2018年05月19日

商店街西、坂の上、縁結びアパート。(4)

 片付けをしていて、大変なことに気がついてしまった。礼陣大学の入学式は、学校ではなく公民館で行なわれるのだ。この町の公民館がどこにあるのか、方向音痴のわたしは直々に確認に行くことにした。それにしても、今のうちに気がついてよかった。
 地図とスマホと財布というおなじみのセットをバッグに入れ、部屋を出るとまたもや九鬼先輩に遭遇した。すでに驚かなくなっているあたり、わたしはこのアパートに順応し始めたのだろう。
「よう、今日はどこに?」
「公民館まで。わたし、入学式を公民館でやるって知らなくて。九鬼先輩なら公民館の場所知ってますよね」
「もちろん。案内してやろうか」
 暇そうなので、素直に案内してもらうことにした。九鬼先輩は二〇六号室から時澤先輩を召喚し、またこの三人で出かけることになった――のだが。
「おいおい、慧と一日、女の子連れてどこ行くの。ていうか、その子新入りじゃん?」
 階段を下りたところで、変な大人に捕まった。一〇一号室の前の段差に腰かけていたその人は、髪をツーブロックにして口の周りに髭を生やしている。人によってはかっこよく見えるのだろうけれど、正直その人には似合っていなかった。
「ヒロさん、どうも。外にいるのに煙草吸ってないなんて珍しい」
「この子は礼大の後輩です。つまりヒロさんの後輩でもあるってわけで、これから入学式会場の下見に行こうとしてるんです。まりちゃん、この人は礼大のOBで、ヒロさんていうんや」
 なんと、この見た目がちょっと残念な大人はわたしの先輩らしい。あんまり納得できないまま、わたしは自分の名前を告げて頭を下げた。ヒロさんと呼ばれているその人は「茉莉花ちゃんか、可愛いね」と褒めてくれたけれど、あまり嬉しさはなかった。
「オレは平松浩。五年前の春に礼大卒業して、そのままこの町の企業に就職してるから、このアパートには長く住み続けてる。九年も住んでいれば、新しく入って来た人を迎えるのも、人が出ていくのを見送るのも、もう慣れたもんだね」
「九年……」
 今のところ四年しか住むつもりのないわたしには、ちょっと大きな数字だ。言葉を失っていると、時澤先輩が問いをぶつけた。
「で、ヒロさんは煙草じゃないなら何してはるの。部屋、一〇二号室やないですか。ここ人んちの前ですよ。邪魔んなりますよ」
「邪魔とは失礼な。ちゃんと一〇一号室の住人に用があって待ってるんだよ。お前らが茉莉花ちゃんにいろいろ教えてるみたいに、オレも新入りの世話してんの」
 ヒロさんが言い返した直後に、一〇一号室のドアが開いた。身長はわたしより高いけれど、顔立ちはまだ幼い男の子が、ひょこりと出てくる。そういえば、高校生だっていっていたっけ。
「ヒロさん、お待たせ。あ、上の階の方ですか。こんにちは」
 男の子は部屋から出てドアをきちんと閉めると、わたしたちに向かってとてもきれいに一礼した。このびしっと決まった角度からして、体育会系なのかもしれない。こちらも思わず姿勢を正し、こんにちは、と声を揃えて返した。
「俺、錫木真生っていいます。この春から礼陣高校の一年生です」
「へえ、礼高か。じゃあ部活はもう決まってんの?」
「はい。礼高剣道部、ずっと憧れだったんです」
 先日は結局一歩出遅れて、話ができなかったそうだから、初めて見るはずの九鬼先輩の怖い顔。しかし少しも動じず、むしろ爽やかな笑顔で返事をする錫木君に、わたしは感心するばかりだった。時澤先輩まで「大した子やなあ」と呟いている。そして九鬼先輩はというと、「だからか」と何か合点がいったというように頷いていた。
 九鬼先輩はこちらを振り向くと、にやりと笑った。やっぱり私には、悪い笑顔に見えてしまう。
「わかったぜ、在さんが真生と笑いながら喋ってた理由」
「え、そうなんですか?」
 わたしがそのことを実はずっと気にしていたということが、九鬼先輩にはばれていたのだろうか。わたしには笑ってくれなかった、という問題の解決にはならないけれど、糸口くらいにはなるかもしれない。九鬼先輩の説明に、わたしは真剣に耳を傾けた。
「真生は礼高生、在さんの後輩にあたるんだよ。在さんには弟がいて、その人も礼高、しかも剣道部だった。その話で盛り上がったんだろ」
 九鬼先輩が錫木君に確認すると、彼は頷いた。
「そうです。不動産会社の常田さん、だと紛らわしいんですよね。在さんとは礼高と剣道のことで話が合って、引っ越してきた当日は楽しくお話させていただきました。在さんは高校時代に生徒会長も経験していて、弟さんは全国大会で団体準優勝したときのメンバーだったとか。強豪としての礼陣高校の話は、やっぱりいいですね」
 あの真面目な在さんと談笑するだけの話題を、錫木君は十分に持っていたということだ。不確かな「縁結び」なんかにうつつをぬかしていたわたしと違って、錫木君の話は在さんにとってリアルだった。つまり、そういう差だったのだ。
 それにしても、在さんの経歴もなかなかすごかったようだ。生徒会長……あまりに似合いすぎる。剣道の強い弟がいるという話まで加わると、なんだか物語の中の人みたい。
「真生、剣道部の見学に行くなら、そろそろ出たほうがいいぞ」
 ヒロさんの声で、わたしは我に返った。そうだ、わたしも公民館までの道を覚えなければ。
「錫木君、用事があったのに引き留めてごめんね。剣道、頑張って」
「ありがとうございます」
 またも礼をびしっと決める錫木君。こんなにしっかりしているのに、世話なんて必要なのだろうか。錫木君と一緒に歩きながら「さっきの、でかいのが慧、そんなにでかくないのが一日、女の子が茉莉花ちゃんな」と説明しているヒロさんを見ていると、溜息が出そうになる。
「本当に真生君の世話するの、ヒロさんでいいんやろか。そのうちヒロさんが真生君に世話されそうや」
 時澤先輩の容赦ない一言に、しかしわたしと、九鬼先輩までもが頷いた。

「アパートに住んでるやつには、もうほとんど会ったんじゃねえのか」
 公民館の場所を無事に確認した帰り道、九鬼先輩が言った。澄田さん、杉本さん、弥富さんにも会ったという話をすると、そう返ってきたのだ。
「そうですね。もう十人に会いましたから、あと三人でコンプリートです」
 わたしが頷くと、時澤先輩が手をぱたぱたと扇ぐように動かしながら苦笑いした。
「あとの三人には会うチャンスほぼないで。二人はほとんどアパートに帰って来おへんし、一人は逆に部屋から出て来おへん。まりちゃんがどうしても会いたいなら、運がないと」
 コーポラス社台は現在満室だ。だから住人は十四人いるはずなのだが、どう頑張ってもすぐに会えるのは自分を除く十人なのだという。九鬼先輩も渋い顔で頷いた。
「一〇六号室の人は先月から入ったんだが、その当日以来見てねえな。なんか放浪癖があるらしい。礼陣にいる親戚は、いつものことだから大丈夫って言ってたけど。一〇七号室の人は写真家なんだが、全国を回って撮影してるからなかなかアパートに戻らない。礼陣で個展を開くときにはいるから、そのときが狙い目。二〇五号室の人はそもそも人と会うのが苦手で、仕事も在宅だからなかなか出てこねえんだ」
 コンプリートは難しいな、ということだ。別にコンプリートしなくてもいいのだけれど、放浪癖があるという人や、部屋から出てこない人は、はたして大丈夫なのだろうか。顔も知らない他人のことを、つい心配してしまう。
 その三人を除く「会える人たち」には、わたしはもう会えたようだった。それなりに会話もしているし、九鬼先輩と時澤先輩に至ってはこうして一緒に出掛けるまでになった。たった数日で、こんなに人と知り合えるものだろうか。ただ、同じアパートに住んでいるというだけで。
「もしかして、ご利益?」
 コーポラス社台は、縁結びアパート。その噂が、もしもいい加減なものではなく、本当だとしたら。――なんて考えたら、きっと在さんには嫌な顔をされるのだろうけれど。
「そう思っててもいいんやないの」
 しかし時澤先輩は、わたしの呟きを微笑みで受け止めてくれた。
「ご利益だって信じたいやつは信じればいい。在さんが嫌なのは縁結びとか、それ目当ての人じゃないんだぜ、たぶん」
 九鬼先輩はわたしの考えていたことを読んだように言う。
 アパートの人たちとの出会いがご利益にしろただの偶然にしろ、わたしはあの場所で暮らしていくのだ。人と関わりながら、この町で大学生活を過ごすのだ。それだけは変わらない、たしかなこと。
 思い切り伸びをして、春の空気を吸い込んだ。始まりの季節の空気を。



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商店街西、坂の上、縁結びアパート。(3)

