所が書かれた紙を、駐在は部下に渡した。とりあえず居留守を使っていないかだけ確認してこい、と命じられた部下が出ていくのを見送りながら、駐在は苑子に向き直る。
「苑子さん、あんたそろそろ店開けないといけないんじゃないかい。この子が心配ならあとで連絡するよ」
「ああ、そうでした。お店の子にも悪いことしちゃった。それじゃ、よろしくお願いしますね」
立ち上がって深く礼をした苑子に、清佳が「あの」と声をかけた。ちょっと顔をあげたところへ、今度は清佳のほうが頭を下げる。
「ありがとうございました」
「……礼を言われるようなことはしてないよ」
ただ、面倒事に巻き込まれたくなかっただけだ。そう言いきりたかったのだが、それでは清佳にずっとついていたことの説明ができない。自分が納得のいかないことは言わない苑子だった。

いつものように客を迎え、話し相手をしながら酒とつまみを用意しているあいだにも、苑子の頭から清佳のことが離れることはなかった。情けなんかかけていないと思っていたつもりだし、実際警察に押し付けてきただけなのだが。
電話が鳴ると、すぐに飛んでいった。警察からではないとわかると、気分が少し落ち込んだ。普通は逆だ。面倒には関わらないに越したことはない。
「ママ、今日はどうしたの。なんだか落ち着かないよ」
「ごめんなさいね。せっかく来てくださってるのに、なんだかそわそわしちゃって。年かしら」
「やだな、ママまだ全然若いじゃないの。……でさ、話の続きだけど。その弁当屋がさ、もうちょっと人手が欲しいっていうんだよね。仕込みから閉めた後の片付けまで手伝ってくれる人、知らないかな。ママなら顔広いでしょ」
常連客の親戚が、この近くで弁当屋を始めたという話だった。早朝から夜遅くまで営業している、幅広い客層を狙った店だとか。あまり欲張るのもどうかと苑子は思っていたのだが、意外に繁盛しているらしい。味も確かだと、他の客からも聞いている。
「でもねえ、そんなに長い時間……」
「だからさ、住み込みで働ける人いない? 部屋はあるし飯も食わせるって」
苑子はこの客が言うほど顔が広いわけではない。いつもなら「良い人見つかるといいわね」で済ませるところだ。だが今に限っては、この客は本物の神なのではないかとまで思った。食べ物と住むところが保証され、働くこともできる。そんな話が、このタイミングで、あっていいのだろうか。
「その親戚の方、良い人なんでしょうね。従業員を大事にしてくれるかしら」
「僕からすれば良い人だと思うけど。人手に心当たりあるの?」
駐在からの連絡次第だ。しかし、あんまり報告が遅すぎやしないか。清佳が無事に家に帰ったなら、そのことだけでも教えてくれればいいのに。もどかしく思っていると、また奥の電話が鳴った。
「ちょっとごめんなさい。ユウちゃん、こっちお願いね」
走り寄って受話器をとると、「苑子さんいるかい」と低い声がした。夕方に聞いたそれよりも疲れているが、たしかに駐在だった。
「私です。……どうなりました? 親とは連絡ついたんですか?」
「なんとか捕まったんだけどね。清佳という子は、今日は仕方ないから俺の家で預かることになったよ」
「まあ……なんでまた」
清佳が書いた住所には、たしかに日暮という一家が住んでいた。だが夕方には留守で、すっかり暗くなってから、ようやく父親らしい人物が帰ってきた。それまでに近所で聞き込みをしていて、家庭のことはいくらかわかっていた。
日暮家は両親と一人娘の三人家族だ。だが、父親も母親も、あまり家に帰ってこないという。中学生の娘だけが、毎日家を出入りしていた。父親はギャンブルに、母親はよそでつくった恋人に入れ込んでいるというのは、同じアパートの中では有名な話だった。娘の中学校の制服は、他の住民が三年前に自分の娘のお古をあげたのだという。以来、それ以外の服を着ているのを見たことがないそうだ。
部屋に入ろうとした父親に声をかけ、清佳のことを話すと、「知らん、そっちでなんとかしてくれ」と言われた。どういう意味かしつこく尋ねると、罵声と拳が降ってきた。先ほどまでその処理にかかっていたために連絡が遅れてしまったと、駐在は謝った。
結論として、清佳の親は、もう娘の面倒を見ないつもりらしい。中学校まで通わせてやったのだからもうこれ以上世話をする必要はないはずだ、それは娘にも言ってある。父親はそう主張した。母親も同じ考えであるとも。
「あの子……清佳ちゃんの言うことは、全部本当だったんですね」
「父親の言い分しか聞いてないが、まあほぼあの通りなんだろう。それで苑子さんとこに、年齢をごまかして入り込もうとしたってわけだ」
「全然ごまかせてませんでしたけどね。では、今夜だけ清佳ちゃんをお願いします。私が明日、迎えに行きますわ」
電話の向こうで、驚いたような呆れたような声がした。苑子自身も同じ気持ちだった。一度会っただけの少女に、どうしてここまで思い入れるのか。
「迎えにってあんた、十五の子供を苑子さんの店では働かせられないよ」
「もちろんです。ちょうど若い子でもできそうな、住み込みの仕事の話が入ったんですよ。話がちゃんとまとまるまでは私の自宅に置こうと思いますけど、絶対に店には出しませんから見逃してください」
でも手間が、防犯上も、と続ける駐在を、苑子は「大丈夫です」の一言で黙らせた。なぜかあの子は、清佳は大丈夫だと、確信があった。世間知らずだが、悪いことをするような子には思えない。年齢詐称の件は、とりあえずおいておくことにした。
受話器を置いてからすぐに、客に清佳の話をした。といっても、中学を卒業したばかりの女の子でも弁当屋に住みこんで手伝うことは可能か、と確認しただけだ。客は弁当屋に話をすると約束してくれた。

苑子が翌日の昼に交番を訪ねると、男物らしいトレーナーと裾をまくりあげたジーンズという恰好の清佳がいた。駐在の、今はもうすっかり大人になってしまった息子の、お古だという。男の子しかいなかった駐在の家で、清佳は可愛がられたようだった。
「かなり遠慮して、昨夜も今朝もちょっとしか食ってないけどな」
「じゃあ、お昼はまだなんですね。清佳ちゃん、私と一緒にご飯を食べに行こうか。そして、これからのことをお話しなきゃね」
微笑んだ苑子に、清佳は小さく頷いた。できそうな仕事が見つかったということは、事前に駐在が話しておいてくれたはずだ。ここに来るまでに、心は決めておいてくれただろうか。
清佳の細い手を引いて、苑子は交番を出た。そうして歓楽街から離れた、昼間の商店街へと向かった。清佳は大人しくついてきて、けれども店に入ると、珍しいものを見るようにあたりをきょろきょろした。
「喫茶店は初めてかい。このあいだまで、中学生だったんだものね」
「……はい。一生縁がないものと思っていました」
「そんな大げさな」
言ってはみたものの、清佳にとっては本気だったのだろうと、苑子はわかっていた。親の顔色を窺いながら暮らし、義務教育が終われば追いだされる。普段から生活は苦しいものだったろう。一日一日をなんとか生き延びて、見知らぬ苑子に縋ったのだ。
「どうして清佳ちゃんは、うちの店に来たの? 昼間の仕事を探そうとは思わなかったの?」
席についてメニューを広げ、清佳に渡す。ランチプレートの写真をしげしげと眺めながら、清佳はぽつりと言った。
「焦っていたので。あの晩、あのままじゃ外で寝るしかありませんでした。……それに、お店の準備をしているあなたを何度か見たことがあったので。あの通りでお店を開いている人の中で、一番若そうで、優しそうだと思いました」
「若い方ではあるかもしれないけれど、優しいかどうかはわからないよ」
「優しいですよ。あたしに仕事まで見つけてくださって」
ただのきまぐれだ、というには、もう清佳に関わりすぎていた。ランチプレートのAを二つ注文して、弁当屋の話をする。朝のうちに弁当屋からは連絡をもらっていて、そういう事情のある子ならぜひとも、と快い返事を聞くことができた。ひとまず今日は面接をして、これから住む部屋に慣れてもらい、明日の朝から働いてほしいということだった。用意されていたようにとんとん拍子に話が進んだ。
「ありがとうございます。……ええと、苑子さん?」
「あらやだ、私、ちゃんと名乗ってなかった。樋渡苑子っていうのよ」
これが縁というものなのかもしれない。苑子はあまり神仏を信じたり縋ったりする性質ではないが、今回ばかりはそんなものの働きかけもあったんじゃないかと思った。

清佳がその後、弁当屋でよく働いているという話は、店や街中で耳にしていた。一年もすれば看板娘のような扱いになっていて、二年もすれば今度は人に仕事を教えるようになっていた。その成長を直接見届けていたわけではないけれど、苑子はいつでも気にしていた。
そのあいだ、苑子の店もより盛況になっていった。人員も増え、四年経った頃には、店は随分と大きくなっていた。
ある日、午後六時を過ぎた頃。店を開けようと、早めに来ていたスタッフとともに外に出た苑子は、その場でぴたりと足を止めた。
「どうしたの、ママ?」
最近新しく入ったばかりのコトミが首を傾げる。彼女――生物学的にはまだ「彼」だが――にここで待つように告げて、苑子は店の前に佇む人物に、そっと近づいた。
「ちょいとあんた、こんなところで何してるの」
いつかと同じように、いや、かなり柔らかい口調で尋ねると、彼女はこちらを向いて笑った。四年前よりも、随分と大人びたようだった。化粧も上手になったし、綺麗で体に合った服も着ている。
「お久しぶりです、苑子さん」
清佳は丁寧に頭を下げた。
「店はまだ開いてないよ。そもそも、あんたはまだ未成年じゃないのかい」
「先日、二十歳になりました。もう年齢は大人です」
にっこりと、しかしはっきりと、清佳はいつかの言葉を繰り返した。
「仕事、させてくれませんか」
苑子は目を丸くして、それから息を吐きながら細めた。
「弁当屋はどうしたんだい」
「お弁当屋さんも続けます。夜はここで働きたいんです」
「二足の草鞋かい? そう甘いもんじゃないよ。ここで働いたら、早朝の仕込みはどうなるんだい」
「平気です。あたし、苑子さんに恩返しするために鍛えたんですよ」
「恩を売った覚えはないよ」
そう言いながら、苑子はわかっていた。この子は引かない。この店で仕事をすることを、ずっと考えてきたのだろう。だからこんなにきれいになった。本当に、目を瞠る美人になっていた。
「お願いします。あたしを、この店で雇ってください」
もう一度頭を下げた清佳に、苑子は負けた。いや、苑子も清佳が欲しかった。四年前から、この子を自分のところに置いてあげられたらと思っていた。
「私は優しくないよ」
「はい」
「じゃあ、早速、店を開けるのを手伝ってもらおうか」
「はい、ママ!」
やりとりを聞いていたコトミが駆け寄ってきて、苑子と清佳に抱きついた。苑子と清佳も抱き合った。
その日から、清佳は苑子の店の一員となったのだった。


――あのとき清佳を拒んでいれば、彼女は死なずに済んだだろうか。苑子は何度も自問を繰り返したが、答えはなかなか出なかった。
店で働き始めた清佳は誰もに愛され、それゆえに余計な者まで惹きつけてしまった。夜の店で働くにはあまりに純粋だった清佳は、最悪の男に見止められ、蹂躙され、挙句の果てに殺された。命を奪われることを予感していたのか、地道に貯めた財産と、あの男とのあいだにできた子供のことを、苑子に託していた。子供のことは、自分がそうされなかった代わりのように愛していた清佳だった。
あのとき清佳を拒んでいれば、子供は生まれなかったかもしれないのだ。
「永代供養にしようかと思って。オレが生きてるあいだは、もちろん墓参りに来ますけど。それ以降はわからないので」
清佳が自分で店を持つことを決め、しかし僅かな期間しか実現することなく終の棲家となってしまったこの礼陣の土地の、山に近い霊園。そこを管理する寺に、苑子は黒哉――清佳の息子とともに訪れていた。
「もっと早く相談してくれれば、私たちが手伝ったのに」
「ありがとうございます。でも、礼陣で供養するって、なかなか言い出せなくて。樋渡さんたちがずっと母さんを見てくれていたのに、引き離すみたいで」
そんなことを思って、遺骨を七年も手元に置いていたのか。苑子は呆れて息を吐き、黒哉の背中を叩いた。赤ん坊の頃から見てきたが、随分と大きくなった。
「離れないよ、私たちの絆は固いんだから。黒哉君と清佳ちゃんの絆と同じくらいだと思ってる」
「母さんは娘も同然だって言ってましたよね、昔から」
「そう、昔からよ」
母子のように喧嘩をしたこともあった。でも清佳が子供を身籠って男と別れ、苑子に泣きついてきたときは、抱きしめて受け入れた。生まれた子供を店のみんなで可愛がり、清佳が母親になるのを手伝った。清佳は立派に黒哉を育て上げ、自分はなれなかった高校生になったのを見届けた。
もっと生きていれば、教師になった息子も見られたのにね。苑子は心の中で、清佳に語りかける。
――ううん、清佳ちゃんのことだから、見てるわね。黒哉君も、私たちも。
これからは黒哉と一緒に生きようと思ったこの町の、眺めの良い場所で。
「黒哉君、清佳ちゃんがお店にしようとしたところ、今は別の人がいるのよね」
「結構前から、良い感じのカフェになってます。夜はバーに。これから行きますか」
「行きましょう。奢るわ。結婚祝いも兼ねてね」
その場でくるりとまわってみせると、黒哉が清佳に似た顔ではにかんだ。



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posted by 外都ユウマ at 13:30| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月18日

水と花

水と花は惹かれすぎるから、気をつけなくてはいけないよ。
かれてしまえばおしまいだ。

* * *

名付けたのは祖父だ。この町を流れる川、遠川の景色や音が何より好きで、それにちなんだ名を孫に与えた。
川の流れから「流」。河川敷の並木から「桜」。年子の兄妹の名は、けれども父や母が一度は躊躇ったものだった。
生まれる前から「流」だなんて、あんまり縁起が良くないですよ。そう言って眉を顰めながら腹を撫でていた母は、しかし息子が無事に産まれると、縁起のことなど忘れたように、命名を受け入れた。
水と花を兄妹で一緒にするのは良くないと聞いたことがある。息子が生まれた翌年の春に娘が生まれたとき、父はそうして祖父の主張する「桜」という名に異議を唱えた。だが結局、実際に見に行った遠川河川敷の、満開になった桜に絆されて、それも受け入れた。
野下家の兄妹、流と桜に名前が与えられたのは、そういう経緯があった。
小学生になった流が、課題で「名前の由来を調べてきなさい」といわれてその話を聞いたときには、納得がいかなかった。
「じいちゃんが川好きなのは知ってるよ。しょっちゅう散歩に出てるし。でもなんで父さんの名前が龍雄なんて強そうな名前なのに、俺は流なんて単純な名前なのかな。父さんにも川関係の名前つければよかったじゃん、川太郎とか」
口をとがらせる親友に、和人は思わずふきだした。同時に横にいた人鬼の少女が大笑いしていたのだが、流には見えていない。
「何だよ、川太郎にそんなにウケたのか」
「そっちじゃないよ。たしかにそれも面白かったけどね。僕は流って名前、かっこいいと思うなあ。響きがきれいだし」
微笑んで褒める和人に、流は一瞬「それならいいや」と思いかけた。だが、やはり父の名を考えると、再び悔しさが湧いてくる。
「でも龍雄のほうがどう考えたってかっこいいじゃん。ドラゴンだぞ」
「ドラゴンねえ……。僕が思うに、おじいさんはそっちの意味でおじさんを名付けたわけじゃなさそうだけどな」
首を傾げる流に、和人は机の中から本を出して開き、見せた。ちょうどよかった、と指さしたのは、挿絵のずんぐりしたドラゴンだ。西洋を舞台にした物語や、ゲームのモンスターなどでおなじみの、恰幅の良い胴体に太くて短い手足がついているもの。
「これがドラゴン」
「それは知ってるよ」
「でも伝説の生物である龍は、また別のかたちがあるよね。東洋の物語に出てくる、大きな蛇のようなやつ。中国や日本の伝説では、そっちが主流じゃない?」
「ああ、そういえば」
そんなやつもあったな、と思ったけれど、それと名前と何の関係があるのだろう。龍は龍だと思うのだが。しかし和人は楽しそうに人差し指を振りながら続けた。
「たぶん、おじいさんが意図しているのは東洋の龍だよ。ゲームではずんぐりしたドラゴンは火を吐いたりするけど、長い体の龍は水を操ったりするよね。東洋の龍はつまり流れるもの、水を表したものなんだよ。河川と東洋の龍の体は似ていると思わない?」
「まあ、似てなくはない……のかな」
「昔の人はそう思ったんだよ。だから何が言いたいかっていうと、おじさんと流の名前は、おじいさんが同じ意図で付けたものだと、僕は思うんだけど。音の響きは流も龍も一緒だしね。どうかな」
振っていた指で流をさす和人は楽しそうで、名前の不満なんか忘れさせてくれるようだった。それどころか流の名前を、祖父の考えを、実に肯定的にとらえている。もしかして祖父から教わったことがあるのかと尋ねたが、ただの予想だよと返ってきた。
「予想でそこまで言えるなんて、和人はやっぱりすごいな。本当にじいちゃんが喋ってるのかと思った」
「とんでもない。僕、あんなに立派な人じゃないよ」
手を顔の前で振りながらも、和人は嬉しそうだった。嬉しいついでに、もう一つ教えてくれた。
「それから桜ちゃんの名前だけど、桜の花って日本人はすごく好きなんだよね。咲いても散っても美しい。それにこの国の四季の始まりは春、桜の季節だよね。だからそれだけ愛される名前なんじゃないかな」
「それ聞いたら、桜がどんなに喜ぶか」
冗談ではなく、心から喜ぶだろうと思う。名前の由来の話をまとめているときに、桜が部屋に入ってきて、言ったのだ。――水と花は兄妹でつけると良くないって聞いたけど。
桜の通う学校は頭が良いから、そんな話を誰かから聞いたのだろう。でもどうして良くないのかまでは、彼女も知らなかった。知らないままに、良くないとだけ聞かされたのだ。気分が良いわけがない。
「なあ、和人。どうして水と花の名前を、兄妹で一緒にすると良くないんだろうな」
「良くない? そんなの誰が言ったの?」
「桜が聞いてきた」
「ああ、じゃあ、どこかで話がおかしくなってるのかも。良くないわけじゃないんだよ。惹かれすぎるって僕は聞いた」
「ひかれる?」
和人は自分の家が店をやっていて、そこで色々な話を大人たちから聞かされている。このことも町の伝承の一つとして知っていたのだった。
教えてくれたことによると、この関係はあらゆるきょうだいにおいていえることらしい。そして流と桜とは逆に、男の子が花で女の子が水の名前を持っていても、同じようだ。
水か涸れれば花が枯れる。花が枯れれば、水のせいではと思う。この二つはあまりに密接な関係があるので、きょうだいに名付けると依存しすぎてしまうのではといわれている。それが本当の伝承だった。
「まあ、そんなのはただのこじつけだよ。気にしなくてもいいって、桜ちゃんにも言えばいい」
「そうだよな、ただのこじつけだよな」
流は笑い飛ばして、それから名前の由来の発表の仕方を考え直した。和人の想像を参考にしようと思ったのだ。どうせあがり症なのだから、勢いで言ってしまう。
その真後ろの席で、和人は自分以外の誰にも見えない人鬼の少女と話していた。
『水と花の話、気をつけろって話じゃなかったっけ。名前に限らず、親兄弟に依存しすぎるなっていう』
「あ、そうだったかも。僕も気をつけないと」
『そうよ。流以外の人間の友達をつくりなさいよ』
双子は密かに笑いあった。

* * *

とある夜、美和は葵の部屋を物色し始めた。もちろん葵の許可は得ている。――この部屋は呪い鬼葵を封じる部屋であると同時に、生前の葵が使っていた部屋でもある。その頃のものが、箪笥の中にでも残っているのではないかと、思いついたのは美和だった。
すでに鬼と成り、ものに触れるようにもなっていた美和は、あらゆるものに触れたがった。触れると、ときどき、物が持っている記憶のようなものが見えることがある。これも鬼の力らしい。正確には、鬼に成った美和独自の能力なのだが、そのことは知らない。
『ちょっと、あんまりがたがたしないでよね。家主が起きてきたら面倒だから』
気だるげな葵を尻目に、美和はぺたぺたとあちこちを触りまくっている。そうして箪笥の引き出しを開けたとき、白いものが目に飛び込んできた。
『なにこれ、封筒? 葵さん、これ手紙じゃないの? 葵へって書いてあるよ』
美和がつまみあげてひらひらと振ったそれを、葵は一瞥した。が、『捨ててしまいなさい』と顔を背けてしまう。中身を、彼女は知っているのだろうか。いや、封が切られた様子はない。口はぴったりと閉じられていた。
『いいの? 一度は読んでおいたほうが良いんじゃない? 生前読めなかったものでしょう、これ』
『読まなかったのよ。これからも読むつもりはないわ』
このかたくなな態度は、家族絡みだろう。鬼は手紙を書かない。美和はときどき、いたずらで紙とペンを使うけれど。試験の問題用紙を盗んできてくださいなどという、学生の不届きな願いに対して、「勉強しなさい」と書いて家に置いておくのだ。美和鬼様のお叱りとして有名になっている。
それはさておき、家族からの手紙なら、捨てるのはちょっともったいない気がする。葵は母以外の家族を信じられないまま呪い鬼になり、家を呪うことになったが、もしかするとそれを少しは解くことができるかもしれないのだ。
しかし、封筒にあったもう一つの名前、おそらく差出人のものであろうそれに、美和は覚えがなかった。
『葵さん、ゲンって誰? さんずいに原っぱの』
源。封筒の裏の隅には丁寧な字で、そうあった。
葵は鼻で嗤って、『違うわよ』と返す。
『ゲンなんてのは知らないわ。その字はね、ハジメって読むの』
『ハジメ……。え、これ、はじめ先生?!』
そういえば筆跡に見覚えがある。源と書いて、はじめと読むのだ。意味がわかればすんなりと頭に入る。
ということは、これは家主であるはじめ、つまり葵の兄から、妹へ向けて送ったものなのだ。いつ書いたのかはわからないが。ずっと引き出しの中にあったせいか、色あせてもいなかった。
『葵さん、読んだ方がいいよ。お兄さんからの手紙ですよ』
『私、あれを兄だと思ってないの。私の味方をしてくれない、この町の人間の一人よ』
『その認識が覆るかもしれないじゃない』
『そうなるのも癪だわ。どうしても気になるなら、あなたが勝手に読みなさいな』
そう言われても、人の手紙を読むのは憚られる。だが、もしかすると葵の冷えた心に少しでも温かみを与えることができるかもしれない。これまで葵は家族を拒んできていて、だからこそ相手の本心がわからなかったのではないかと、美和は思っている。
悩んだ末に、美和は自分の爪を鋭く伸ばして、封筒にあてた。
『読んじゃいますよ。音読しちゃいますよ』
『勝手にすれば』
許可は下りた。美和は封を切り、中に一枚だけ入っていた便箋を取り出した。

葵へ
君はもうすぐ高校を卒業するけれど、進路の相談を、とうとう僕と父さんにはしてくれなかったね。
先生から、町を出て就職するつもりだと聞きました。
ちゃんと自分の道を決めているなら、僕らは君に口出ししません。町を出ることも止めません。でも、少しは話をしてほしかったです。
僕が自分勝手なことを言っていると、わかっています。今まで君の話を、一度だってまともに聞いたことはありませんでした。それなのに話せだなんて、ずるいよね。
君は学校でとても大人しいと、先生から聞きました。ずっと一人で本を読んでいて、行事や団体行動にあまり積極的ではないとも。先生は心配していましたが、僕には心配をする資格すらありません。君が孤独を選んだのは、僕らの責任です。僕らがいけなかったのです。
昔、母さんが死んでしまったとき、もっと君の叫びに耳を傾けるべきだった。君が悲しんでいることを、もっとわかってあげるべきだった。僕らはあまりに諦めが早すぎたんだと、今になって思います。
そして、僕が君を省みずに、友人たちとの日々を優先させてしまったこともいけなかった。智貴は何度か葵に会いに来ようとしてくれたのだけれど、僕が止めてしまったんだ。君が人と会いたがらないと、勝手に決めつけてしまった。
本当はそうじゃなかったかもしれないのに、いつだって僕は君の気持ちを決めつけて、わかった気でいた。それしか兄としてできることはないと思い込んでいた。でも、きっと違うね。
この手紙を読んで、君がもし僕と話そうと思ってくれたら、いつでもいいから声をかけてほしい。本当は同じ食卓で一緒にご飯を食べたいところだけど、それはわがままかな。
待ってます。