 集中して片づけをし、なんとかこれから暮らしていける状態になった部屋を見回す。やっぱり狭くはなったけれど、わたしは満足だ。四年間、ここで暮らしていけるという自信を取り戻す。
 今日は買い逃していたこまごましたものを揃えるために、そしてこの町の地理を少しでも覚えるために歩こう。地図とスマホと財布をバッグに入れて、肩にかけて意気揚々と玄関を出る。と、そこにはなぜか九鬼先輩がいた。
「よう、茉莉花。部屋は片付いたか」
「部屋はなんとかなりました。それより、どうしていつもわたしが外に出るタイミングでここにいるんです?」
「逆かもしれないぜ。俺が外にいるときにお前が出てくるのはどうしてだ?」
「それは……偶然ですよ」
「じゃあ俺がここにいるのも偶然だ。で、今日はどこに行くんだ」
 腑に落ちない回答はひとまず置いておくことにして、買いそびれたものを調達しに行くのだということを告げる。九鬼先輩は、今日はついてくるつもりはないようで、わたしが階段へ向かうのを「いってらー」と見送ってくれた。
 駅裏商店街でもらったクーポンの類を早速使うべきか迷ったけれど、結局は道を覚えることを優先して、学校のほうへ向かった。スーパーがその方向にあるはずだ。ちょっと入り組んだ住宅街を、秋華さんと一緒にコンビニに行った道を思い出しながら歩いていく。
 コンビニにはすぐに着いた。スーパーはこの先だ。看板は見えているので、その方向に行けば間違いないだろう。わたしは大きな看板を目指して、少し上を向いて再び進んだ。
 こっち側にも、いろいろな店がぽつぽつとあるようだ。文具や画材の店、小さな書店、住居かと思ったらビジネスホテルだったとか。コンビニももう一軒あった。そういえば神社が近いということだったけれど、それはどこにあるのだろうか。
 やっと見つけたスーパーよりも、その向かいにある喫茶店が気になる。「しろまる」という変わった名前で、表に出したイーゼルにかかった黒板には本日のおすすめが綺麗な字で書かれている。隅っこにある猫のイラストが可愛い。
「買い物帰りに寄ってみようかな。こんなお店、九鬼先輩なんていたら来られないだろうし。あ、時澤先輩なら似合いそう。秋華さんも、ビールもいいけどこういうお洒落なお店には興味ないのかな」
 名前を並べてみて、ここに来てからほんの少ししか経っていないのに、急に知り合いが増えたことを実感する。
 秋華さんは、わたしたちが商店街に買い物に行った日の夜も、外に出て空を見上げながらビールを飲んでいた。やっぱり知らない銘柄だった。
 他のアパートの人とは、まだ会っていない。新しく入ってきた男の子は見かけただけで、話したわけじゃない。在さんが笑顔になるような、何をあの子は持っていたのだろう。
 黒板を眺めながらあれこれ考えていると、喫茶店のドアが、からん、と音をたてて開いた。中から白いシャツに黒いエプロン姿の人が出てきて、わたしを見て微かに笑う。
「おすすめ、気になりますか?」
 ハスキーな、男性とも女性ともつかない声。清潔感のあるショートカットの髪と黒ぶちの眼鏡をかけた顔を見ても、性別は判別しにくい。お化粧をしていないようなので、男性だろうか。
「おすすめも気になりましたけど、猫の絵も可愛いなと思って」
「ありがとうございます。それ、自分が描いたんですよ」
「そうなんですか。白くてふっくらしてて、とても店の雰囲気に合ってますよね」
「店名の由来ですから。しろまるって、店長の飼っている猫の名前なんです」
 店には出てきませんけれど、と店員さんは視線だけ店内に向ける。何人かお客さんが入っているようで、ここから見えるカウンター席では眼鏡をかけた女の人が本を読んでいた。白いカーディガンと黒く長い髪、すっと伸びた背筋が上品だ。ああいう人がこういう喫茶店にいるって、似合いすぎる。
「良かったら、時間があるときにでも寄って行ってくださいね。お待ちしてます」
「今! 今あります! お茶していきます!」
 店内に戻ろうとする店員さんの背中に、わたしは思い切り叫んでしまった。店内にいた上品なお客さんまでもがこちらを見て、目を丸くしている。ああ、またやってしまった。でも、帰りは荷物がいっぱいになるから、喫茶店に寄るなら今のほうが良い。店員さんがクスッと笑って、「いらっしゃいませ」と通してくれた。
 店内にはごく小さな音量で音楽が流れている。これはジャズピアノの音色だろうか。お客さんはさっきから気になっていたカウンターの上品なお姉さんと、テーブル席の老夫婦らしき人たちと、一人でテーブルの上に紙を広げている女の人。わたしは思い切ってカウンター席についた。
 メニューにはコーヒーとお茶とケーキが数種類。とりあえず、おすすめにあったドライベリーとハーブのお茶を頼む。それからもう一度ゆっくり店内を見回すと、そこかしこに猫の絵や写真、グッズがあった。わたしは犬は苦手だけれど、猫は大好きだ。店長さんとは気が合いそう。
 まもなくして透明なポットと一緒に出されたハーブティーは、甘くて爽やかな香りがした。春の匂いだ、と思った。
「初めて見るお客様ですね。もしかして、礼陣に来たばかりですか」
 カウンターの向こうから、穏やかでのんびりとした声の女の人が訪ねる。この人も、白いシャツに黒いエプロン姿が似合っていた。
「ついこのあいだ来たんです。四月から礼陣大学に通うので」
 甘いハーブティーの香りと味を楽しんでいると、クッキーののった小皿が差し出される。「おまけです」と、入口で会った人がこちらも穏やかな笑みで言った。
 学校からも近い場所で、素敵な喫茶店を見つけてしまった。今日はいい日かもしれない。わたしはさっくりと甘いクッキーを、時間をかけて味わった。

 買い物を終えてアパートに帰ると、奇妙な光景が繰り広げられていた。
「九鬼先輩、何してるんですか?」
「茉莉花! 助けてくれ、こいつしつこいんだ!」
 わたしの部屋の真下、一〇八号室の前で、九鬼先輩が女の人に抱きつかれていた。いや、あれは組み付かれているといったほうが正しいかもしれない。九鬼先輩のがっしりとした体に、細いけれど筋肉が程よくついている女の人が絡んでいる。
「いいじゃんか、慧。ちょっと付き合えよ。このアタシが早上がりで退屈してるんだから遊べー」
「くっつくんじゃねえっての! あー重い……」
「そこの子も一緒に遊ばない? でもプロレス技かけるのは可哀想か、せっかくふわふわしてるし」
 たしかにわたしはプロレスなんてできない。できればこのまま何も見なかったことにして立ち去りたいところだけれど、九鬼先輩がこれまで見せることのなかった懇願の眼差しを向けてくるので、無視できない。仕方なく二人に近づいて、おそるおそる言った。
「あの、九鬼先輩が嫌がるってよっぽどだと思います。やめてあげたほうがいいのでは」
「そう? じゃあふわふわちゃんに免じて解放するわ」
 女の人はあっさりと九鬼先輩から離れる。自由になった彼は、女の人から距離をとって、けれどもそこから逃げ出すことはなかった。
「助かったー……。茉莉花が来なけりゃ、乙に殺されるところだった」
「殺しゃしないよ、失礼な。で、ふわふわちゃんは慧の何? 彼女?」
「全然違います。隣に越してきたんです」
 わたしが即座に首を横に振ると、九鬼先輩はちょっとがっかりした顔をしていた。ごめんなさい、親切だけれど、あんまり好みのタイプではないのです。
 そして女の人は、そんな九鬼先輩を見て大笑いした。ひとしきり笑ったあとで、わたしに自分の名前を告げた。
「アタシはこの一〇八号室に住んでる、構っての。名前は乙」
「宝泉茉莉花です。真上に越してきたので、ご迷惑おかけするかもしれません。よろしくお願いします、構さん」
「こいつにはあんまり気を遣わなくてもいいんだぞ、茉莉花。肉焼くときくらいしか活躍しねえし」
「黙ってろ、慧。肉焼くのは大事な役割でしょうが。たまにアパートの都合つく人同士で集まって、焼き肉とかするんだよ。今度やるときは茉莉花ちゃんも誘うね」
 このアパートの住人は、今まで会った人はみんな仲が良かったけれど、構さんと九鬼先輩は特に仲が良さそうに見える。たぶん、構さんが九鬼先輩のことをものすごく可愛がっているのだ。地元の、弟がいる友達によく似ている。九鬼先輩でも勝てない人はいるんだなあ、としみじみ感心してしまった。
「もういいだろ、乙はこんなやつってことだけ覚えれば。それよりまた随分買い物してきたんだな、上まで持って行ってやるよ」
 ひょい、とわたしの手からエコバッグを取り上げて、九鬼先輩は階段のほうへ向かう。わたしが構さんに一礼すると、彼女はにいっと笑って手を振った。
 階段を上りながら、九鬼先輩はわたしの顔をちらりと見る。
「なんか機嫌良さそうだな、茉莉花」
「はい、ご機嫌です。素敵なお店を見つけたんですよ。『しろまる』っていう喫茶店なんです」
「ああ、あそこか。周りの女子、あの店好きなんだよな」
 アパートの女性も足繁く通う人気店らしい。ということは、秋華さんも行くのだろうか。もしかして、わたしがまだ知らないアパートの住人が、今日のあの場にいたりして。
 なんてことを妄想して一人で笑っていると、九鬼先輩が変なものを見るような目でわたしを見ていた。今更真面目な顔をしてももう遅いので、そのまま笑ってごまかしておいた。