最後まで読み終えて、美和は葵が封を開けなかった理由をなんとなく察した。
読まずとも、何が書いてあるかはわかったのだ。そしてそれが今更無意味であると判断した。
その結果、はじめの願いは叶わなかった。呪い鬼になった葵を、大人になってしまったはじめは見ることができない。気配はわかるようだが、その姿を見止めることは、きっと永遠に不可能だ。
『葵さん、はじめ先生は何もしようとしなかったわけじゃなかったんだね。ちょっと、臆病だったかもしれないけれど』
美和が便箋に目を落としたまま言うと、葵は溜息交じりに呟いた。
『水が合わなかったのよ、どうしようもないわ。たとえ無理やり部屋に乗り込んできていても、結末は一緒だった』
『……水、か』
はじめは源。名前に水を持っている。しかし花の名前を持つ葵とは、合わなかったのだ。幼い頃に、二人の道は違ってしまった。
そういう兄妹もあるのだ。そしてそこに美和が介入することはできない。水源の先と花の咲く場所は交わらなかったのだということを、受け入れるしかない。

* * *

何の偶然だろう、と千花は今でも思う。自分が生きてここにいることも、たまたま惹かれた相手が実の兄であったことも、その兄が水の名前であることも。別々の家で知らないままに名付けられたのだから、水と花になったことは偶然だ。
鬼の子同士は引き合うという。水と花も惹かれるという。こうなることは実は最初から誰かが決めていたのではないかと、物語みたいなことも考えた。運命という言葉も思い浮かべてみた。
けれども、しっくりこなかった。いつのまにかこうなっていた、というどこか投げやりな表現が、一番落ち着いた。
「千花、って名前じゃなかったら、海さんと出会ってなかったと思います?」
「いいや、関係ないんじゃない。千花が礼陣で生きることになった時点で、少しも会わないってことはないだろうし」
海は食器を洗いながら、千花はそれを拭いて片付けながら、なんとなしに会話をする。この生活にもそろそろ慣れた。千花が一年間進道家に下宿をしながら門市のラジオ局に勤め、翌年からは海が帰ってきて、町の調剤薬局での仕事と道場での指導をするようになった。
海の父、はじめと三人で暮らす家は、穏やかな日々を送っている。知人や道場に通う子供たちが頻繁に出入りしていて、寂しくない日がない。
「しかし、なんで名前?」
「聞いたことないですか? 水と花は惹かれすぎるから、気をつけなくてはいけないよ。……かれてしまえばおしまいだって」
「あー……。そんな古い言葉も、仕事に必要なのか」
「仕事というか、まあ、受け取ったメールの中にあったんですよ。子供に名前をつけるのに、水と花は避けたほうが良いみたいなことが。調べてみたら、さっき言った以外にもいろんな説があるみたいですね。花の名前は儚いから短命になる、水の名前は水難に遭いやすい。名前にまつわる注意にはきりがないです」
だからあてにならないですね。言いきってピカピカの皿を重ねてから、茶碗の泡を流す海を見た。なにごとか考えている。それから「水難には」と口にした。
「大きなものにはあったことがないな。昔は川で遊んだけど、流れが緩やかで浅い場所しかいかなかったし。泳ぎは得意だった。せいぜいが道場のみんなで風呂に入ったときに、ふざけて足を引っ張られて溺れかけたくらい」
「水難……に入るんでしょうか、それ」
今のところ、水も花も不幸なことにはなっていない。知っている花は、一度死んでもよみがえって町を呪うくらいしたたかだった。――そう、花は、したたかなものだ。
「私はあなたという水辺の傍で生き続ける所存ですので、ご心配なく」
にこ、と千花が笑ってみせると、海は一瞬だけ目を丸くして、
「名前の通り、そう簡単には干上がらないから、そっちも安心していいよ」
に、と笑みを返した。



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2016年06月12日

旅の人 夏

丘陵に広がる霊園の、いくつもある桜の木の一つに近いその墓石に、週末にはいつもそうしているように向かう。先祖代々守ってきた墓、というには新しいそれは、祖父の代に造りなおしたものだった。子供の頃はこんな場所に毎週通う父の気持ちがわからなかったが、今はたぶん、それ以上の思いをもってここに足を運んでいる。
退職してから久しい。ずっと仕事で忙しくしていたおかげで、自分の趣味というものを考える時間がなかった。いや、考えないようにしていた。仕事以外のことに目を向けようとすると、途端に、娘のことが思い出されてしまう。だが仕事がなくなると、今度は娘のことのほかに、思い出せることがなくなった。
墓に通うのは、娘に会いに来ている、というわけではない。なにしろ娘はそこにはいない。十八年も前に海に消えてしまったのだから、この世のどこにも娘は「ない」。だがその名前といなくなってしまった日だけは、先祖とともに墓石にあるのだった。
同じ名前のある墓石が、この世にもう一つあるのは知っている。しかしそこには行ったことがない。そこにも娘は「ない」し、何よりそこにも娘がいるということ、そこがかつて娘がいた場所だということを、認めたくなかった。――あんなことになるなら、無理やりにでも実家に連れ帰るべきだったと、今でも後悔している。
喧嘩別れのようになってしまって、そのままだった。突然の事故だった。こちらがどれほど苦しんだか、娘が選んだあの家の者にはわかるまい。どうして選ばせてしまったのだろう。
どれだけ考えども、全ては今更。娘はもう二度と帰っては来ない。いつも結局、そこに行きつく。だが。
「……あれは」
思わず声が出た。毎週通っている墓石の前に、長い髪の女性が佇んでいた。年の頃はまだ若い、と思う。なにしろ身長が小さいようなので、判別が難しい。もう少し近くに寄り、表情が見えて、ハッとした。
背格好が娘に似ている、と思ったら、彼女はまるで娘そのものではないか。
「千秋」
呼びかけると、彼女は振り向いた。そうして、娘の笑顔で、深く頭を下げた。


礼陣から大城市まで行き、そこからさらに特急に乗り、県境の田舎町に入る。降り立った駅は鄙びているというほどでもなかったが、自動改札はなかった。全部合わせても片手で足りるほどしかいないらしい駅員に切符を渡して、狭い駅構内を抜けると、セミの大合唱がわっと響く。音から来る暑さを和らげてくれるのは、木々を通る風。それはこの国なら探せば意外に多い風景なのかもしれないけれど、春はまず、少し礼陣に似ている、と思った。
母も遠い日、初めて礼陣に来た日に、思ったのだろうか。故郷に似ている、と。
そう、ここは春の母の故郷だ。高校からは礼陣の北市女学院に入り、寮で生活していたので、中学三年生までの日々をここで送ったことになる。父と結婚するときに実家と揉めたらしく、それ以降はほとんど帰っていないはずだった。
そう思うと、母の実家、神崎家とは、円満だったためしがない。それなのにここに来ていいのか、直前まで迷ったけれど、気持ちに反して、路線を調べて切符を買い列車に乗りこむ、という流れは実にスムーズだった。
生まれて初めて来る土地だ。印刷してきた地図を見ても、いまいちピンとこない。とりあえずは泊まる予定の宿に荷物を預け、それから霊園に向かおう。母の実家には連絡をしていないので、今回は行けないだろう。突然孫が、それも十八年も会っていない人間が訪れたら、驚かれるだろうし、最悪怒らせてしまう可能性もある。春の中では、母の両親は「怖い人」という認識があった。
彼らとは四歳のとき、両親が飛行機事故で命を落とした直後に会ったのが最後だ。娘がこんなことになったのはあなたたちのせいだ、と祖父母を怒鳴りつけていた。それからどうしたのだったか、春ははっきりとは憶えていない。自分の行動すらも思い出せない。
今回の旅は、最初はその記憶を更新するために計画したものだった。ちゃんと母の両親に会おうと、会って話そうと、そう思ったのだが、連絡をする勇気が出なかった。ならば出かけてみるだけでも、一度も見たことのない母の故郷を見るだけでもと思い直して、今日はここに来た。
霊園に行くのは、母の先祖に挨拶をするためだ。礼陣の穣山霊園にある、須藤家の墓に参るのと同じ。それが達成できれば、今回は十分だろうと、そう思っていた。
宿はとても小さな旅館で、しかし部屋はきれいだった。畳敷きの床は、普段から和室で生活している春に馴染む。窓からは小川が見え、水の流れる心地よい音が耳に優しい。調べたところによると、ここは隠れた温泉地だということで、この旅館にも露天風呂があるらしい。それを楽しむだけでも、ここに来る価値はある。全てをちゃんと片付けたら、友達みんなで、あるいは新と二人で来るのもいいかもしれない。
ともかく今日のところは、まず霊園に行かなければならない。旅館の従業員に道を尋ねると、ここからそう離れていないという。おかげで肝試しにくる学生がこの時期には増えるのだと、困ったおまけもついてきた。
「まあ、でもあんたなら、こんな時間に肝試しもないだろうし。間違ってたら悪いけど、神崎さんの親戚か何かかい?」
道を教えてもらった礼を言おうとしたら、先にその名前を出された。
「神崎さん、ご存知なんですか?」
「おんなじ集落の人間だもの。連絡しておこうか」
「あ、いえ、連絡はしないでください。私がここに来たことも、できれば内密に……」
「そうかい。まあ、誰にでも事情はあるわな」
納得してくれたようで助かった。あらためて礼を言い、旅館を出る。セミの声の中に、「神崎」という響きが混じっている。どこから聞こえてくるというわけでもなく、耳に張り付いてしまったようだった。
神崎。それが母の旧姓だ。ここで生活をしていた頃の母の名は、神崎千秋といった。すぐに名前を出されたということは、礼陣でもよく言われることだけれど、やはり春は母に似ているのだろうか。とうに、母がこの土地を離れた年齢は越えている。生きていれば、じきに母が死んだ年齢になる。母が止まってしまった地点を過ぎて生きていくのだろうか、などと考えているうちに、墓石の並ぶ丘陵が見えてきた。近くに寺があるが、そこで尋ねれば、神崎家の墓はわかるだろうか。

その人が現れたのは、春がやっと墓に辿り着いた、まさにそのときだった。反対方向から来たので会わなかったのだろう。
「千秋」
こちらをそう呼んだことと、かすかに憶えていてどこか母に似ているその面差しで、彼が母の父、神崎氏であることがわかった。深く礼をして、顔をあげたが、会ったときのことを考えていなかったので、何を言えばいいのかわからない。
迷っているあいだに、神崎氏は近づいてきた。そうして春をじっと見て、首を横に振った。
「……いや、千秋のはずがないな。もしや君は、礼陣の?」
礼陣、と口にしたときに、神崎氏はわずかに苦い顔をした。この人の心には、まだしこりが残り続けているのだろう。だから一瞬躊躇ったのだが。
「……はい。ご無沙汰しておりました、春です」
「そうか、大きくなって。十八年も経ったのだから、……そうだな、似るはずだ」
神崎氏は困ったように笑みを浮かべた。その困惑に様々なものが含まれているのがわかってしまう。
「ここには、一人で?」
「はい、私一人です。家の者にも、ここに来ることは言っていません」
「黙って来るなんて、もし何かあったら……」
十八年ぶりに会った孫を、この人は心配してくれているようだった。無理もない、いつのまにか娘を失っていたその人なのだから、同じくらいの年頃の娘を気にかけるのは当然だった。
「宿から連絡します。ええと、別に祖父と何かあったというわけではないですし、友人にはこちらを訪ねるという話をしているので、大丈夫です」
言ってしまってから、これでは当てつけになってしまうだろうか、と思った。目の前のこの人も、春にとっては祖父なのだ。ただ、長いこと会っていなかったというだけで。
「わざわざ墓参りに?」
しかし神崎氏は表情を変えずに尋ねた。
「母の故郷を見たいと思いまして。ここには、母のご先祖様に挨拶をしに」
「先祖? ……千秋の墓参りじゃないのか。それとも、知らなかったかな」
何を、と訊き返す前に、神崎氏が指さした場所を見た。ここに眠る人々の名前が連なったそこに、覚えのある年月日と、千秋、という名があった。須藤家の墓と同じに。
「事故が事故だったから、名前だけ刻んである。礼陣の墓にもあるのは知っているよ。君はそれしか教えられていなかったんだね」
「……はい、すみませんでした」
須藤家の墓もそうだ。両親は名前だけがそこにある。彼らが死んだということは、春にはわかってしまっているけれど、厳密には行方不明者だ。あの事故は、全員の遺体が見つかったわけではない。だが生存者も見つからなかったので、諦められるのは早かった。春はちゃんと憶えているわけではないが、そう聞いている。
「では、あらためてお願いします。母のお墓参りをさせてくれませんか」
「していってほしい。知らなかったなら、なおさらだ」
春は神崎氏と一緒に墓石を清め、花と線香をあげ、手を合わせた。母は、ここにもいるのだ。神崎家が、母をこの場所に帰したかったのかもしれない。