 夜になって、買ってきたものを使ってこまごましたものを整理していると、チャイムが鳴った。部屋に誰かが訪れていることを報せるものだけれど、わたしが来てから使われたのは初めてだ。ドアののぞき穴からそっと外を見てみると、九鬼先輩と、もう一人知らない男の人がいた。念のためチェーンロックをかけたままドアを開ける。
「どちらさまですか?」
「茉莉花に紹介しとかなきゃいけねえ、大事な人を連れてきた。もう晩飯は食ったか?」
 九鬼先輩の問いに、首を横に振る。片付けに夢中になっていて、夕食はとっていなかった。これから作るとしても、冷凍しておいたご飯を温めて、インスタントの汁物を付けるだけになるだろう。
 わたしの返事に、九鬼先輩と、そして男の人もにやりと笑った。今度は何をしようというの。
「食ってないならちょうどいい。この人はアパートの食料事情に関わってくる人だ。ここの住人ほぼ全員に、作りすぎたおかずを分けてくれる、ありがたい存在なんだぜ」
「はじめまして、宝泉さん。慧から話は聞いてるよ。俺は一〇五号室の近江健太」
 九鬼先輩よりも背は低いけれど、大人に見える。それもそのはず、よくよく聞いてみれば近江さんはすでに大学を卒業した人で、昨年からこの町のちょっと大きな企業でお仕事をしている人だということだった。
 おかずを分けてくれるのは、趣味の延長。きちんと火を通した献立を、日頃のストレス発散に、ときどき大量に作っては住人に配り歩いているのだという。今日のおすそわけは魚の煮つけだった。
「もらっちゃっていいんですか? すごく良い匂いがします」
 空腹を感じたわたしの警戒心は薄れていて、ドアのチェーンロックを簡単に解除する。近江さんから差し出されたタッパーはまだ温かく、手にじんわりとその熱を伝えていた。
「男の料理だし、もし宝泉さんが嫌ならそれでいい。でももし食べてくれるなら……」
「食べます! いただきます! 魚って独り暮らしだとなかなか食べられないんだなって思ってたところだったんですよ。しかも煮つけ、すごく美味しそう」
 涎が出そうになるのを我慢して、タッパーを受け取る。これは片づけをすぐに中断し、早くご飯を解凍しなければ。本当は炊きたてがいいのだけれど、今回ばかりは仕方がない。
「良かった、喜んでくれて。タッパーは俺の部屋のドアに袋をかけておくから、そこに入れておいて。汚れたままで全然かまわないから」
「そんな、ちゃんと洗って返しますよ。ありがとうございます、近江さん」
 アパートの食料事情。そういえば構さんも肉を焼くとか言っていた。案外、みんなで同じものを食べる機会はあるのかもしれない。このアパートの人間関係は、なかなかに密だ。
 近江さんの作った魚の煮つけは、もちろん美味しかった。生姜醤油の甘辛さでご飯がすすむ。こんなに美味しいものならいつだって食べたいけれど、わたしからも何かお返しをしなくては。そのためにもう少し凝った料理を作れるようになろうと、小さな決意を固めたのだった。
 タッパーは忘れないうちにすぐに返そうと思って、丁寧に洗って持って行こうとした。すると階段の下で、三人ほど人が集まっているのに遭遇した。みんな同じタッパーを持っている。もしやこれは、と階段を駆け下りると、その音にその人たちが振り返る。そして、お互いに「あ」と声をあげた。
 三人とも、昼間に顔を見ている。そしてその人たちも、わたしを見ていた。あの喫茶店「しろまる」で。一人はテーブル席で紙を広げていた女の人、一人はカウンター席で本を読んでいた上品な女性、そしてもう一人は「しろまる」の出入り口で会った店員さんだった。
「君、昼間に店に来てくれた子だね」
「私も憶えてるわ。一緒にカウンター席に座った子」
「初めて来た子だから、あたしも作業の合間にちらちら見てました。まさか同じアパートの住人だったとは」
 はい、わたしもびっくりしています。つまり、あの店にいた人の大半が、コーポラス社台の住人だったというわけだ。まるでドッキリか何かの企画みたいな展開に、みんなで笑ってしまった。
 タッパーを持ったまま、その場で自己紹介をする。傍から見たら何の集まりか、不審がられるかもしれない。
「あたしは二〇一号室の澄田悠奈。去年、北市女学院大学の芸術学部を卒業して、今はイラストレーターを目指して修行の日々です。平日は普通の会社員ですけど」
 テーブルに紙を広げていた彼女が、にっこり笑った。
「一〇三号室、杉本千穂です。北市女学院大学院の一年生。文学研究を専攻にしています」
 細いフレームの眼鏡をかけた、髪の長い上品なその人が、小さくお辞儀をする。
「自分は弥富ナナセ。部屋は二〇二号室。喫茶店で働いています、どうぞご贔屓に」
 黒ぶち眼鏡のハスキーボイスが、穏やかに告げる。
 わたしは三人の圧倒的なレベルの高さを感じつつ、それを笑ってごまかしながら言った。
「二〇八号室に越してきました、宝泉茉莉花です。礼陣大学の一年生になります。どうぞよろしく」
 だって、そうでしょう。秋華さんも言っていた、北市女学院は賢い女の子が通うところだと。あのあと自分でも調べたのだけれど、礼陣大学とは比べものにならない偏差値の高さだった。そこの卒業生と、院生と、そして学歴こそわからないけれど素敵な喫茶店で働いている大人。それに比べたら、大学に二つ落ちてやっとのことで礼陣大学に引っかかったわたしなんて、恥ずかしい。この三人には本当のことは言えないな、と思った。
「とりあえず、タッパー返してきましょうか。近江さんって本当に料理上手よね」
「ですよねー。あたしの先輩から聞いた話なんですけど、健ちゃんの料理の師匠は、以前このアパートに住んでた人らしいです」
「家庭料理が得意なんだよね、近江君は。宝泉さんは自炊してるの?」
「今のところ、ご飯を炊いてインスタントの味噌汁つけるばっかりです」
 一〇五号室のドアにはちゃんと袋が提げてあって、わたしたちは順番にタッパーを入れてから、ドアに向かって「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
 まだここの人のことはよくわからない。でも、もしかしてみんなすごい人なんじゃないだろうか。わたしだけが平凡あるいはそれ以下だったらどうしよう、とこっそり悩む夜になった。



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商店街西、坂の上、縁結びアパート。(2)

 引っ越し荷物を片付けながら、生活用品を揃えていかなければならない。越してきて二日目は、すぐに使うものと春物の服を出して、区切りがついたところで買い物に出かけた。とはいえ方向音痴がすぐに直るわけはないので、今日も地図をくるくる回しながら道を確認する。
「スーパーはあっち、ホームセンターは……ちょっと遠そう」
 今度こそ無理をせずにタクシーを使った方がいいのでは、でもそんなことをしていたら買い物をするためのお金がなくなってしまう。アパートの前で悩んでいるわたしの肩を、不意に誰かが、ぽん、と叩いた。
「どうした、どっか行きたいのか」
「ぎゃああ!」
 重低音と、振り向いた先の真っ黒な大きい影。魔物の出現に悲鳴をあげたわたしに、当の魔物は目を丸くして手を離した。
「なんだよ、そんなに驚くなよ」
「す、すみません。わたし、今まで周りに九鬼先輩くらい大きい人っていなかったので」
 九鬼先輩。その人が礼陣大学の学生であることは、昨夜秋華さんが教えてくれた。今度二年生になるというからわたしの一つ上の学年だ。九鬼先輩はわたしが後輩になることを喜んでいるようだったけれど、こちらとしては怖い先輩がいることが判明してしまい不安が心に積もっていく。日常生活だけではなく、学校生活までこの人と一緒だなんて。
 けれども先輩は先輩だ。わたしが「九鬼先輩」と呼ぶと、「先輩って響き、いいな」と満足げに頷いていた。そのあと秋華さんに「感動しすぎ」と笑われていたけれど。
「で、どこに行きたいんだ。目的は」
 我に返ったときには、地図は九鬼先輩の手に渡っていた。わたしが付けたマークを指でなぞり、首を傾げている。わたしは彼の隣に並んで、ちょっと高い位置にある地図を覗き込んだ。
「ホームセンターとかスーパーとか、生活用品が揃えられそうなところに行きたいんです。洗濯洗剤やハンガーなんかは急務です。早く洗濯機使ってみたいので」
「洗濯したいんじゃなく、洗濯機を使いたいのか。変なやつだな。スーパーはともかく、ホームセンターは遠いぞ。全部近場で済ませられるいい方法があるんだが」
「え、そうなんですか?」
「しかもお得だ」
 にやり、と笑う九鬼先輩はやっぱりちょっと怖い。けれども晴れた午前の明るさのおかげか、今日はちょっと頼もしかった。
 お得情報についてもう少し聞きたいと思ったら、九鬼先輩はわたしに地図を返し、アパートに戻っていった。言うだけ言って帰るつもりなのか、とムッとして目で追いかけていたら、しかし彼は自分の部屋ではなく、その隣の二〇六号室のドアを叩き始めた。
 そこの住人らしい人はすぐに出てきた。癖っ毛がふわふわしているのが遠目にもわかる、九鬼先輩よりも背の低い男の人だ。大きな欠伸をして、不躾な訪問者を見上げている。
「もう、何なん? 僕、休みの日は昼までだらだらしてたいんやけど」
「緊急事態だ。女子の買い物をサポートするぞ」
 九鬼先輩が言い切る。サポートって、そこまで頼んでないのに。戸惑うわたしを、二〇六号室の住人が首を伸ばすようにして見ている。なんだか恥ずかしい。
「女子ってあの子? あー、なんやふわふわしてかわいい子やね。慧ちゃん、ああいう子が好みなん?」
「馬鹿、好みだとかそういうのは関係ねえんだよ。とにかく大量に買い物あるんだったら、人手が必要だろ。たった一人で引っ越してきてんだから」
「それもそうやね。僕も慧ちゃんに助けてもらったし、ここで情けを巡らしとくのは道理やな」
 わたしが口を挟む隙どころか距離もないまま、話はあれよあれよという間に進んでいく。なにしろ九鬼先輩の声は大きいし、相手も口調のわりにはっきり話すので、内容はここからでも丸聞こえだ。二人は階段を下りてわたしのところへやってくると、「それじゃ行くか」と歩き出した。
「ちょっと、ちょっと待ってください先輩! どうして先輩も行くことになってるんですか。あと、その人は誰ですか。知らない人を付き合わせるのは悪いですって!」
 駆け足で追いついたわたしに、九鬼先輩はたった今思いついたように、そうだったな、と言う。そして隣の癖っ毛の彼を指さした。
「こいつは大学の同級生で、時澤ちはる。部屋が隣ってこともあって、しょっちゅうつるんでる」
「どうも、時澤です。ちはるは一日って書くんやで。これからよろしく、ええと……」
「宝泉茉莉花だ。俺のことをめちゃめちゃ怖がってて、秋華さんとはもう一緒にコンビニに行く仲」
 わたしが自己紹介をするまでもなく、九鬼先輩が人間関係までも話してしまう。時澤先輩はそれを自然に受け入れていて、「よろしくなあ、まりちゃん」なんてぽわぽわと微笑んでいる。同級生というだけあって九鬼先輩のペースに慣れているのかもしれないけれど、こっちは完全に置いてけぼりだ。
「あの、本当に買い物手伝うつもりなんですか? 見ず知らずのわたしなんかの」
「自己紹介したんだし、同じアパートの住人だし、もう見ず知らずじゃねえだろ。俺たちがいれば、重い物も楽して持って帰れるぞ」
 九鬼先輩はやる気満々、時澤先輩も頷いている。仕方ない、男の人がいると買いにくいような物は後回しにするとして、ちょっと大きい物やかさばるような物はお願いしよう。正直なところ、重い物を持って歩き回ることには不安があった。
「じゃあ、よろしくお願いします。それで、お得ってなんですか?」
 ようやく尋ねることができたわたしに、九鬼先輩がまたにやりと笑った。
「まあ、ついてきなって。すぐ近くだからさ」
 九鬼先輩と時澤先輩が並んで歩くのを、わたしが少し遅れて追いかける。三人で坂を下るあいだ、九鬼先輩は天気のことやご飯のことをずっと喋っていて、時澤先輩はそれに相槌を打ち続けていた。