神崎氏は春を家に招いた。十八年ぶりに会ったのだから、もっと話を聞かせてほしいという。礼陣の話を聞くのはつらいのではと春は思ったのだが、彼が聞きたいのは春のことであって、町のことではない。元気にやっていましたと、それさえ伝わればいいのだ。そこに彼らが、母の面影を見出すことができれば。
神崎家は一軒家で、二人で暮らすには少し大きいようだった。昔は母と、今はもういない母の祖父母も一緒に暮らしていたと聞いて、その大きさに納得した。三人も他界してしまった今、夫婦二人で暮らす家は、どんなにか広く感じることだろう。
神崎夫人――つまりは春の祖母だ――は、玄関で春を見るなり後退った。神崎氏が慌てて支えると、「千秋ちゃん」と呟いた。
「この子は千秋じゃないよ。春ちゃんだ。千秋の子の」
「春ちゃん……まあ、千秋にそっくりになって……。驚いたわ。今、いくつになったの?」
「今年の五月に、二十二歳になりました。長らくご無沙汰していて、すみません」
「二十二……今、働いてるの? 大学生?」
「大学生です。四年になりました」
「こんなところで立ち話をさせるんじゃない。春ちゃん、あがりなさい」
神崎氏に促されて、春は家の中にあがらせてもらった。須藤家とは違う匂いがする。別段、懐かしさなども感じない。しかしここが、母の育った家で、祖父母の住むところなのだ。
しばらくは神崎夫人と、神崎氏と交わした会話と同じ内容を話した。一人でここに来たこと、家の者は知らないということ、さっき墓参りをさせてもらったことも加えた。
「大きくなったわね。最後に会ったのは、あなたが四歳の頃だったから、当然よね」
しみじみと言う神崎夫人に、もっと早く来ればよかったのかもしれないと、春は思った。そうすれば、もう少しは、彼らも寂しくなかったのでは。自分がこの人たちを怖がっていなければ――今となっては怖かった原因も忘れかけていた――小さいうちから会いに来られたのではないだろうか。
「春ちゃん、昔のことだから憶えてないかもしれないけど、あなたに謝らなくちゃってずっと思ってたの。最後に会った日、酷いことしちゃったからね」
忘れかけていたというのに、神崎夫人が不意に言う。
「あなただって両親をいっぺんに亡くしてつらかったのに、私が感情に任せて怒鳴ったりしたから、怖い思いをしたのよね。ごめんなさい」
「そんな……昔のことなんて、忘れました。仕方ないことだったんです」
そう思えるようになったのだから、もういい。謝ってもらっては、むしろ思い出してつらくなる。こんな気持ちと決別したくて、神崎夫妻ときちんと向き合いたくて、彼らのことを考えるようになった。そうしてここまで来た。会うつもりはなかったけれど、偶然会えて、話ができて、それで十分だった。
そんなことより、これからのことを話したい。神崎夫妻が春を厄介に思っていないことがわかったなら、頼みたいことがあった。
「あの、これからも会ってくれますか? 私と会うことで、つらかったりはしませんか?」
「つらかったら連れてこないよ。……なあ」
「ええ、千秋が帰ってきてくれたみたいで嬉しいわ。あの子はとうとう、ここには戻って来てくれなかったし」
そこまで言った神崎夫人を、神崎氏が目で窘めた。やはり彼らは、娘を失ったという事実を、まだ受け入れきれずにいるのかもしれない。だから春は、頼みごとを言うのは、今回はやめにした。次に会ったときでもいい。次があれば、だけれど。……母には次がなかったから、この人たちは悲しんでいる。

泊まっていきなさいと言われたが、宿をとってあるので、と神崎家を辞した。荷物も置いたままだから、このまま世話にはなれない。
楽しみだった露天風呂だが、言いそびれたことを考えていたら、のぼせてしまった。もともと今日言うつもりではなかったことだけれど。
「でも、急に言ったらびっくりされるよね。新のことなんか」
須藤の家に婿が来る予定である、という話。やっと相手の家と話がまとまりそうなのだという報告を、神崎の家にもしなければならない。親戚なのだから。春のもう一方の祖父母なのだから。できたら祝福してほしいという頼みを、彼らは聞いてくれるだろうか。
母が神崎の家に戻らなくなったのは、父との結婚を反対されたからだ。礼陣は特殊な土地で、よそから来た人が不気味に思うようなこともある。神崎夫妻もそうだったが、それを母が押し切ったのだった。春はそれを、噂好きの近所の人から聞いた。こういうところも受け付けられなかったのかもしれないなと、今では春も少し納得できる。
父が男手一つで育てられてきたこと、その原因が祖母の奔放すぎる性格にあることも、気になっていただろう。とにかく、当時の神崎夫妻は、須藤の家に娘を嫁にやることに納得していなかった。孫が生まれ、少しは関係が改善されたかという矢先に、あの事故は起きてしまったのだった。
祖父が行って来いと言い、祖母が計画した旅行。両親は春を置いて出かけていき、そのまま帰らなかった。この経緯をあとになって聞かされるまで、神崎夫妻は娘が何をしているか知らなかったのだ。
その全てを込めて、神崎夫妻は祖父母に恨みをぶつけた。春の目の前で。――それからどうしたのだったか、春はよく憶えていない。
気がつけば神崎夫妻とは疎遠になっていた。祖父がこっそり連絡をとっていたようだが、春が彼らと話すことはなかった。まるで遠ざけられているかのようだったから、今まで自分から訪ねていこうともしなかった。
まどろみながら、そのときのことを思い出す。夢と現実の境がわからなくなった。

――私たちが来た途端に、お気の毒に、ですって?! こんな家に、こんな気味の悪い土地に、やっぱり千秋をやるんじゃなかった! こんな無責任な家に来るのを、何が何でも止めるべきだったと後悔しています! よくもこんなに簡単にあの子の命を諦められますね!
叫びは豪雨のように降り注ぎ、祖父に、祖母に、そして春に刺さっていた。やり場のない悲しみと恨みを、あの日の神崎夫妻は、須藤家にぶつけていたのだ。
春は何を言われているのかわからなかったが、ただただ般若のごとき形相で怒り泣き喚く神崎夫妻を恐ろしく思った。震えるばかりで、声も出せなかった。
やめて、おじいちゃんとおばあちゃんをいじめないで。そう思ったような気がするけれど、そんなふうに言葉にすることはできなかった。しかしそんな春の代わりに、のそりと動くものがあった。
神崎夫妻の背後から近づく、大きな影。それは春には見えるようになったばかりのものだったが、普通ならば現れない、異様なものだということは感じた。
『鬼の子が怯えている』
『喰らわねば』
『怯えさせるものを喰らわねば』
歪に口を開けたそれが、神崎夫妻に覆いかぶさろうとする。何をしようとしているのか、四歳の春にはわかっていただろうか。それとも礼陣の子には、町の「常識」が染みついていたのか。とにかくそれまで動かなかった足が、危機に反応したのはたしかだ。
「だめっ! おじいちゃんとおばあちゃん、たべちゃだめだよ!」
詰まっていたはずの喉から、驚くほどはっきりと声が出た。震えていた体は、必死に神崎夫妻を守ろうと、異形の前に立ちふさがっていた。
二本のつのを持つ、人間ではない異形――それを春たち礼陣の者は、鬼と呼んでいる。彼らは子供に危害を加える者を「喰らう」のだ。そう言い伝えられている。
だが、その鬼は春の姿を見て、その言葉を聞いて、動きを止めた。その隙に祖父が言った。
――申し訳ないが、早々にこの町を去ってはくださらんか。事情は後でいくらでも説明します。そのかわり、この町には二度と近づかない方がいい。
祖父には鬼が見えなかっただろう。だが、春の言葉で、神崎夫妻が置かれていた状況はわかったのだ。礼陣の人間だから、たとえ彼らに憎まれても、そうせざるをえなかった。
言い訳はきっと、そのあと何度もしたのだ。鬼を知らない人たちでも納得してくれそうな話を、春に隠れて電話をして。
春がそのときのことを、忘れてしまったあとも。

いつもとは違う角度で入ってくる朝日を浴びながら、春は夢を思った。いや、夢ではなく、現実だったのだろう。あれはいつかあった光景で、春が本当に怖くて忘れたかったのは、きっと鬼のほうなのだ。
「……なんだ、そうか。そういうことだったんだ」
今は平気だ。春はもう、子供ではない。鬼はもう見えないし、守られる必要もなくなった。
だから礼陣を一人で出て、神崎夫妻を、もう一方の祖父母を、訪ねたいと思えたのだ。


帰り支度を整えて、おそらくは帰りの列車に乗る前に会いに来てくれた孫は、娘にやはり似ていた。けれども同一ではない。その面差しには、どこか、いつか恨んだ相手が見えた。
その人に育てられ、奇妙な風土に取り巻かれても、孫は立派に成長していた。いや、「何か」から守ろうとしてくれたあの日には、もうとっくに自分の足で立っていたのだった。
「また会いに来ます。そのときには、もっとたくさんお話したいです。母のことも聞かせてください」
「ああ、もちろん。もう他に話す相手もいないし」
「春ちゃんに直接電話をかけてもいいかしら。須藤さん、そんなことしたら心配なさるかしら」
「大丈夫ですよ。私ももう子供じゃないので」
笑ってそう言った彼女に、娘が重なった。故郷には帰らないと宣言した、そのときの娘が。
――私、もう子供じゃない。自分のことは自分で決めます。
あのときとは随分と違うが、やはりこの子は千秋の子だ。そうと決めたら必ずそうする。娘とは逆の約束をして、丁寧に礼をした。
「それでは、また。おじいちゃん、おばあちゃん、どうか元気で」
この子が帰っていくのは、あの礼陣の家だ。けれども引き留められない。それなら最初から、この子を家に連れて帰って来れば良かったのだ。それができなかったから、そうしようとしなかったから、見送らなくてはならない。いってらっしゃいもおかえりも、こちらでは言えないのだ。
「またな、春ちゃん」
「元気でね。今度はちゃんと、須藤さんにお話してから来るのよ」
「はい」
けれどもその幸せを願うなら、また笑って来てくれるだろうか。まだ話していないことがたくさんある。あの子が知らない千秋のことを、もっともっと教えたい。
恨みはとうに解けた。あの子を育てた人が、時間をかけて解こうとしてくれた。本当に時間がかかった。最後の結び目を解いてくれたのが、あの子だった。
そんな人たちの傍にいたがった娘は、幸せだったのかもしれないと、ようやく思えた夏の日だった。



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2016年06月11日

その日暮らしを令嬢と

初めて会ったのが、高二の春。それからすぐに、当人からではなく別の筋から、彼女について詳しく知ることになった。
「光井って、北市の?」
オレの「彼女ができた」という報告に顔を顰めていた海が、名前を聞いてさらに変なものを見るような顔をした。
「北市のかどうかは知らねーけど。ずっと病院にいるし、住所聞いたことない」
「しょっちゅう入院してる同い年の光井っていったら、たぶん北市の光井さんで合ってる。有名なんだよ、今代の光井の令嬢は体が弱くて、事業を継ぐのは難しいだろうって」
令嬢だとか事業だとか、あまりなじみのない言葉が続く。問い詰める前に、呆れたように教えられた。
「光井さんは北市女学院創設者の家だよ。北市女が広いから、実質、北市地区の大部分はあの一族が管理してる。お前一年いてそんなことも知らなかったのか? バイトしまくってるのに」
知っててもそう簡単に結びつくか。そう思ったのはそのときだけだ。そのあと自分で調べ、どうして今まで知らなかったんだと頭を抱えた。
当時付き合い始めたばかりだった彼女、光井雪は、正真正銘のお嬢様だったのだ。

――いえいえ、お嬢様なんかじゃないです! ほんと、違うの!
本人に尋ねたときの慌てようは、今でも鮮明に思い出せる。だがいくら否定しようとも、超庶民のオレからすれば、この広すぎる日本家屋はどう見ても豪邸にしか見えないのだった。初めて見たときも、すっかり慣れて暮らしてさえいる今でも。
礼陣の町は五つの地域に区切られている。そのうちの一つ、北市地区は、古くはその名の通り市が立っていて、山に囲まれたこの町と外とを繋ぐ玄関口でもあった。しかし鉄道網の発達に伴って、市を構成していた店のほとんどは現在中央地区の駅裏商店街となっている場所へ移動し、土地が空いてしまったところを光井家が買い上げた。そうして女子のための教育の場、北市女学院を設立したのだという。
そんな大富豪の建てた家も立派なもので、住まわせてもらっているのが申し訳なくなる。いや、出入りすることすら憚られた頃に比べれば、オレもいくらか図々しくなった。というか、よくもオレみたいなのを出入りさせる気になったものだ。
雪が病気がちで、一族がみんな彼女に甘かったというのもあるのかもしれない。その我儘はよほどのことでない限り通っていた。――どうにも光井家にとって、オレの存在は「よほど」というほどのものではないらしい。
大学四年になってから、雪が留学と病気治療のために海外へ渡っているあいだであったにもかかわらず、卒業したらこの豪邸に部屋を用意するから住むようにと言われた。雪からではない、この家を取り仕切る雪の曽祖母からだ。
「どうせ教員採用試験を受けるのでしょう。安心なさい、もし万が一希望通りにならなかった場合は、うちの学校で働けばいいわ。そうすればどのみち、黒哉さんは礼陣で暮らすことになる。雪と一緒になることも考えてくれているのなら、卒業してすぐうちに住んだらいいのよ。そうしましょう」
強引ともいえる決定に、親族一同が諸手を挙げて賛成したという話は、どこまで本当かわからない。とにかくこっちが考えるまでもなく、一気に色々なことが決まってしまったのだった。
それがもう、去年のこと。無事に礼陣で中学校教師になれたオレは、まだ雪が帰らない光井家で、生活をさせてもらっているというわけだ。
大先輩である井藤先生に生活について尋ねられたときに正直に答えたら、ぽかんとしたあとに笑われた。
「日暮先生、すごいシンデレラだね。立場逆だけど」
そう、逆なのだ。こんなの学生時代の知り合いに聞かれたら、爆笑されるかドン引きされるかのどっちかだろう。
光井家に住まわせてもらってはいるが、とくに束縛されるということもない。夕飯を家で食べないときには一言連絡を、ということくらいだ。帰る時間は自由。休みの日には台所に入らせてもらうこともあり、光井家伝統の味を教わりつつ、オレに食事を任せてもらう。幸いにしてうちの味も、この家の人々の舌に馴染んでくれた。その報告をすると、雪はアメリカからメッセージを飛ばしてくる。
[日本にいる人だけ黒哉君のご飯食べれてずるいよー! 私もご飯食べに帰るー!]
向こうには雪のほかに、その両親がいる。雪の留学期間が終わったら、揃って帰って来るそうだ。
つまり、現在一緒に生活をしているのは、頂点に君臨する雪の曽祖母と、祖母と祖父。居づらくはないが、なんでここにいていいっていうことになったんだ、とはよく考える。
オレ自身は、自分はこの家に似つかわしい人間だとは思えない。幼少期から「父親が誰だかわからない子」として距離をおかれ、この町に来てからは母親が殺され、その犯人が実の父親だったというのは、もう町では有名な話だ。当然光井家の人々もそれを知っていて、なおオレが雪に近づくことを許してくれた。あらためて身の上を話しても(色々と言い訳をしてしまったことがあったのだ)、「それが何だというのです」と一蹴された。
あとになって思う。こういう人たちだから、変わった風習や信仰が根付く礼陣の町に入ってきても、動じずに暮らしてきたのだろう。

「黒君、おじいちゃんとかおばあちゃんとかお父さんとかいなかったものねえ。そうやって家族として迎え入れてくれるところがあって、アタシも嬉しいわー」
母親の生前の仕事仲間であり、なにかとオレの面倒を見てくれていたコトミさんと、久々に会った。近況を報告すると、しみじみと「嬉しい」を繰り返していた。
オレの母親は、中学卒業と同時に親と絶縁したらしい。母親の葬式にも来なかったその人たちがどうしているかなんてオレは知らないし、だから祖父母という存在などこれまで意識したことがなかった。父親は顔と名前しか知らず、父親だと思いたくない。
「家族って思っていいのかは、正直なところまだわかりません。それならコトミさんや樋渡さんたちのほうが家族っぽいような気がするし、かといって常田家ほど離れている感じもないし……」
常田家は腹違いの兄の家だ。兄、在も、今年結婚するという。相手はオレの同級生だ。
「黒君が良ければ、全部家族でいいんじゃないの。光井さんも可愛がってくれてることだし」
「可愛がって……まあ女系一族らしいので、男が増えて安心したとは言われましたね。おじいさんとお義父さんに」
「まあ、お義父さんですって。早く雪ちゃん帰ってくるといいわね。そうしたら戸籍上も家族になるもの」
そういう予定にはなっている。先にそういう予定を立てたのは雪の曽祖母だったが。オレたちはそれに乗っからせてもらうだけだ。
「それなんですけど、コトミさん。オレはてっきり自分が光井家に入らせてもらうものとばかり思ってたんです。でも確認したら、なんか違うっぽくて」
「違う? 何がよ」
「雪が自分の印鑑用意しなきゃだとか、口座の名義を変えなきゃだとか言ってるから、何かおかしいと思ってはいたんです。どうもアイツ、日暮の籍に入るつもりみたいで」
「あら、黒君、マスオさんになるの?」
「……ちょっと意味わかりませんけど、とにかく慌てて大奥様に訊いたら『それで何か問題でも?』って言われました。良いんですかね、向こうはすごい富豪なのに」
「向こうがいいならいいんじゃないの。黒君、気後れしすぎ」
今更富豪が何よ、常田さんちだって地元の不動産王じゃないの。そんなふうに言ってのけるコトミさんは、今までどれほどの家を見てきたんだろう。色々聞くこともあっただろうけれど。いや、主におかしな問題を持ち込んでいるのはオレだった。よく考えるまでもなくそうだった。
「……気後れ、ですか」
「気後れよ。そこはちょっとお兄さんを見習ってみてもいいんじゃないの」
在とは立場が違うだろう。そう思ったが、たぶんそういうことではないので、返せなかった。
出会った頃はわからなかったが、アイツはあれで意外と、学校一の美人に惚れられるだけのことはあったのだった。

雪が帰って来る直前になって、富豪だの気後れだの言っている暇がなくなった。学校は運動会を終えてまもなく中間テスト準備期間に入り、他のことを考える余裕がないくらい忙しくなってしまったのだ。行事のない通常業務も毎日大変ではあったが、そんなものは序の口だったのだと実感させられる。実際、オレの仕事量は他の教員より少なく調整されているのだった。だが、学ばなくてはならないことが多い。
「日暮先生も経験あると思うけど、テスト前は生徒の職員室立ち入り禁止。質問受けるなら一旦出て応対して。あと部活入ってる子たちと同じように、テスト一週間前から剣道場も休みにしてもらってる。問題の作り方とかは教科主任に遠慮なく訊いて吸収すればいい。もし機嫌が悪そうなら、御仁屋の豆大福でも差し入れてやって。好物みたいだからさ」
井藤先生が慣れた様子で教えてくれる。新しく来た教員には、毎度説明しているんだろう。それから教員らの食事の好み、接し方など、よく把握しているようだった。さすがは中央中学校勤続十年。本当に、どうして他に移らないのだろう。
忙殺される日々だけれど、生徒にはそれをできるだけ見せないようにするのも、井藤先生は上手かった。どんなときでも明るく元気に、「井藤ちゃん」と呼ばれれば「ちゃんじゃなくて先生だろー」と笑って応える。常に仏頂面(なのだそうだ。自分ではわからない)のオレにはなかなかできないが、見習いたい。
けれどもそれを言うと、井藤先生は、
「まあ、教師だって人間だしね。日暮先生は普通にしててもモテるし、それで良いんじゃないの」
そんなふうに返すのだった。
とにかく仕事に集中しなければならなかったので、雪への連絡などはついつい遅れがちになり、帰りが遅いので光井家の人々とも顔を合わせる時間が短くなった。もちろんこちらの状況を知っている人たちだから、何も言わないのだが。むしろ夜食で労ってくれるのは、ありがたかった。
そうしてやっとテスト当日、その後の採点、とクリアできた頃には、もう空気はすっかり夏だった。子供たちも夏休みを楽しみにしながら、勉強に部活にと励んでいる。
この学校には読書討論会という愛好会――人数の関係で部に昇格できていないのだ――があって、オレはその副顧問を任された。ようするに最近流行っているというビブリオバトルを学校内で、できれば他校の生徒ともやりたいということで持ちあがったらしいこの愛好会は、全員集まっての活動が週に二回。テストが終わって最初の活動に顔を出すと、テスト期間だったから本を読むのを我慢していた、という生徒たちが集まっていた。
「夏休みの初めに、北中と合同で活動しようって話が持ち上がったんです。先生たちで調整してくれると助かるんですが」
「もう北中とは話してるのか」
「礼陣の町の人はみんな知り合いですから、生徒だけで話をするなら簡単なんです。でも部活動となると、学校が関わってきますから……」
副顧問のオレでは何とも言えないので、顧問の先生に相談してみる。と、二つ返事でオーケーが出た。北中とはすぐに連絡をとるということだ。
安心して本日の活動を始めようとしたとき、教室の戸がそっと開いた。
「すみません。こちらに日暮先生がいらっしゃると伺ったんですが」
生徒たちが目をしばたたかせる。職員室に向かおうと立ち上がっていた顧問が、「あれ」と声をあげた。
「もしかして光井さん? どうしてここにいるの?」
オレは突然現れた雪を目の前にして、唖然としていた。
雪はにっこり笑って頭を下げ、「お久しぶりです」と言った。
「先輩もここで先生やってたんですね。私、黒哉君……日暮先生に用事があって」
あとで知ったことだが、顧問は雪の小学生の頃の先輩だったらしい。ほぼ保健室登校だった雪の相手をよくしてくれていたのだとか。
とにかく一旦、他の空き教室に雪と二人で移動した。生徒たちがこっちを見てニヤニヤしているのがわかったが、気にしないふりをする。
静かな教室で、久しぶりに会ったその顔を、やっとまともに見た。
「雪、帰るの今日だったか?」
「ふふーん。事前に知らせておいた日時は、わざと遅らせていたのだよ。……まあでも、きっと忘れてたよね。黒哉君、忙しかったみたいだし」
ひいおばあさまから聞いてるから大丈夫、と微笑む雪は、しかし少し拗ねていた。昔、見舞いに行くのが少し遅くなったときの表情と同じだ。
「悪かった。……おかえり」
「ただいま。なんにも悪くないよ、黒哉君は。私が驚かせたかったんだし」
「本当に驚いた。まいったよ」
素直に降参すると、雪は得意げに胸を張る。そのまま黒板を、掲示板を、ロッカーを、窓を、順番に見回して「懐かしい」と呟いた。
「私はここじゃなくて北中の出身だし、ほとんど保健室にいた記憶ばっかりだけど。ほんのわずか、教室で勉強したり、本を読んでたりしてたときのことも、ちゃんと憶えてるんだよ」
友達と何かした、というのは言わなかったし、今までも聞いたことはない。心配する声は多々あったものの、ごく普通の学生らしい会話というのは、中学生の時まではなかなかなかったのだという。高校に入ってからも入院期間が長く、友達といえるような人は少なかったと、以前に語っていた。
オレも似たようなものだ。中学生の頃までは門市にいて、片親だとかそういう境遇に同情や軽い興味は向けられたものの、親しい者はいなかった。仲良くなりそうだと大人が判断すれば、「特殊な環境で育った子だから気をつけろ」という言葉で遠ざけられた。今にして思えば、大人たちには遠ざける意図はなかったのかもしれないが、結果的に同級生は面倒だと思ったのだろう。オレも腫れもの扱いはごめんだと、他人を避けていた。
加えて、雪と同じ学校に通っていたことはない。だから、こんなことを言うのはおかしいのだけど。
「そうだな、懐かしいな」
自然と、そんな言葉が出ていた。
「黒板にらくがきしたかった。授業中にこっそり手紙をまわしたり、お喋りしながら掃除したり、してみたかったな」
「勉強しろよ」
「勉強はこれでもかってくらいしたもの、ひとりで。……みんなと同じように、遊びたかったの」
そうだ、独りでできることなら、十分にやったつもりだ。年の近い誰かと何かを、という経験は、オレも高校生になってからようやくできた。
だがそういうことがなければ、オレはたぶんこの場所にいなかった。
「もう学生時代みたいなことはできないかもな」
「そうだね、大人だもん」
「でも、もう独りで寂しいなんて言わせねーぞ」
「そんなこと、言ってられなくなるもんね」
この町に雪が帰ってきた。これからは同じ家で暮らす。一緒に時間をつくっていくんだ。誰かに言われたからというわけではなく、オレが、雪が、そうしたいと決めた。
「これからよろしくな」
「こちらこそ」
忙しかろうが疲れていようが、雪がいてくれればなんとかなる気がする。根拠はないが、そんなふうに思えてしまう。
雪もそう思ってくれるだろうか。いや、雪がどう思おうと、オレはオレのために雪を支えられるようになるんだ。
寂しい思い出も、昔の憧れも、これから全部「懐かしいもの」にしてやる。