 子供が駆けまわり、大人はそこかしこで井戸端会議。軒を連ねる店からは威勢のいい掛け声が聞こえてくることもあれば、店の人とお客さんたちがまったりと話している姿も見える。幟に暖簾、看板がずらりと並ぶそこは、昨日わたしも通ってきた商店街だった。
「礼陣駅裏商店街だ。歴史は長く、老舗も多い。でも時代に合わせて営業形態を変えたりしていて、常に工夫することを考えている。店が生き残ることと客を大切にすることをしっかり両立させている、元気な商店街なんだぜ」
 九鬼先輩が自分のことを話すみたいに、自慢げに胸を張る。たしかにわたしの地元にある寂れた駅前商店街よりも、随分と賑わっているようだ。
「流行のものや若者が好みそうなものは、たしかに駅前の店や、町の南側にある川向こうのショッピングモールのほうが多い。でも、サービスと良いものを取り揃えることに関しては、この商店街だって負けちゃいない」
「慧ちゃんは商店街贔屓やから、買い物はできるだけここでって決めてるんやで。生まれ育った町だから、馴染んでるしな」
 僕もあっちの店のコロッケとか好きなんや、と時澤先輩が通りの向こうを指し示す。こじんまりとした総菜屋の、大きな看板が見えた。けれどもわたしは、総菜屋よりも時澤先輩の言葉のほうが気になっていた。
「九鬼先輩、ここが地元なんですか?」
「ああ、生まれも育ちも礼陣だ。町の人にはガキの頃から世話になってる」
「なのに独り暮らしを? 地元なら、実家から大学に通えるんじゃないですか」
「だってしてみたいじゃん、独り暮らし」
 そう言って九鬼先輩は、商店街の大きな道を真っ直ぐに歩いて行った。もう行く店は決まっているらしい。わたしの用事なのに。時澤先輩に促されて、あとをついていく。
 子供の頃からこの町に住んでいるだけあって、九鬼先輩が商店街を歩くと、色々な人に声をかけられている。立ち話をしていた奥様も、彼を見つけると「慧君、元気ー?」と手を振る。店の人も「よお、慧じゃねえか。ちょっと見ていけ」と誘う。九鬼先輩も、怖い顔ながら、それらに軽妙に返事をしていく。どうやら彼は、商店街の人気者のようだった。
 わたしと時澤先輩はその後ろを歩き、ときどき話しかけてくる人に挨拶を返した。驚くことに、多くの人がわたしがこの町に来たばかりであることを見抜いた。中には初日に迷子になってうろうろしていたのを見ていた人もいて、恥ずかしい思いもした。
 そして誰もが口を揃えて言うのだ。――慧ちゃんと知り合いになれたなら、この先安心だね。
「九鬼先輩は有名人なんですね」
「慧ちゃんが有名というより、この町の人が住民をよく覚えてるんや。新しく入ってきた人はすぐわかる。僕も去年は、今のまりちゃんみたいやった」
 噂がまわるのも早いから気をつけたほうがええで。時澤先輩がいたずらっぽく笑う。つまり、ここで悪いことはできないということだ。もしかしたら、わたしが迷っていたことも、みんなとっくに知っているのかもしれない。
 しばらくして、九鬼先輩が店に入った。入口の上に「竹村商店」という古めかしい看板がかかっている。レトロな外観に反して、中に入ると最近の規模の大きいドラッグストアのようだった。床も壁も、商品棚もきれいにしてある。食品や日用品がずらりと並び、ここなら大抵の物は揃いそうだ。
「あれえ、慧君じゃないか。今日は何が入用だい」
 この店の人とも九鬼先輩は親しいらしい。「俺じゃなく、こいつの用事」とわたしを指さすと、店の人は他の町の人と同じように、すぐに「おや、初めて来るお嬢さんだ」と破顔した。
「洗剤は置いてるよな。ハンガーとかどこだっけ」
「あっちの棚に何種類か置いてるよ。ハンガーラックも一緒にある。折りたためて便利だよ」
 引っ越してきた人の対応には慣れているのだろう。何が必要なのか、この店の人には全てわかっているようだった。わたしは教えてもらった通りに洗剤を選び、ハンガーをかごに入れた。大きいハンガーラックは九鬼先輩が持ってくれる。たしかに一人じゃ買い物は難しかったかもしれない。
 他にも日用品をいくらか、一緒にレジカウンターに持っていく。店の人が丁寧かつ素早くレジを打ち、出した値段を見て、わたしは目が飛び出るかと思った。頭の中で計算していた値段より、あまりに安すぎたのだ。
「あの、間違ってませんか。こんなに安いはずないですよ」
「初めて店に来た人は、こうやっておまけしてるの。また来てほしいからね、初回サービスだよ」
 またどうぞ、とクーポンを渡される。次回以降に使うと、一割引きになるそうだ。わたしがぽかんとしているあいだに、ハンガーラックの箱は九鬼先輩が、他の荷物は時澤先輩がそれぞれ持っていた。
「まだ買うのあるんだろ。次行くぞ、次」
「ありがとうございます。でもそんなに大きいの持って、大丈夫なんですか」
「次の店で預ければいい。この商店街じゃなきゃ、こういうことはできねえよな」
 お得だろ、と九鬼先輩が笑う。時澤先輩も「僕も去年は驚いたなあ」とのんびりとした笑みを浮かべている。商店街といい、不動産会社の社長さんといい、この町の人には「おまけ」が当たり前のようだ。
 九鬼先輩の言葉に甘えて、そのあとも食料品や日用品を買いこんだ。どの店の人も例外なく「おまけ」をくれて、わたしの財布には予想よりも多くのお金が残っていた。
「なんだか申し訳なくなっちゃいますね。これじゃお店が損するじゃないですか」
「これから通って、たくさん買えばいい。それを狙っての初回割引だからな」
「あとで初めて来たふりしても駄目なんだよね、すぐばれるから」
 これから通う。この町の人間として、通い続ける。ここにいる人たちの行動は、それを見越してのものなのだと九鬼先輩は言う。こんなにサービスされてしまったら、たしかに通わないわけにはいかないだろう。だいたいにして、住宅街の中のスーパーやコンビニを除けば、ここが一番近い買い物の場で、あちこちを見てまわる楽しみを得られる場所でもあった。
 買い物を終えてから、先輩たちが総菜屋でコロッケを奢ってくれた。三つ買ったら、一つおまけがついてきて、それもわたしが貰ってしまった。「初めてのお客さんだから」と店の人がコロッケを包みながら言っていた。勧められるままにその場でかぶりつくと、衣はサクサク、じゃがいもはホクホク、ひき肉はジューシー。時澤先輩がここのコロッケを好きな理由が十分すぎるくらいわかった。
「今日はありがとうございました。わたし一人だったら、こんなに一気には片付きませんでした」
「だから助け合うんだよ。俺はこの町が好きで、ここに来たやつにも好きになってほしいから、新入りにはすぐに話しかける」
 逃げられたけど、と口をとがらせた九鬼先輩に、わたしは慌てて「すみませんでした」と頭を下げた。するとその下げた頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜられる。
「冗談だよ」
「もう、なにするんですか。髪ぐちゃぐちゃになったじゃないですか」
「僕が直してあげる。慧ちゃん、力いっぱい撫ですぎや」
 ああ、今のは撫でられていたのか。ぐしゃぐしゃにされすぎて、言われるまで気づかなかった。わたしの髪を直してくれる時澤先輩の手のほうがずっと優しくて、こっちのほうが撫でられているみたいだった。