「つーか、よく学校に入ってこられたな」
「井藤先生に通してもらった。日暮先生の奥さんだって。奥さんだよ、奥さん!」
「本当に奥さんになるのは明日からだけどな」



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2016年06月05日

紺堂梧は本を読まない

本を読むのは好きだ。他にやることがなかったから、という理由から始めた読書だったけれど、物語を楽しむのは面白い。非日常の世界――リアルな描写もわたしが経験したことのないものであれば非日常だ――の体験は、心を満たしてくれるような気がする。いつもはからっぽな、わたしの心を。
普段は他人に追従し、自分個人の考えを持つことのないわたしだけれど、本を読んで面白いと思う気持ちは本当だと言える。ただ、他の人に「それは面白くない」と否定されてしまえば、「そうだよね」と従ってしまうかもしれないけれど。そんなことがあれば、もう二度と読めなくなってしまうかもしれない。
だからわたしは極力、自分が好きだと思ったもの、素敵だと感じたものは、隠すようにしている。周りに合わせていれば生きていくには間違いないからと、周りの好きなものをわたしの好きなものにしようと、そういうことにしておこうと振る舞っている。
長らくそんなことだったわたしだけれど、高校生になって色々なことを話せるように……いや、聞き出されるようになってきたせいもあって、つい口を滑らせてしまった。
朝、学校で時間を設けて、読書をする。定期テストが近くなると自習時間になるけれど、普段は堂々と好きな本を読める、僅かな時間。でも、わたしは本にしっかりとカバーをかけて、それが何であるかは見えないようにしている。
「から子は朝、何を読んでいるんだい?」
梧君がそう尋ねるのも、特段変なことではない。わたしがその時間と家にいる時以外は本を開かないようにしているというのもあって、気になったのだろう。そうでなくても、梧君は「知りたがる」。
わたしの名前は空子、「から子」ではなく「そら子」だ。でも梧君はわたしを「君はからっぽだね」と言って、から子と呼ぶ。
「ええと、これは」
口が滑ったとはいえ、一瞬は言葉に詰まった。言って良いものかどうか。否定されたらわたしはもう、この本を読めなくなるかもしれない。でも一方で、梧君なら、わたしの「本質」を一目で見抜いたこの人なら、とも思った。隠し事をしなくてもいいのではなく、隠しても仕方がない人なのだ。
わたしは本のタイトルを梧君に教えた。すると彼にしては珍しく、作者と他の著作も訊いた。もう何年もその人の作品の隠れファンだったわたしは、自分でもびっくりするほど饒舌に、簡単な内容も付け加えて答えた。梧君はそれを頷きながら聞いて、笑った。
「から子はよっぽどその人の作品が好きなんだね」
「う、うん……。誰にも言ったことなかったんだけど、好きなもののことを話すって、楽しくて嬉しいんだね。聞いてくれてありがとう、梧君」
大好きな作品のこと。描かれている物語やその情景、登場人物の表情や行動、わたしを励まし勇気づけてくれるような言葉の数々。それを口にし、誰かが耳を傾けてくれることは、思った以上に幸せなことだった。
誰に従ったわけでもない、「わたしの好きなもの」。これさえあればわたしはからっぽじゃないと、そう言えるのかもしれないと、梧君に対しても胸を張れるような気持ちだった。
「僕も読んでみるよ。から子との共通の話題が欲しいし」
「うん。そうだ、梧君の読んでる本も教えて。わたしも読んでみたいな」
「僕の? ……ごめん、僕は読んでいないんだ。朝読書の時間は、こっそり参考書を見てる」
「あ、そうなの……」
そういう子は梧君以外にもいるから、問題ではない。でも、せっかくその時間があるのに本を読まないのはちょっともったいないなと、わたしはどうしてもそう思ってしまうのだった。

梧君に話せたのだからと、わたしは梓ちゃんと佳純ちゃんにも、お昼休みに本の話をしてみた。何か読まなきゃいけないから惰性で適当な本を読んでいる、という梓ちゃんだったけれど、わたしの話は聞いてくれた。佳純ちゃんはもともと読書家を自称しているだけあって、作家さんの名前も著作も知っていて、以前に読んだことがあるという作品の話で盛り上がった。もっとも、佳純ちゃんがたくさん話してくれたおかげで、わたしが口を挟む隙はほとんどなかったのだけれど。でも聞いているだけで作品の内容を思い出せて、楽しかった。
「二人がそんなに良いっていうなら、読んでみようかな。図書室にある?」
「あ、わたしが貸すよ。何冊か持ってるから、佳純ちゃんが言ってたのを持って来るね。あ、でもネタバレしてるから楽しめないかな……」
「いいよいいよ。あたし、映画とか結末知ってても観られる方だし。ストーリーを知ってるなら、その演出とか音響を楽しめばいいじゃない? 本もさ、ほら、文体とか装丁とかは、まだ知らないわけだから。貸してくれるなら嬉しいな。ただ、読むの遅いから、長期間借りちゃうかも」
梓ちゃんの楽しみ方には好感が持てる。そうやって視点を変えることで、本は何度でも楽しめるんだと、あらためて気づかされた。佳純ちゃんも頷いて、「梓ちゃん、意外と頭良いのね」と言う。「意外と、は余計」ととがらせた口で、梓ちゃんは紙パックに刺さったストローを吸った。
これからはもっと、好きなものの話をしてもいいかもしれない。それからわたしは、梓ちゃんや佳純ちゃんの好きなものももっと知りたい。みんなで好きなものについてお喋りできるというのは、みんなのことを知れるというのは、幸福な時間だということがわかった。
「空子ちゃんが梓ちゃんに本を貸すなら、私もおすすめを空子ちゃんに貸そうかな。ちょっと昔のSFなんだけど……」
「SF? 佳純ちゃんが読んだのなら面白そう!」
「この流れでいくと、あたしは佳純ちゃんに貸さなきゃいけないの? 何かあったかなー……」
「無理しなくていいよ。梓ちゃん、あんまり本読まないんでしょ? それより、映画の方が詳しそう」
「引っかかる言い方だけど、まあ、おすすめの映画ならなくはない。ホラーは大丈夫?」
中学生の時はできなかった、わくわくするような会話。わたしも入っていくことのできる話。そういう時間を一緒に過ごせる友達が、わたしにもできたのだと思うと、表情が緩んでしまうのを抑えきれなかった。

好きだ、と思ったものを、それはおかしい、と否定されてしまう。話そうとした傍から、自分は嫌いだ、と言われて話を持って行かれてしまう。そのものへの悪態の方向へ。そんな経験をしてきたから、わたしはそれが怖くて、ずっと好きなものの話をすることを避けてきた。好きだと思ったら隠そうとしてきた。そうして、相手の好きなものに合わせようとした。
アイドルの話、最新曲の話、流行のファッションの話にはなかなかついていけなくて、ただただ相手の話を聞いていた。「空子もそう思うよね?」と言われたら、よくわからなくても頷いた。あとでつじつまが合わなくなって、「嘘つき」と、「都合がいい」と罵られると、知っているのに。
でも、もしかしたらわたしも相手の話に興味を少しでも持って接していたら、何か違ったのかもしれない。わたしが本の話をするのに、梧君や、梓ちゃんと佳純ちゃんが付き合ってくれたように。佳純ちゃんが梓ちゃんの好きな映画の話を聞いたように。
そうしたら、世界ももうちょっと開けたかもしれないな、今頃アイドルをテレビで見てはしゃぐようなわたしがいたのかもしれないな、と思った。想像してみると、ちょっと恥ずかしくて、でもけっしてつまらないことではなかった。
ああ、でも、そんなわたしなら。梧君が近づいてくることはなかったのだろう。彼は、わたしが「からっぽ」だから興味を示してくれたのだ。
梓ちゃんに貸すと約束した本を開いてみる。少し切ない物語が、優しい言葉で綴られて、笑顔と涙を一緒に誘う。わたしに幸せをくれる。からっぽだった心が、言葉で満たされていく。梓ちゃんもこんな気持ちになるのかな、佳純ちゃんもこんなふうに思ったのかな。――梧君にも、この気持ちは伝わるのかな。
梧君に本のことを尋ねはしたけれど、正直、彼がどんな本を読むのか、わたしには想像がつかない。人の内面を覗き込むのが得意な彼のことだから、たくさんの情報に触れて、それを分析していそうなものだけれど。だとしたら、ノンフィクションとか、随所にヒントが鏤められた推理小説とかが好きかもしれない。
わたしは梓ちゃんに渡すものとは別に袋を用意して、本棚から昔に書かれたとても有名なミステリー小説を取り出して、詰めた。梧君はもうとっくに読んでいるかもしれないな、それでも話はできるな、と思いながら。

土日を挟んで、月曜日。本を入れたおかげで少し重くなった鞄を提げて、わたしは駆け足で学校に向かった。こんなに楽しみな週明けが、今までにあっただろうか。お母さんにもにやにやしているところを見られてしまった。
「良いことでもあったの?」
この問いに素直に頷けることが、どんなに嬉しかったか。わけを話せることが、どんなに幸福だったか。仕事で忙しいお母さんと良いことを話せるなんて、素敵な週末だった。
そんな話をしたら、梓ちゃんや佳純ちゃんは「甘えてる」なんて言うかな。普通は親と話すことなんかないって、おなじみの愚痴を聞くことになるかもしれない。でも今日は、それを止められる術がある。わたしはわたしの話で、二人を笑顔にさせられる自信がある。
学校で二人に会ったら、まずは持ってきた品物の交換。わたしは梓ちゃんに本を、梓ちゃんは佳純ちゃんに映画のDVDを、佳純ちゃんはわたしに本を。ぐるりとまわるのが面白くて、まだ作品の中身に触れもしないうちから、またやろうね、なんて言葉が飛び交った。
にやけるのを抑えられないまま自分の席に戻ると、後ろから浦家君が話しかけてきた。
「稲田さん、機嫌いいね」
「おはよう、浦家君。あのね、おすすめの本とか映画とかを交換してたの。浦家君は何かある?」
「俺はゲーム専門。朝読書の時間もこっそりゲームやってる。稲田さんはゲームやらないでしょ」
たしかに読書の時間、真後ろから聞こえてくるのはページをめくる音じゃなくて、小さなボタンを押すような音だった。わたしはゲームはあまりやらないけれど、ストーリーが面白いものなら興味が湧くかもしれない。そう浦家君に返そうとしたら、もう彼は画面の中の世界に没頭していた。
苦笑して前を向いたところで、声が降ってくる。
「おはよう、から子」
いつまでたっても直してくれない、その呼び方。
「梧君、おはよう」
でも彼が持つトートバッグから、よく知っている背表紙がいくつも見えた。わたしが好きだと言った本の著者の名前が、たくさん。わたしが持っていないものもある。
「それ、どうしたの?」
「読んだよ、全部。図書館で借りられるだけ借りた」
「それ全部?!」
なかなかの量だと思うのだけれど、梧君はまさか、この週末で全部を読んでしまったというのか。もともと頭の良い人だし、行動力もあるけれど、そういうこともできてしまう人なんだ。彼にはいつも驚かされてしまう。
「ど、どうだった?」
「その話は放課後にでも。昼はどうせ、女子だけで集まるんだろう」
本の話ができる。早く話したい。わくわくしながらの朝の読書はいつもより数段面白く感じたし、授業中もちっとも退屈じゃなかった。梧君は、あの物語をどう思っただろう。彼でも笑ったり、泣いたり、するんだろうか。感動して涙が止まらなくなるような話もたくさんあったはずだ。でも、梧君が泣くのは想像できないな……などと考えているうちに、時間は過ぎていった。
放課後、梧君はわたしを空き教室に呼び出した。彼のことだから、そこが部活にも使われておらず、放課後には誰もいなくなることを、調査済みなのだろう。
梧君に渡そうと思って持ってきた本を抱えて教室を出ようとすると、しかし、低い声に呼び止められた。
「稲田、待て」
「新見君?」
振り返れば、不機嫌そうな顔があった。でもこれは新見君のいつも通りの表情で、今は彼が怒っているわけではないのだとわかる。
「どうしたの、何か用事でも?」
「梧に呼び出されたんだろ。……行かないほうが良い」
彼が、わたしが梧君と一緒にいるのを止めようとするのも、よくあることだ。新見君は梧君が好きではない。その原因にわたしも関わっているので、好きになれとは言わないけれど。
「ええと、どうしてそう思うの?」
「梧が大量に本を持ってた。同じ作家のものばかり。何か企んでるんじゃないか」
「それは、先週にわたしがその人の書いた作品を好きだって言ったから……。梧君、休みのうちに読んでくれてたんだよ。これから本の話をするの」
「あいつは本の話なんかしやしない」
からっぽな、人に流されやすいわたしだけれど、さすがにこの物言いにはちょっとムッとした。わたしがずっと楽しみにしていた時間を、どうして邪魔するようなことを言うんだろう。新見君はいつも不愛想だけど、梧君のことは好きじゃないって知ってるけど、こうして行く手を塞がれるまでの理由はあるのだろうか。
「どうしてそういうこと言うの? 梧君だって、本くらい読むよ。読んだら話をしたくなるはずだよ」
わたしにしては珍しく言い返したのに驚いたのか、新見君は半歩後退って、俯いた。そこにさらに訴える。
「わたしが梧君と本の話をしたいの。せっかくの共通の話題で、機会なの。新見君にはわからない?」
「……でも、それなら、なおさら」
まだ何か言おうとする新見君を、わたしは無視してしまった。早く梧君のところに行かなければ、時間がもったいない。あれだけの量の作品を読んだのだから、話すことはたくさんあるはずだ。いつもはちゃんと言うはずの「さようなら」も、今日は言わなかった。
せっかくのわくわくが、新見君のせいで少し萎んでしまった。でも大丈夫、あの本の話をすれば、すぐに復活できる。そう思って、わたしは空き教室の戸を開けた。駆け足で来たから、少し胸が苦しかった。
「やあ、から子」
梧君は本を開いて、待っていた。ページの端から付箋が覗いているのが見えた。

わたしがこれまで、図書館で借りたり、本屋さんで買ったりして読んだ、たくさんの本。一番好きな作家さんをあげるとしたら、絶対にこの人の名前を一番に言うだろうと思っていた、その人の著作。描かれている世界は、切なく苦しいことも、優しく温かい文に救われる。わたしはその世界に癒しと、日々を乗り越えていける力をもらったものだった。
「全部目を通して、著者がやっているSNSの投稿も見た。SNSは、から子は知ってたかい?」
梧君が携帯電話を操作しながら、こちらを見る。
「知ってたけど、まだ見たことない……。ホームページは、新刊をチェックするのに覗いたことがあったけど」
「ふうん、そう」
本を全部読み、作家さんから発せられる情報までチェックするなんて、そんなに好きになってくれたのだろうか。だとしたら話のし甲斐がある。わたしが梓ちゃんや佳純ちゃんにもまだ話せていない、本の感想や感動した箇所について、たくさん語りあえるかもしれない。
そう期待したのだけれど。
「いくつかの著作に共通している点は、母親という存在が何度も敵対するものや主人公らに何らかの危害や心的外傷を与えるものとして描かれているということだった。人々に支えられることでやっと生きている、自分勝手な行動をとる、という描かれ方をしているものもあったね。対して父親は、家族を守るもの、優しい存在として描かれているけれど、登場することは少ない。そしてSNSなどに見られた著者本人の体験談にも、母親は子供の言うことを解さないもの、子供を無理やり思い通りにしようとするものとして書かれがちなのに対して、父親のことはほんのわずか、それもかなり美化されたような思い出が綴られている。さらには物事の正しさの多様性を解いておきながら自らの意見は押し通そうとする強引さも、そこから見えた。随分と自分の信じたものにこだわるタイプなのかな、意見があればわざわざ引用して、反論を試みている。それはまるで、著者が敵として描いた母親を彷彿とさせた」
梧君の言葉の波が、わたしを一気に襲った。わたしが戸惑っているうちに、さらに重ねてくる。
「この人の態度および主張は、いわゆるダブルスタンダードというもののようだ。結局は全て自分を肯定するものであり、作品世界も自己肯定に基づいて構成されているように見受けられる。母親に対するコンプレックスが投影された世界から、最終的には人々が救われるような物語は、似たような境遇の人々や、もしかするときれいな言葉で包みこむことでそうではない人々の心も動かすのかもしれないけれど、結局は自己愛の塊だ。可哀想な自分をベールに包んで著すことで救済している。誰かのため、使命感、なんて言葉を何度か見かけたし、読者も自分が救われたなんて宗教じみた感想を抱いているようだけれど、単純な現実逃避、まやかし、自己愛だ。他人を否定せず正しさを多面的に見ようと言いながら自分の主張が一番正しいとしているのは、あまりにわかりやすい矛盾じゃないか。だが狂信者はその事実を見ようとしないで、その人こそが正しいと思い込んでついていく。恐ろしい話じゃないか」
わたしは何か言い返さなくてはならないのかもしれない。そんな話がしたいのではないと、そもそも梧君は本当に作品を読んだのかと、もしかしてまったく別のものを見てはいないかと。でも、少しも声が出なかった。わたしの心の中は、梧君の言葉でどんどん埋め尽くされていく。
「でも作家だって人間だ、神様じゃない。だから僕は矛盾を許そう。だがから子、君が狂信者になっていくのだとしたら、それは見過ごせない。これら全ては正しくないと、君にわかってもらわなくてはならない。君はこんなまやかしで心を満たしたような気になっていたのかもしれないが、結局は自分では何も考えていないのだから、からっぽのままだ。僕が君を満たそうとしているのに、こんな偽の経典に寄り掛かろうとする意味はないだろう」
「そんなこと、考えたことも……」
ない、と言ってしまったら。わたしは梧君の言葉を認めてしまうことになりそうでできなかった。これまでわたしが大切にしてきたはずのものは、誰かに言われてそうしてきただけなのだと、そう思いこまされてきたのだと。
ああ、違う、そんなことを言いたいんじゃない。わたしは、本の話を。ただ、温かな作品世界の話をしたかっただけなのに。
「著作物は人の心を表す。作り手の心も、受け手の心もだ。本を薦めあっていたようだけれど、それは誰かに自分をわかってほしい、受け入れてほしいという願望を行動にしたものだ。薦めたものを否定され、自ら全てを否定された気分になったことはないか? から子ならあるだろう。そして良いと言われれば、それが自分の作ったものでないにもかかわらず、満足感と自己肯定感を得るだろう。それに慣れていないから子は、この数日で相当浮かれていたんじゃないか?」
浮かれていたのはたしかで、その願望とやらも否定できない。俯きかけたわたしの目に、本に貼ってあった付箋が飛び込んでくる。「コンプレックス」「自己肯定」「救済策」といった書きこみがあった。……たしかに、梧君はこれを全て読んだのだ。いや、目を通したのだ。
梧君は、本を読まない。その向こう側を推測する。彼が見ているのは物語ではなく、それを生み出した人間であり、生み出すに至った経緯。ただの推測、それも邪推だと、すぐに反論すれば良かったのに、わたしにはできなかった。
梧君の言葉ですっかりいっぱいになってしまったわたしの心は、立っていられないほど重くなっていたのだ。
「から子なら、わかるね?」
わかりたくないから、これ以上は聞きたくないから、わたしは首を縦に振った。そうしていれば、梧君は「帰ろう」と微笑んでくれる。本を片付け、……付箋を全部剥がして捨ててから、図書館にまとめて返してしまうのだろう。
わたしはその日、帰っても本を読まなかった。せっかく佳純ちゃんが貸してくれたのに、表紙を眺めて重さを確かめる、それすらもしなかった。

翌日の朝読書の時間を待つのが、こんなにつらかったことがあっただろうか。一応、佳純ちゃんに借りた本を持ってきてはいたけれど、とてもページを開く気になれない。本にカバーをかけようと触れただけで、梧君の言葉を思い出してしまう。
わたしはわたしを肯定するために、本を利用するのだろうか。内容に流されて、また自分が満たされたような気になって、本当はからっぽだということから目を背けるのだろうか。
悶々としていると、「おはよう!」と高く響く元気な声がした。顔をあげると、梓ちゃんが笑っていた。胸にわたしが貸した本を抱いて。――今はその表紙を見ただけで、呼吸がつかえてしまう。
「おはよう、梓ちゃん」
「どうしたの? 具合悪い? だめだったら保健室行きなよ。……ていうかさ、この本すごい感動するんだけど! 昨夜だけでめちゃめちゃ泣いた!」
梓ちゃんは、あまり本を読まないと言っていた。でも、映画が好きで、ストーリーや演出にとても興味があるとも言っている。だからつまり、中身をわかろうとはするのだった。その梓ちゃんが。
「ちょっとしか読めてないんだけど、なんか悲しいっていうより、あんまり優しすぎて泣けてくるよね。主人公もいいけど、あたしは最初のほうで出てくる先生とか好きだな」
物語を、登場人物を、好きだと言ってくれている。
わたしと同じ気持ちを抱いてくれている。ううん、もしかしたら少し違うのかもしれない。わたしは主人公にとても共感して読んでいたと思うから。でも、違っていい。それが作品を読んでくれたことの、何よりの証拠だから。
「わたしは、……先生の言葉の一つ一つが好き。もっと先を読んだら、もっと泣けちゃうよ。でね、主人公がその言葉を受け止めて、前に進もうとするのに、とても勇気をもらったの」
口にしてみて、無理だ、と思った。わたしには、この本を二度と読まないなんて、できるはずがない。何度だって読み返して、そこにある言葉に救われたい。それが現実逃避だと、まやかしだと言われても、大切にしていきたい。そうして、この気持ちを誰かに話したい。分かち合いたい。
そうして自分を肯定して、満たされることは、たとえ梧君が何を言おうと、間違ったことじゃない。ここでそれを間違いだと思ってしまったら、読んで感想を話してくれた梓ちゃんは、佳純ちゃんは、どうなるのだろう。わたしには二人を、この作品を読んだ人を、間違っているだなんて言えないし思えない。
「空子ちゃんが優しいのはさ、こういうのを読むからだよね。心をきちんと洗濯してるんだよ。梧なんか絶対読まないだろうなあ」
うん、梧君は読まなかったよ。最初から読む気なんかなかった。それは読者ではないのだから、そんな人の言葉は忘れていい。
「ありがとう、梓ちゃん。呪いが解けたよ」
「呪い? まあなんでもいいけど、お礼を言うのはこっちだよね。今度自分で買う」
良かった、今日からまた読書を楽しめそうだ。わたしは読書を楽しんでいいんだ。作品の世界に浸っていいんだ。そうして、梓ちゃんや佳純ちゃんと、好きなものの話をしていいんだろう。
ごめんね、梧君。今回はわたし、あなたの手を離すね。からっぽで、誰かに導いてもらえなければ動けないわたしかもしれないけれど、迷子になってもかまわない。
そうはっきり言える日が来るのは、まだ少し遠いかもしれないけれど。わたしにも、行きたい道があるの。