 アパートに戻ると、引っ越し業者のトラックが停まっていた。業者さんがひっきりなしに、一階の階段に一番近い部屋に出入りしている。そしてその部屋、一〇一号室の前では男の子と在さんが談笑していた。――あのわたしの前では愛想笑いの一つもしなかった在さんが、笑っていたのだ。
「お、最後の一人だな。今回は茉莉花と、もう一人来る予定だったんだ」
「姿勢の良い男の子やね。たしか高校生って噂だよな」
 九鬼先輩と時澤先輩が、在さんと男の子に挨拶をしてから階段を上って行った。わたしも「こんにちは」と会釈をする。男の子は元気よく「こんにちは!」と返してくれ、在さんもこちらに頭を下げる。その表情は、男の子と話していたそのまま、微笑んでいた。昨日、わたしに接していたときとは別人のようだ。
「常田さんって、あんなふうに笑うんですね」
 部屋の前まで荷物を持ってきてもらってから、わたしは声を潜めて呟いた。すると九鬼先輩は当たり前みたいな顔をして頷いた。
「普通に笑うぜ。いつもは真面目に仕事してるから表情硬いけど、雑談すると楽しそうにしてる」
「新しく来た子とも、話が合ったんやね。いつも以上に盛り上がってはる」
 時澤先輩も柵からちょっと乗りだすようにして、にこにこしながら階下の様子を眺める。業者さんたちの声の中に混じって、二人分の笑い声が、わたしにも聞こえた。わたしのときにはなかった声だ。つい昨日のことなのに、何か月も前のことのように感じる。
「先輩たちがここに引っ越してきたとき、常田さんの様子ってどうでした?」
「大事なことは真面目に説明してたな」
「そうそう、必要事項は淡々と話すんよね。でも引っ越してきた理由の話になると、笑ってくれはる。トラブルあったらすぐ来てくれるし、感じ良い人やで」
 そうでしょうか、と言いたいのを呑み込んだ。時澤先輩がいうような人は、昨日わたしの前には現れなかった。一応在さんのお祖父さんだという不動産会社の社長さんと間違っていないかどうか訊いてみたけれど、たしかに在さんが担当だったという。社長さんは実際に不動産会社に行って会うか、メールでやりとりをするかしか関わる方法がないと、九鬼先輩も言った。そのメールがとても面白いということも。
「メールは正造さん……社長さんのほうが断然面白い。在さんのメールはガッチガチだな」
「でしょうね。本当に真面目なんですもん、あの人」
 わたしは時澤先輩の隣で柵に寄り掛かり、まだ男の子と話をしている在さんを見た。笑顔は爽やかだ。まさにわたしの好みそのものなのに、昨日は一度も見せてくれなかったその表情。
 わかっている。たぶん、わたしがこのアパートへの入居を決めた理由が「縁結びのご利益」にあったからだ。秋華さんも言っていたけれど、在さんはその手のことを意地でも信じない。そしてそんなことで簡単に物件を選んでしまうような人も、あまり好きではないのだろう。
 でも、ただの愛想笑いでもいいから、見せてほしかったな。溜息を吐きながら、わたしは部屋の鍵を開けた。
 荷物を部屋に入れてくれた九鬼先輩は、そのまま駆け足で階段に向かった。新しい住人と自分も話したいのだろうと、時澤先輩が言う。わたしに話しかけようとしてくれたように。わたしは逃げてしまったけれど、あの男の子はすぐに九鬼先輩とも打ち解けそうだ。
「時澤先輩。先輩も、九鬼先輩に話しかけられて仲良くなったんですか?」
 わたしが呼び止めると、時澤先輩はにっこり笑って首肯した。
「そう。隣に引っ越してきたから、挨拶くらいはせなと思って外に出たら、もうそこで待っとった。あいつのほうが二日くらい早く入居してたんや。同じ学校やし仲良くしよかって、握手してからはほぼ毎日部屋を行き来してる」
「やっぱり握手するんですね」
 それが九鬼先輩の挨拶なのか、と思うと、ちょっと面白い。見た目に反してフレンドリーなのだということは、今日一日だけでもよくわかった。あの人懐っこさを少しでも在さんに分けてくれたら、と思っていたら、在さんも誰かと笑って話せるという事実を見た。
 何が本当なのかわからない。腕組みをして唸るわたしに、時澤先輩が「大丈夫?」と尋ねる。
「まりちゃん、具合悪い? 今日いっぱい歩いたもんなあ」
「違うんです。怖いと思っていた九鬼先輩が実は怖くなくて、わたしにはちょっとも笑ってくれなかった在さんが普通に笑顔で会話してることに、混乱してるだけです」
「あー、まりちゃんには笑わんかったんか、在兄さん。あの人照れ屋だから」
 そんなふうに簡単に言って、時澤先輩は「またね」と自分の部屋に戻っていった。ありがとうございました、と見送って、わたしも部屋に入ってしまうと、しばらく静けさが落ち着かなかった。



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posted by 外都ユウマ at 11:19| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月29日

商店街西、坂の上、縁結びアパート。(1)

 なんでもいい、なにものにでも縋りたい、そういう気分だった。
 第一志望の大学に落ち、第二志望もほぼ絶望的。わたしを掬ってくれたのは、念のために受けていた、進路相談担当の先生が薦めてくれた一校だけ。そんな状況で仕方なく、そこへ通うための準備を進めていた。実家からは遠い、田舎の町に学校はある。入学手続きと同時に、家探しをしなければならなかった。
 その町の不動産会社に問い合わせ、これでいいか、とあまり考えずに家賃の安いワンルームについてメールで尋ねてみたら、すぐに返事があった。

 宝泉茉莉花様
 このたびは物件についてお問合せをいただき、ありがとうございます。
 お問い合わせいただいた「コーポラス社台」には、現在二部屋の空きがございます。詳細を添付いたしましたので、参考にご覧ください。
 また、この物件にはおまけがございます。「コーポラス社台」は神社に近い立地でありまして、縁結びのご利益があるともっぱらの評判です。ぜひとも入居をご検討いただければと思います。
 常田不動産 担当:常田

 縁結びのご利益。その部分を繰り返し読んで、わたしはそろそろと添付されていた資料を開いた。


 思わず呻きが漏れる。地図の見方はこれで正しかったのだろうか。すでに駅を出て十五分が経過した。しかし「駅から徒歩十五分」のはずの目的地は、まだ見えない。
 地元から、列車を乗り継いで、降り立った駅。駅名の「礼陣」は、この町の名前でもある。春休みの駅前は子供からお年寄りまでいろいろな人がいて賑やかだ。駅前は全国展開の大きな店や、立派なビルが並んでいる。思っていたよりも「田舎」ではなさそうだ。
 けれども、私が向かったのは駅の裏。そこに東西に伸びる商店街があることは、不動産会社からのメールと、自分でも調べてわかっている。でも、問題はその先だった。地図上では整然としている商店街は、実際は細い道があちこちにあって、たぶんどこに行ったらどんなところに着くのかは、この町に住んでいる人にしかわからない。
 キャリーバッグをカラカラと引いて、ずっと同じ場所を行ったり来たりしているわたしをみかねたのか、とうとう親切な人が声をかけてくれた。
「礼陣大学方面? 社台のアパート? それなら加藤パン店の脇の坂道を上って行ったらすぐだよ」
「それは聞いて知ってるんです。でも、そのパン屋さんが見つからなくて」
「商店街の西のほうだし、少し歩くからね。この道をまっすぐ行って――」
 丁寧な道案内のおかげで、目印はやっと見つかった。「加藤パン店」の看板と、店から流れてきて鼻腔をくすぐる香ばしい匂い。わたしはホッとすると同時に、ごくりと唾を呑み込んだ。
「ちょっとだけなら……。あ、でも、約束の時間とっくに過ぎてるし。早くしないと運送屋さんも来ちゃうから、先に行かないとだめだ」
 独り言をこぼしながら、誘惑を振り切る。把手をぎゅっと握りなおしたキャリーバッグを引いて、パン屋の脇からのびる坂道――これはすぐにわかった、まさに真横だったのだ――を歩く。
 パン屋以外にも食べ物の匂いは、商店街に入ってからずっとまとわりついてきていて、それもわたしの足を止めさせる原因になっていた。店を覗こうかどうか迷って、ふらふらして道を見失うのだ。
 空腹を感じると、道のりは余計に長く感じる。目印が見つかっただけで、ゴールはまだ先だ。
「やっぱり不動産屋さんまで行けばよかったかな。現地のほうが近いっていうから、つい行けますって言っちゃったけど」
 こんなことなら意地を張らずにタクシーでも拾えばよかったな。印刷して持って来た地図をもう一度見て、坂をまた上る。間違っていなければ、この先は住宅地になっている。そして目指す建物にも、大きな目印があるはずだった。
 さほど急な坂ではなかったけれど、列車を乗り継いで遠くから来て、さらにここまでさまよった足にはこたえる。早く到着して休みたい。大きく一つ息を吐き、もう一歩大きく踏み出して、わたしは目印を探すために顔をぐっと上げた。
 はたしてそこには、大小さまざまな住宅が軒を連ねていた。どこを見ても縦や横に長い建物があって、そこには窓やドアがたくさん、規則正しく並んでいる。これらはみんな、マンションやアパート、下宿なのだ。そして奥にある最も大きな建造物は、外観からしてこれから通うことになる礼陣大学。サイトで何度も確認したとおりだった。
「ああ、ここが」
 ようやく少し、実感が湧いてくる。ここがわたしがこれから住む町なんだ。少し緩んだ口の中で小さく呟いた途端、そこに突然現れたかのように目に入ったアパートがあった。
 壁には単純明快な書体で大きく「コーポラス社台」と書かれている。これが探していた目印だ。わたしはキャリーバッグの把手を収納し、両腕に抱え込んで走った。限界に近かったはずの足は、そこまでちゃんと動いてくれた。
 ここが目指していた場所。やっと着いた。不思議な感動ににやけた表情を、建物の二階通路から、おそらくわたしを待っていたであろう人にばっちり見られた。彼は喜ぶでもなく、安心するでもなく、ただ真面目そうな表情でこちらへ声を投げかけた。
「宝泉さんですか。お待ちしていました」
 低すぎない穏やかな声と、すっきりとした顔立ちは、ちょっとばかりわたしの好みのタイプだった。
「さすが『縁結びアパート』……」
 さっそく素敵な男性に出会えるなんて。期待に膨らむ胸を抱えたバッグで強く押さえ、わたしはアパートの階段へ向かった。

 築二十年、耐震性能に問題なし。部屋は一階と二階に七部屋ずつ、計十四部屋ある。部屋番号に「四」がないので、階段から一番遠いわたしの部屋は二〇八号室。二階の部屋の前の通路には高い金属製の柵があり、ピカピカに磨き上げられている。
 ほんの少し身を乗りだすようにして、そこから見た景色は、各々違う形をしたアパートや下宿と、その向こうのところどころピンク色の混じる山だ。事前の内見をしなかったわたしのために、不動産会社の人が送ってくれたメールや添付してあった画像と、今のところは情報が違わない。
「こんにちは、宝泉さん。本日こちらのお部屋を担当いたします、常田と申します」
 深緑色をしたジャンパーを着た真面目そうな男性が「よろしくお願いします」と名刺を差し出す。わたしは「こちらこそ」と頭を下げてから、慌ててバッグを置いて名刺を受け取った。
 常田、という名前は、もうすでにわたしにとって馴染みあるものになっていた。この物件について確認するたびに何度もメールを返してくれた、担当者の名前。この人があの丁寧で、ちょっとお茶目なメールを送ってくれていたのかと思うと、ドキドキする。間近で見ると、想像以上に整った顔をしている。
 改めて名刺を見ようとしたけれど、その前にカチャリと部屋の鍵が開けられた。どうぞ、と常田さんに促されて、わたしは名刺をポケットにしまい、バッグを再び抱えて、部屋に足を踏み入れた。
 六畳のワンルームと聞いていたが、まだ家電を含めて荷物が何も入っていない部屋は、もっと広く見える。小さなクローゼットがありますとメールに書いてあったが、中にあとで届くはずの四段収納ボックスを入れられるだけの大きさだ。洗濯機と冷蔵庫、テレビとテーブルを入れれば多少は狭くなるだろうけど、初めての独り暮らしには十分なのではないだろうか。一口コンロが備えてあるささやかな台所も、電子レンジと炊飯器さえあれば自炊には事足りそう。
 部屋を床から天井まで見回して満足していると、背後から常田さんが声をかける。
「宝泉さん、鍵をお渡しします。それから何点か説明を。電気とガス、それから水道の業者もまもなく来ることになっていますので」
「あ、はい。お願いします」
 常田さんから鍵を受け取るとき、手が触れた。冷えていたのは、きっとわたしが大遅刻してきたせいだ。ずっと部屋の前で、わたしが来るのを待っていてくれたに違いない。そういえば、まだそのことを謝っていなかった。
「ではお部屋のご説明をさせていただきます。宝泉さんは内見にいらしていないということでしたので」
 わたしが口を開く前に、常田さんは至極真面目な調子で切り出した。こちらも思わず背筋が伸びる。
 わくわくするような新しい部屋の匂いの中、常田さんは部屋の設備の説明をする。玄関には靴箱、部屋は照明つき、ブレーカーはあそこに、エアコンの操作はこのリモコンで。設備は事前にメールを送ってもらったとおりだったので、すぐに頭に入った。
 でも、なぜだろう。わたしは先ほどから、常田さんに違和感を持っていた。メールの文面と本人の口調が、あまりにも違いすぎるせいだと気づいたのは、部屋の契約内容について話が及んだ頃だった。
 わたしが内見に行けない代わりに、と部屋の様子を説明してくれたメールは、読んでいて面白かった。何度もやりとりをしているうちに、感嘆符や星マーク、顔文字がしつこくない程度にあしらわれるようになって、引っ越し前日のメールなどは、まるで何年も知り合いだったかのように思えるほどだった。
 常田さんの説明は、丁寧で、淀みがない。ただ、仕事中であるということを差し引いても、あまりにも事務的で淡々としている。必要なことだけを箇条書きに並べてあるものを、読み上げているような印象だ。
 単純に風呂とトイレが別だということを説明するだけでも気の利いた一言が添えられて、部屋への興味をかきたててくれたメールとは、まるで別人のようだった。メールではおまけまで書いてくれていて、最終的にはそれが新生活への決定打となったほどなのに。
 しかし、メールのフッターにはたしかに担当者の名前が「常田」とあった。たしかにそういう記憶がある。
 それから、彼の顔立ちがすっきりしてはいるけれど、ちっとも笑わないことも気になった。わたしは説明を続けていた常田さんの横顔をじっと見ていたのだけれど、一度だって微笑んだりしなかった。
 やがて視線に気づいたのか、常田さんはわたしをちらりと見て、言葉を切った。
「何か分かりにくいことでもありましたか」
「いいえ。ただ、常田さんの印象がメールとは違うなと思って」
 正直に言ってしまってから、失礼だったかな、と思う。けれどもギャップがあるなら、それはそれで魅力的です。好みの顔に真面目な性格。そんな人と関わりを持てるのなら、この先の生活も期待大です。そう続けてしまいそうになって、慌てて口を閉じた。
 ところが常田さんは怪訝な表情で「メール?」と呟いてから、ふっとそれまでの無表情に戻って、説明を続けるように平坦な声で言った。
「宝泉さんとメールでやりとりをしていたのは、弊社の社長です。私ではありません」
「社長さん、ですか?」
「ええ。こちらの物件は弊社が直接管理しているもので、入居者がより住みよいように特に手をかけているんです。社長が」
 先ほど受け取った名刺をポケットから取り出し、今度こそじっくり眺めた。もちろん、目の前の彼に社長や代表などという肩書はついていなかった。スタッフ、常田在。――詳細で明るいメールを送ってくれていた、常田という人物ではない。別人のよう、ではなく、別人だったのだ。
 呆気にとられているわたしに、常田さんは続ける。
「メールは簡潔にと言っているんですが、若い方と話をするのが楽しいようで。基本的に家族経営なので誤解が生じやすいため、私はやめてほしいです」
「じゃあ、あなたは息子さんですか」
「孫です。祖父ほどユーモアがなくて申し訳ありません。こちらは仕事なので」
 言い切った。真面目な顔で、きっぱりと「仕事」と言い切る大人。そういう人がいることに、わたしは雷に打たれたような思いだった。
 そんな人には、今まで会ったことがなかったのだ。人を相手にする仕事をしている人は、たとえ見せかけだとしても、大抵は笑顔を浮かべているものだと思っていた。たとえば日々営業で駆け回っている父は、学校で進路相談に乗ってくれた教師は、疲れていてもにこやかにしていたから。それが仕事なのだと、当人たちも言っていた。わたしだってその大変さがわからないわけではないけれど、常田さんほど笑うことに力を使わない人は初めてだ。
 新居について教えてくれた常田不動産の常田さんという人は、きっとユーモアがあって、気が利いていて、優しい人なのだろうと考えていた。実際、メールをくれた「別の常田さん」はそうなのかもしれない。でも目の前で何事もなかったように説明を再開しようとする在さんという人は、わたしの考えていた「こうあるべき」「理想の」大人とは違うようだった。
 わたしと話すのは仕事。それはたしかにそうなのだろうけれど、でも。
「……いや、でも、楽しい話の一つくらいはありますよね。ここが『縁結びアパート』って呼ばれてることとか」
 わたしはメールから希望をもらい、期待していたのだ。常田さんに会うことに。会って実際に話をすることに。――このアパートの「ご利益」について、もっと語ってもらいたいと思っていた。
 このコーポラス社台というアパートには、縁結びのご利益があるという。それはメールにあったこの物件の「おまけ」であり、個人のブログやSNSでまことしやかに囁かれている噂だ。神社に近いこのアパートに入居した人々には、さまざまな縁に恵まれるという。
 たとえばそれは、住人同士の仲。このアパートに暮らす人々は自然と親しくなり、かけがえのない存在になるのだとか。住人同士で結婚したという話もある。
 たとえばそれは、仕事や学業での縁。コーポラス社台に入居してから、大きな企業と縁ができて、良い仕事が次々に舞い込んでくるようになったとか。あるいは、受講希望者が多くて必ず抽選になってしまう講義を、必ず受けられるようになるとか。
 その話の数々が、わたしの入居を決める後押しをしたのだ。大学受験にほぼ失敗していたわたしを慰めるように、それどころかこれも悪くない道なのだというように導いてくれた。落ち込んでいた気分はみるみるうちに盛り上がり、いつのまにか独り暮らしに期待を持つくらいの余裕ができていた。
 そうして、わたしにもそんなご利益が、縁があればいいなと思っていたのに。
「縁結び? まさかそんな話を信じて入居を決めたんですか」
 常田さん改め在さんの表情が、ほんの一瞬険しくなる。すぐに元の無表情になったけれど、続いて繰り出された言葉には一切の容赦がなかった。
「今更ですが、そんな曖昧な、うまくいかなければ簡単にそのせいにして文句を言えるようなものに頼って住まいを決めても仕方ないと、私は思います。大学に通われる間だけの短い期間かもしれませんが、あなたは本当にここで生活をするということを考えましたか?」
 抑揚のなさが、胸をぐさぐさと刺す痛みに拍車をかけた。その場で固まってしまったわたしを見ずに、在さんはさらに言葉を継ぐ。
「私は縁結び目的でこの物件への入居を希望してきた方には、そう尋ねるようにしています。すると皆さん、大抵引いていきます。家賃は安いですが、そう利便性の高い物件でもありませんし。ただ、社長はそういう噂も利用して人を入れようとするので、こちらは困っているんですよ」
 切った言葉の間に、深い溜息。そして、とどめの一発。
「念のため言っておきますが、その点について保証は致しかねますのでご了承ください」
 他への引っ越しをご希望ならご相談にも乗りますし、物件の紹介もさせていただきます。ついでのように在さんはそう付け足した。わたしは混乱しながら、なんとか告げられたことをゆっくり頭の中で反芻して、意味を捉えようとした。縁結びの噂は、在さんにとっては「曖昧」で「うまくいかなければ簡単にそのせいにする」ようなもの。こんなことで住まいを決めるのは、彼としてはいけないと思っている。だから今まで入居しようとした人にはそう話してきた。――それで引いていくのは、説明の所為ではないだろう。在さんが、入居希望者の期待を砕いてきてしまったように思われる。
 もしかしてこの人、とわたしは心の中で呟く。もしかしたら、あまりにも真面目すぎるのでは。そのために活用できるものを上手に使えていないんじゃないか。
 万が一にも再び物件の相談なんかできない。しっかりした物件を紹介してくれるとしても、会話をしているうちに心が折れてしまうかもしれない。
――どうしてこの人、この仕事できてるんだろう……。
 わたしはもう呆然としてしまって、そのあとの注意事項は半分も頭に入らなかった。ごみの分別と収集の曜日についてや、現在アパートは満室なので騒音などに気をつけてほしいなどといったことを言われた気がするけれど、よく覚えていない。ガスや電気や水道の業者が一斉に入ってきて、在さんとともに出ていくのを、生返事をしながら見送った。かろうじて常識的な応対はできていたはずだ。雑談を交えられた分、わたしのほうが在さんより常識的だった、と思う。
「それではこれからよろしくお願いします」
 そう言った在さんを思い出すと、なんだかがっかりしてしまう。
「あれじゃよろしくなんてできるかなあ……。真面目なのも考えものだよね……」
 今度はわたしが、深い深い溜息を吐く番だった。
 そうして結局、落胆したまま、到着した引っ越し業者さんたちを迎えることになった。業者さんの一人が元気がないわたしに気づいて、引っ越しは疲れますよね、と声をかけてくれた。その言葉がじんわりと胸に沁みる。こんなの、在さんとのやりとりには一切なかった。こちらも素直に「ありがとうございます」と言える。これが普通なんだよね、とわたしは頷く。
 揃った家具に安堵して、改めて新生活に思いをはせた。管理人がどうであれ、ここで暮らしていくと決めてしまったのだ。在さんがばっさりと斬り捨てただけで、このアパートに何らかのご利益があるという可能性が消えたわけではない。たとえば隣の人が在さんより素敵だったりして、わたしに親身になってくれたりして、心が躍るような毎日を送れるかもしれない。ネットで見た事例のように。
――良い噂があって、ここで暮らしたいと思う人がいるなら、それでいいと思うけど。どうしてあの人は、あんな言い方するんだろう。
 思い出すとまた心が萎んでしまう。働いてくれた引っ越し業者さんたちを見送るついでに、気分転換でもしよう。わたしは部屋から出ていく人々を追いかけるようにして外に出た。気持ちの良い日差しと春の暖かい風を浴びれば、きっと残念なことも忘れられるはず。
 けれども、吹いていたのはひやりとした夕方の風だった。もうそんな時間だったらしい。四月になる前の空気は、まだ肌寒い。
 腕をさすりながら、ふと隣の部屋へ目をやると、ドアが開いて人が出てきた。ぬうっと現れた影に、わたしは思わず後退った。相手が、でかい男の人だったのだ。
 わたしの身長は一五〇センチくらいだけれど、彼はおそらくゆうに一八〇センチを超えている。しかも身長が高いだけでなく、しっかりした筋肉がついていることが服の上からでもわかるくらい、体格がいい。彼はこちらに気づいて、わたしを見下ろした。その目は鋭くて、知っている範囲でたとえるなら猛犬。ちなみにわたしは犬が苦手だ。
 黒い長袖のTシャツに、これまた黒いジーンズ。そんな恰好の彼が、逆光のせいもあって巨大な魔物のように見える。彼はこちらを睨みながら、一歩近づいてきた。
「おい」
 声も低い。上から降ってくる音が重い。まさにそのまま重低音。そんなふうに何か話しかけられるとしたら、苦情しか思いつかない。さっきまで人が大勢出入りしてたので、騒がしくなるのは仕方がないのだけれど。神経質な人なら、耐えられないこともあるかもしれない。
「す、すみませんでしたっ! もううるさくしませんから!」
 絶叫して部屋の中に逃げ込み、素早くドアを閉めて鍵をかけた。ドアを叩かれたりしたらどうしよう、と思ったけれどそれはなく、しかし手は汗をかいている。
 ああ、怖かった。まだ心臓はバクバクしている。隣の人が素敵だなんてとんでもない。そんな妄想は一気に吹き飛んだ。あんな人と仲良くできるとは思えない。縁なんてもってのほか。あの人、絶対わたしのこと気に入らないよ――!
 管理人といい、住人といい、わたしの期待はみごとに良くない方向へ覆され続けている。こんなことで、このアパートでやっていけるのだろうか。縁って、ご利益って、なんだったんだろう。一日目にしてわくわくした気持ちは叩きのめされ、潰れてくしゃくしゃになっていた。積んだダンボール箱も開ける気になれず、引きずり出すようにして敷いた新品の布団にやっとのことで寝転んだ。
 わたし、独り暮らしできるのかなあ……。