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2016年06月04日

夜明けまでの挨拶代わり

鬼の住まう土地礼陣だが、特に存在を知られている鬼というのは少ない。そもそも鬼は普通の人間には見えず、見える「鬼の子」も、あまりに鬼の数が多いので、ひとりひとりを正確に憶えるということは難しい。
誰もが知っている鬼は、礼陣神社の神主。何年経っても見た目が変わらない彼は、人間と同じ姿をしていても鬼だと認識されている。
鬼が見える、あるいはかつて見えた「鬼の子」たちのあいだで、よく知られているのが子鬼。そう呼ばれる存在はたくさんいるのだが、中でもおかっぱ頭の少女の姿をした者が親しまれている。子供が親を亡くして「鬼の子」となった瞬間から、大人になるまで、長く見えるのが彼女ということもある。
そして最近――ここ二年ほどでその名が囁かれるようになった鬼がいる。そう、名だ。本来固有の名前を持たないとされている鬼だが、その女性の姿をした鬼には人間のような名前があった。鬼が見えない人々にも名だけは知られ、子供たちはとくに彼女を慕っている。なにしろ、鬼らしくないほどに、現代の遊びや話題、勉強にまで詳しいという。鬼の子を通じて彼女と話そうとする子供たちは、こう呼びかける。
美和鬼様、と。

『偉くなったものね』
何度目かになる台詞を、葵鬼が呟いた。礼陣遠川地区の進道家に封じられている、最悪と名高い呪い鬼である彼女だが、その力はこの何年かで少しずつ削がれつつあった。今でも町の全てを呪っているが、自分で手を下すまでもない、時間が経てば勝手に滅びる、と思うくらいに落ち着いた。実際、家に関しては彼女の目論み通りになりつつある。
葵鬼の強い呪いを宥めたのは、彼女のもとへ通い続けた美和だ。とはいえ、本人はそう思っていはいない。溜めこんでいたものを吐き出せば、そりゃあすっきりするでしょう、くらいの気持ちだ。
『偉く? そうかなあ、子供に人気のお姉さんくらいなものじゃない?』
並の鬼なら入った途端に呪いに取り込まれてしまうような、葵鬼を封じている部屋で、美和は悠々と過ごしている。鬼になる前、人間の魂と鬼の境にある人鬼だった頃から通っているので慣れているのだと思っているが、美和の持っている力が強くなければ、こんなことはできない。
『子供に人気のお姉さんが、呪い鬼のところに通ってるなんて知られるのはまずいんじゃない』
『呪い鬼のところに通ってるんじゃなく、葵さんに会いに来てるんだよ。知られてまずいことなんかなんにもない』
『……それ言えるの、あなただけよ』
呆れて息を吐く葵は、しかし、美和のことを嫌がってはいない。自分の思いを吐露できる唯一の相手として、今は認めてすらいるのだった。
人間から存在を認識され、鬼たちから一目置かれる美和だが、これまで唯一避けてきたものがあった。人鬼だった頃には見えることがなかったが、鬼に成ってからはその目につかないよう注意をはらってきた。――姿を現せば、彼は混乱するだろうと思ってのことだ。
『夜明けが近いね。私はそろそろ退散しようかな。おやすみ、葵さん』
『あ、待ちなさい。今は』
注意してきたはずだった。だが一方で、夜明け前なら大丈夫だろうという油断もあった。止める声を聞かず、いつものタイミングで葵の部屋を出て、まさかそこで出くわすとは。
「……え」
『あ、やば』
葵の封じられている進道家には、鬼が見える青年がいる。普段は家を出て独り暮らしをしているのだが、長期の休みには帰って来る。今はちょうど夏休み、この町で行なわれる夏祭りの直前だ。もっと気をつけているべきだった。
「和人さん……?」
進道海は、美和を見てその名を口にした。美和とよく似た顔をしている、人間の名前を。

美和は人間として生まれ、すぐに死んだ。双子として生まれた片割れは無事に成長し、美和はそれをずっと見守ってきた。
海は美和の双子の弟、和人の後輩だ。それも、和人をとても慕っている。それだけなら何の問題もなかったのだが、彼は美和が知る限り女性が苦手で、家で封じている葵鬼をひどく憎んでいた。その彼に、葵鬼の部屋から出てきたところを見られた。
これは厄介なことになる、と覚悟した。全てを説明しなければならないだろう。だが、それも聞いてくれるかどうか。美和はとりあえず、海の言葉を否定するところから始めることにした。
『和人じゃない。私は』
「……ああ、違うな。お前は鬼だ。和人さんにそっくりだけど、よく似た気配は昔から感じてた。それに、その部屋から出てきたってことは、前に会ってるよな?」
憶えていたのか、と美和は頭を押さえた。まだ美和が鬼に成っていなかった頃、つまりは鬼の子にも見えないかたちで存在していたときに、葵に会いに来ていたことを咎められている。鬼の子としての感覚が鋭敏な海には、美和の姿は見えなくとも、気配はずっと「和人に似た何か」としてとらえることができていた。
「神主さんが言ってた……らしい。葵の力が弱まっているって。それをやったのは、お前か」
『弱めたつもりはないけど。ただ、話をしてただけ』
「普通の鬼は会うことすらできない。呪い鬼にされて喰われる。なのにお前は平気なんだな」
睨むようにこちらを見る海の態度に、美和は少しイライラしてきた。和人にはあんなに懐いていたくせに、美和のことは鬼だとわかった途端に「お前」呼ばわりだ。傍らの襖の向こう、封じられている部屋で、葵鬼が笑いを堪えている気配が伝わってくる。
『あのね、海。さっきから失礼じゃないの。私はあんたの先輩の姉よ。双子だけど姉なんだから、せめて同じくらい敬いなさいよ』
「姉? 鬼がなんで姉なんだ」
訝しんだ海に、一歩近づく。ほんの僅かに怯んだそのときを狙って、美和はびしっと相手を指さした。
『私は美和。水無月美和よ。和人と一緒に生まれて先に死んだ双子の姉。何だったら和人に訊いてみたらどう? とにかく、これから私のことをお前呼ばわりしたら、返事はしないからね!』
一気にまくしたて、ぽかんとした海を見た。和人ならこんなことはしないだろうと思う。少なくとも、海の前では。こんなことをして、逆に信じてもらえなくなったらどうしよう。そう考え始めて、やっと海が口を開いた。
「……美和、って。今、町で子供が噂してる美和鬼様ってやつか? ゲームの攻略法だとか、難しい漢字の読み方とか、色々教えてくれるっていう」
いくら長期の休みにしか帰らないとはいえ、噂話の好きな町のことだ。歩いていれば子供たちの話題も耳にするだろう。美和は子供たちに感謝して続けた。
『そうよ、その美和様。でも敬称まではいらないわ』
「……ええと、じゃあ、美和さん」
勝った、と拳を握った瞬間に、葵鬼の気だるげな拍手が聞こえた。それは海もわかったようで、また眉を顰めて、襖に目をやった。
「美和さんは、葵とどういう関係なんですか」
『おや、敬語。やっと私を認める気になったか。葵さんとは、私が話したかったの。だからこっそりここに通い始めた。会話をしてくれるようになるまでは、ちょっと時間がかかったけどね』
目を細め、これまでのことを振り返る。葵鬼と初めて会った日から、彼女が呪い鬼になったその日の話を聞き、そして今日に至るまで。――美和が先に知った、葵鬼の「二人の子供」の話を、今年に入ってから海もようやく知ることとなった。
知ったのだから、彼もわからないわけではないだろう。葵鬼がなぜ呪い鬼になってしまったのか。この町を恨むに至った、その思いを。
『ねえ、海はなんで葵さんが嫌いだったの?』
「……美和さんに関係ありますか、それ」
『ないといえばないし、あるといえばあるかな。私が葵さんの力を弱めたっていうなら、あんたたちにできなかったことが私にはできたってことでしょう』
さらに言えば神主さんにだってできなかったよね、と美和がにやりとする。海の表情があからさまに歪んだのが見えた。だがここは目を逸らしてもらっては困るところだ。
「美和さんは、葵以上の力があったから……」
『力で抑え込もうとして、どうして葵さんと話ができるようになるの。私はね、本当に葵さんと話をしただけ。でも、それまで誰もそれだけのことをしようとしなかったよね』
「呪い鬼とまともに話ができるわけないじゃないですか」
『鬼になる前からだよ。葵さんが生きてるときから。葵さんの話を、誰も聞こうとしなかった。……これは海のせいじゃないね。当時のこの町の大人、みんなの責任。神主さんだってそう』
礼陣の人々は、鬼の存在を認め、鬼を正しいと信じている。疑う人は考えを改めさせられた。鬼がいることと、それが正しいと思うことは、違うのに一緒にされた。美和が鬼ながら疑問を持ち、納得するために葵と接触することを決めたのは、改めようとする者がいなかったからだ。さらには、神主もとい大鬼すらも、美和の行動によって葵鬼の呪いが薄まるのではないかという賭けに出ていた。
『人間だった頃の葵さんと、家族ですらちゃんと話をしなかった。葵さんが拒んでたって部分もあるだろうけど、そうなる前に葵さんの話を聞くことができたんじゃないの。……でもそうなってたら、海たちは生まれてなかったかもね』
「たち、って……やっぱり知ってるんですね、妹のこと」
『ごめん、かなり前から知ってたよ。でも、私には伝える術がなかったから教えてあげられなかった。あんたの前に出るのも怖かったし。和人と似てる女の鬼が現れたら、複雑な気持ちでしょ?』
海から答えはなかったが、今まさにそうだ、という顔をしている。それを確認してから、美和は話を戻した。
『海は葵さんを恨んだかもしれない。自分を殺そうとして、お祖父さんを本当に殺してしまった呪い鬼だから、それは仕方ないよ。でもその事態は防げたかもしれないってこと、呪いはもっと早くに薄めることができたかもしれないってことは、知っておいていいんじゃないかな』
「知ってどうしろと? 葵を許せって?」
『許すのは無理でしょ』
あっさりと言う美和に、海は驚いているようだった。
「美和さんは、誰の味方なんですか。葵を庇ってるわけじゃないんですか」
『私は私の思うとおりに動いてるだけで、誰の味方とかじゃないよ。……あのね、自分の立場をあんまり強固にしすぎて違う考えを受け付けないのは、人間だと諍いのもとになるし、そもそも疲れるし、鬼だと簡単に呪いを持つことに繋がるよ。気をつけなさいな。ああ、受け入れるかどうかは別の話だから、そこは間違えないで』
すらすらと述べてしまってから、ちょっと説教くさかったかな、と思った。人間相手に説教をできるほど、長く生きているわけでもないのに。だが、海はそれに頷いた。
「……そう、ですよね。美和さんが全面的に正しいとは思いませんけど、受け付けることと受け入れることが別物だっていうのはわかります」
『うん、それならいいや』
「身に沁みましたからね、色々あって。……それに、今の美和さん、和人さんと似てたので」
何を今更、と言いかけて、それが彼の賛辞だということに気づいた。夜明けの白い光の中で、笑ってみせる。――こんなことならもっと早く出てくるんだったな。

礼陣の子供たちのあいだで人気の、美和鬼様。その名前を、普段海外に出ていて、ときどき礼陣に帰って来る、弟も耳にしていた。
「会いましたよ、美和鬼様」
夏祭りを翌日に控えたその日、久しぶりに会った後輩からその名を聞いたときには、少し驚いたけれど。
「いつか和人さんが言ってた、よく似た鬼、ですよね。たしかに似てました。本人は双子のお姉さんって言ってましたけど」
「え、海、いつ会ったの? ていうか、まだ姉とか言ってるの? 僕は自分が兄のつもりだったんだけど……まあ、少しはやっぱり向こうが姉なのかなとも思ったこともあるけど」
動揺すると、後輩に笑われた。そうして、つい先日、という答えを聞いた。
「ずっと和人さんと、それから……礼陣を見守ってきたんですね、あの人。俺のこともよく知ってるみたいでした」
「そりゃあ、僕と一緒に道場に通ってたから。僕は鬼の子じゃないけれど、どうしてか、美和だけはわかったんだよ」
「わからなきゃ、あんなこと言いませんよね。……良かったら、美和さんのこと聞かせてくれませんか?」
「僕も今の美和のことは聞きたいな。噂通りなら、元気にやってるんだろうけどね」
元気に決まってるじゃない、という声は、今は海に聞こえて、和人に聞こえない。けれども思い出と今を語りあってみれば、たしかに美和がいるのだった。



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posted by 外都ユウマ at 14:59| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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