 そうして気がついたら、すっかり陽が落ちていた。何時だろう、とスマホを見ようとしたけれど、電池が切れている。充電コードをバッグから探しだして繋げて、スマホを取り落としそうになるくらい仰天した。
「うそ……十時? こんな夜中じゃ、もうお店やってないんじゃない? そうだ、コンビニは……どこにあるんだろう、覚えてないや……」
 部屋の電気をつけて、地図を引っ張り出して広げる。ここからそう遠くないところに、コンビニが一軒あるようだ。それが大学の方向であることを確認してから、荷物からコートを出して羽織った。とりあえず、今夜と明日の朝の食べ物を確保してこなければ。お腹が空きすぎて、ちょっとくらくらする。とても明日までは耐えられそうにない。
 コートのポケットに財布を突っ込んで、まだ手に馴染まない部屋の鍵を握りしめて、玄関を出る。ドアにちゃんと鍵がかかったことを確かめて、階下へ続く階段へと視線を向けた。
 と、通路に誰かがいることに気がついた。柵に寄り掛かっているその人の手には缶。山のほうを見ながら、口をつけている。細い人だな、とわたしが思うのと、その人がこちらに気づいたのは、ほぼ同時だった。
「こんばんは。新入りさん?」
「あ、はい。はじめまして」
 きれいな声の人だった。少し掠れた、女の人の声。長い髪が、風にさらさらと靡いた。暗くてよく見えないけれど、美人のような気がした。
「はじめまして。そっか、もう二〇八号室は入ったんだ。ここは本当に、人が切れないね」
 くつくつと笑って、また缶を傾ける。おそるおそる近づいて、それがビールの缶であること、そしてその人が本当に綺麗な女の人であることがわかった。
「私、二〇三号室の相川秋華。よろしくね」
「二〇八号室に来ました、宝泉茉莉花です。よろしくお願いします」
 にっこり笑った顔につられて、わたしも名乗る。秋華さんはわたしの名前を何度か呟いてから、「良い名前」と頷いた。
「茉莉花ちゃんはどうしてここに来たの。進学?」
「はい、四月から大学生なんです」
「やっぱり若いね。いいなあ、若いって」
 秋華さんも十分若く見えますが、と返そうとしたけれど、代わりにわたしのお腹が盛大に鳴き声を発した。近所中に響いたんじゃないかというくらい大きな音で恥ずかしい。秋華さんにもクスクスと笑われてしまった。
「お腹空いたんだ。夜中だもんね」
「ええと、実はお昼から食べそこなってまして……。今からコンビニに買い出しに行こうと思っていたところです」
「ここ治安は悪くないけど、女の子の一人歩きは心配だなあ。よし、私も行こう。ちょうどビールも切れたし」
 空になった缶を振りながら、秋華さんは自分の部屋に入った。そしてすぐに、財布を持って出てくる。正直、道があやふやなのでありがたい。
 秋華さんと一緒に階段を下り、コンビニまでの道を教えてもらいながら歩いた。街灯の下で見る秋華さんはやっぱり綺麗で、思わず見惚れる。わたしもこんな大人になりたい、でも難しいだろうな、と思わされるほどの美人だ。
「茉莉花ちゃんは、礼大生?」
「そうです、礼陣大学です。……って、他に学校あるんですか、ここ」
「あるよ。北市女学院っていう、賢い女の子が通うところ。茉莉花ちゃんもそっちかと思った」
「とんでもない。わたし、第一志望も第二志望も落ちて、ここに来たんですよ。親は公立だから授業料が安く済むって喜んでましたけど」
 初対面にもかかわらず、秋華さんには何を話しても大丈夫だという気がしていた。途中、向かいからやってきた無灯火の自転車から庇ってくれさえした。「危ないなあ」と怒っても、美人は美人だった。
「……礼大、良い学校だよ。講義も面白いって、礼大生はみんな言う」
「そうなんですか。秋華さんは大学生じゃないんですか?」
「そんなのもうはるか昔に卒業したよ。私今年でもう三十五歳だもん」
 二十代かと思いました、と素直に言うと、秋華さんは「ありがとう」と笑った。そして到着したコンビニで、温かいコーヒーを一杯奢ってくれた。わたしたちは帰路でコーヒーを飲み、わたしは自分で買ったパンも齧りながら歩いた。普段ならこんな行儀の悪いことはしないのだけれど、お腹があまりにもうるさかったのだ。
 秋華さんの手には、ビール缶が三本ほど入った袋が提げられている。どれもあまり見ない銘柄だった。
「茉莉花ちゃん、アパートの印象はどう?」
 パンを口に含んでいたわたしに、秋華さんが尋ねる。印象か、初めて見たときは良かったのだけれど。
「ふぁい……、ええとですね、十分暮らしていけそうです。でも、隣の人と管理人さんが怖くて」
「隣?!」
 今までにこにこしていた秋華さんが、突然ふきだした。肩を震わせながら「隣ってあの子しかいないよねえ」と言う。秋華さんにとっては、あの大きくて怖い人も「あの子」らしい。それが少し意外だった。
「秋華さん、二〇七号室の人とお知り合いなんですか」
「アパートの人はだいたい知り合いだよ。私、あそこに来てから長いから。……でもまあ、戻ってきてから六年か。もっと長い人もいるからねえ」
 くつくつ笑いながら、気になることを言う。戻ってから六年。あのアパートを離れたことがあるのだろうか。わたしが考えているあいだに、秋華さんは話を元に戻した。
「隣の子、そんなに怖くないよ。管理人さんも優しいおじいちゃんだし」
「あ、わたしが会った管理人さんは、お孫さんのほうです。すごく真面目そうな」
「ああ、在君。たしかに真面目だね。そして迷信やおまじないを意地でも信じないタイプ」
「そう、そうなんです! わたしが縁結びのご利益のことを言ったら、呆れられてしまって」
「だろうね。一時期、そのご利益目当てにアパートの入居希望が殺到して、やっと入った人も『ご利益なんか全然なかった』って文句つけて出て行ったことがあるんだよ。それ以降慎重になってるの」
 そういうことなら、あの態度もほんの少しだけ納得できる。やはり仕事をする人としてはどうかと思うけれど、一応理由はあったのだ。
 あの子も根は良い子だから大丈夫、と秋華さんが言っているあいだに、わたしたちはアパートに到着した。静かに階段を上り、秋華さんの部屋の前で別れようとしたとき、奥の――二〇七号室のドアが開いた。私の部屋の、隣の。
「……お、秋華さんだ。またビール買いに行ったの?」
 低い声が、秋華さんに馴れ馴れしく話しかける。
「こんばんは、九鬼君。仕事が終わった後の一杯はどうしてもやめられなくてね」
 秋華さんも軽く笑って返事をした。
「一日くらい休肝日作ったら。また倒れるぜ。……で、なんで二〇八号室の新入りも一緒なの」
「コンビニ友達。昼から何も食べてなかったんだって」
「やっぱり。だから何か分けてやろうと思ったのに、逃げるんだよ、そいつ」
 大男は不満げに、いや、ちょっとがっかりしたみたいに言った。あれって、苦情を言おうとしたんじゃなかったの? 訝しむわたしに、大男はまたぬうっと近づいてくる。思わず秋華さんの後ろに隠れると、二人ともに笑われた。
「九鬼君、見た目が怖いもんね」
「うるせえ。……そんな警戒すんなよ、お隣さんだろ。仲良くしようぜ」
 秋華さんの陰から少しだけ出てきたわたしに、大男が手を伸ばす。
「俺の名前は九鬼慧だ」
 どうやら取って食おうというわけではなく、わたしと握手をしたかったようだ。こちらも名前を告げ、そっと手を伸ばすと、ぎゅっと握られて、ぶんぶんと上下に振られた。
「こら九鬼君、乱暴にしないの」
 叱りながら秋華さんが笑う。見た目は怖いけど、大男、いや、九鬼という人は、実はそれほど怖い人ではないのかもしれなかった。
 ……いや、こちらを見下ろしてにやりと笑う表情は、やっぱり怖い。




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posted by 外都ユウマ at 20:13| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月23日

真昼の魔法使い

「あっちの方から」
君が指さしたのは、久しぶりの快晴。僕は顔を空に向け、指の先を見ようとした。
太陽の光が眩しい。
目を細めた隙に、こつり、と足に何かが当たった。
俯いて見れば、僕の座る木陰に、小さく輝くものがある。手を伸ばして触れようとすると、それはすうっと光を失い、見えなくなった。地面を撫でてみても、手にはそこらの砂粒の感覚しかなく、何があの輝きのもとであったのかわからない。
仕方なくもう一度顔を上げると、君は「ね?」と首を傾げて言った。
「つまらない魔法でしょう」
つい先程、僕が見せてくれるよう頼んだのだった。
君の『星を降らせる魔法』を。
誰も信じなくても、僕だけは君を信じようと思って。
けれどもこれでは、信じようにも確証がない。これが魔法だと、起きたことだとわかっているのは、結局君だけだ。
「せめて曇りや雨の日にやればいいのに」
僕が地面を撫でた手を払いながら呟くと、君の目が弓の形になった。
「僕の魔法は太陽の光が源だから」
慣れたような口調に、僕はもう誰かがこの言葉を口にしていたのだということを覚った。少しだけがっかりした。
「光がなくちゃ、僕は星を降らせられない。どんなに星が光っていても、その光だけを見ることが誰にもできない。落ちた星はすぐに他の石と同じようになってしまうから、見つけられない」
だから僕の魔法は誰も信じられないんだよ、と君は最初に説明してくれたことを繰り返した。
それでも僕なら、君の使う魔法を信じられると、星の光を捕まえられると思ったのに。
唇を噛むと、君は笑ったまま「いいんだ」と緩くかぶりを振った。
「見えないままでいい。これは僕だけの魔法だから」
「でも、信じてもらえないのって、嘘つきだって思われるのって、嫌じゃないの?すごいって思われたくないの?」
縋る僕に、君は弓の目を木の実のように丸くした。
「そんなこと」と言って切り、「少しは」と言い直す。
「考えたことがなかったわけじゃないけれど、知ったところでどうにもならないから」
ならないだろう、ではなく、はっきりとした「ならない」。
きっと本当に、どうにもならなかったのだろう。
僕はまた、君にとってのはじめての人になりそこねた。僕がしていることは、すでに誰かがしたことで、君はもう飽きてしまっているのだろう。
星なら降らせられるよ、と冗談みたいに言ったのは、たとえば「その町になら行ったことがある」というような、会話のきっかけにすぎなかったのだ。その程度にしか扱えないと、君はもう知っていて。「期待外れでごめんね」
それももう、何度も繰り返した終わりの言葉なのだろう。
「夜にできれば良かったのにね」
「そうだね」
「太陽電池みたいに光をためて」
「そうだね」
僕は誰かの言葉をなぞり、君は用意してある返事を並べる。
僕がなぞった轍は深くなり、君の心はまた少し削れたのかもしれなかった。
そしてとうとう、僕は「信じるよ、すごい魔法だ」という、用意していた台詞を言うことができなかった。
posted by 外都ユウマ at 20:26| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする