2018年09月17日

イヌマさんとカネコくん 〈帰る場所〉

 久々に実家に顔を出すと、妹がソファに寝そべって雑誌を捲っていた。俺がいた頃には部屋にこもっているのが普通だったのに、いつの間にこんなにオープンになったのか。ただいま、と声をかけると、こちらには一瞥もくれないまま「おかえり」と低く返事をした。
 妹が雑誌を読んでいるときは、一瞬でも視線を向けてはならない。気配を覚られれば即座に「お兄、キモイ」と鋭い言葉が飛んでくる。彼女が小学校の高学年になったあたりから、それが日常になった。母ははじめこそ妹の暴言を叱っていたが、次第に「思春期の女の子ってこんなものよ、本気にしないで流してあげてね」と俺のほうに大人の対応を求めるようになった。実際俺はすでにいい年だったので、いちいち相手にすることはなかったが、まったく気にしないというわけでもない。以来、早く家を出て妹の不快感をなくしてやらなければと思うようになった。
 自分の要塞のような部屋ではなく、家族の共有スペースである居間でくつろいでいるということは、俺が出ていったことでかなり楽になったのかもしれない。
「お母さん、裏のおばさんに呼ばれていった。当分帰ってこないよ」
「そう。なんか野菜取りに来いって言われたんだけど」
「知ってる。台所にビニール袋あるでしょ、それだから」
 すごいな、会話になった。密かに感動を覚えながら件の袋を見つけて覗き込む。キャベツが丸ごと入っていた。独り暮らしなら、暫く三食キャベツを食べ続けることになっていたかもしれない。それも切っただけとか、何の工夫もせずに。
「ありがとうって、母さんに伝えといて。あと土産、ここに置いとくから」
「ん。もう帰るの?」
「他に用事がないなら」
 あまり長く居座っては迷惑だろう。妹の休日を邪魔するわけにはいかない。ところが当の本人が、もうちょっといたら、と言う。
「この後何か用事あるの?」
「何も」
「だったらせめてお母さんに顔見せときなよ。なにかとお兄のこと心配してるよ」
 平坦な口調と、紙の擦れる音。どこまで本気なのかわからないが、とりあえずはここにいることを許されているのだろうか。けれどもどこにいたらいいのかがわからず、途方に暮れる。ここに住んでいた頃、俺はどうやって暮らしていたのだったか。
 キャベツを睨むふりをして立ち尽くしていると、妹が大きく息を吐いて、体を起こした。
「そんなところに立ってないでよ、落ち着かないじゃん。お茶淹れてあげるから、こっち来て座れば」
「あ、ああ。ごめん」
「お茶っていうか、コーヒーでいいよね。お兄って砂糖とか入れる人だっけ」
「いや、何も入れない」
「ふうん。すごいね、こんな苦いの何も入れずに飲めるなんて。さすが大人だ」
 あまり感心しているようには聞こえない。直後の「そこにいたら邪魔」のほうが感情がこもっているように思う。気を遣わせているのが申し訳なくて、早く帰りたい。帰る場所はすでに実家ではない。
 これ以上妹を苛立たせたくなくて、言われた通りに居間に来た。ソファの上に、開きっぱなしの雑誌が放置されている。あまり見てはいけないとわかっていながら、紙面から目が離せなくなった。
――カネコ君、だよな。
 すんでのところで声には出さなかった。でも口は開いた。そこに大写しになって微笑んでいるのは、いつも見ている顔で、でも少しだけ違った。家ではもうちょっと幼いというか、懐っこい笑い方をする。仕事用の表情を見るのは初めてではないけれど、こんなに大きく雑誌に載っているのを見たことはない。
――芸能人なんだなあ。
 しみじみと眺めてしまった。ここがどこであるかを、すっかり忘れて。
「お兄、まだ突っ立ってたの」
 呆れたような声が、俺を現実に引き戻した。しまった、勝手に雑誌を見ていたと知ったら、どんなに罵られるか。ああでも、いっそ出ていけと言われた方が楽なのか。軽くパニックになり動けないでいると、妹は持っていたカップをテーブルに置きながら、ああ、と言った。
「見た?」
「……見えた、けど」
「見たところでわかんないでしょ、お兄には。なんか世間のことに疎そうだよね」
 予想していたような罵倒はなかった。世間のことに疎いのは事実で、そこに嘲りはない。ソファに座って雑誌を抱え直した妹は、「座ってよ、邪魔」と何もなかったように言う。
 俺が礼を言ってコーヒーを飲む間、妹はまた雑誌を見ていた。ページは捲らない。しばらく先ほどのページから進まない。心なしか口の端が緩んでいるような……いや、あまり観察してしまうと今度こそ気持ち悪がられる。
 そうだった、と心の中で呟いた。俺は家を出る前から、カネコ君を知っていた。芸能人に、まして舞台俳優になど興味はなかったが、妹が彼のファンであったことはわかっていた。彼女がうっかり居間に放置していた舞台のパンフレットと写真を、さっきのように眺めてしまったことがあったのだ。そのときは、何見てんの、キモイ、最低、と容赦ない言葉を浴びせられたものだが。
 妹の罵声と、カネコ君に関する一番最初の記憶はセットだ。もちろん当時は、後にカネコ君が俺の住むアパートに転がり込んでくることなど考えてもいない。考えられるはずがない。
 住みついている現在だって、彼が人気の俳優であるという事実は夢のようなのに。そんな人が一緒に暮らしていて、しかも俺を好いてくれているなんて、おかしな話だ。彼の立場のために秘密にしているというよりは、俺が信じがたいから誰にも話せないというほうが、割合としては大きい。
「ごめん、やっぱり帰る。コーヒーご馳走様、美味かった」
「え」
 華やかな仕事をしていて、妹のようなファンもたくさんいて。そんな人間と俺が一緒に住んでいられるはずがない。そもそもカネコ君は俺ではなく、俺の前にあの部屋に住んでいた住人に会いに来たのだ。いつ出ていっても不思議ではない。まして俺に懐くなんてありえない。
 ありえないけれど、そこが帰りたい場所になってしまっている。実家にいたくないのではない。居づらいけれど、そうではない。今、急にカネコ君に会いたくなった。彼がいるということを確かめたくなったのだ。
「待って、お兄。お母さんには」
「後で電話する。せっかくの休み、邪魔して悪かった」
「別にそんな」
 挨拶もそこそこに外に出て、駅まで走った。改札を通ってから、何のために実家に行ったのかを思い出した。野菜の入った袋は、台所に置きっぱなしだ。――まあいいか、キャベツくらい。
 駆け込んだアパートの、俺の部屋は鍵が開いていた。飛び込むと彼が、カネコ君が、目を丸くして立っている。これから出かけようとしていたようだった。
「うわ、びっくり。……おかえり、イヌマさん。実家行ったんじゃなかった?」
「か、カネコ君は、どこに」
「どこにって、稽古。あ、着替え足りなくなったから、とりに一回帰ってきたんですよ。それで」
「ここに帰ってくるのか」
 何も考えずに、思いついた問いをとにかく投げつける。出かけたいのに立ちふさがっているのは邪魔だったろうし、突然わけのわからないことを訊かれれば戸惑うだろう。普通はそうだ。罵倒され、愛想をつかされたって仕方がない。俺はそういう常識の中で生きてきた。
 でもカネコ君は、ここに来たときから俺の常識とはかけ離れた人で。
「当たり前でしょ」
 今だって、俺に雑誌で見たのとは違う笑みを向けている。
「ちゃんとイヌマさんのところに帰ってくるよ」
「……そうか。そうかあ……」
 力が抜けた。今日一日分の疲れがどっときた。大丈夫? と大きな目が俺の顔を覗き込む。
「実家で何かあったの?」
「いや、何も。いつも通りだった」
 いつも通り、落ち着かなかったよ。そこまでは言えなかったが、カネコ君は何か察したのか、俺の手をとった。
「俺、もう行くけど。落ち着いたらメッセージ入れといてね」

 貰うはずだった野菜を実家に置いてきた、大きめのキャベツだったと伝えたら、カネコ君は「貰ってきてたら近々ロールキャベツしたのに」と返してきた。やっぱり焦らず持ち帰ってくるんだった。
 家のことを詳しく話したことはないし、今日も話すつもりはない。どうでもいいやりとりをしているうちに、やっとゆっくりと息を吐くことができるようになった。
 返信がなくなった頃、タイミングを計ったように母から連絡があった。本当に来てたの、と疑っていた。無理もない、証拠はどこでも買えるような土産と、妹の淹れてくれたコーヒーの客用のカップだけなのだ。
「野菜、ありがとう」
「ありがとうって、持っていってないのに」
「気持ちはありがたかったよ。忘れていってごめん」
「置いてって大丈夫なの? ちゃんと食べてる?」
 心配されているのは本当のようで、でもそれは心配しなくてもいいことで、適当に返事をして電話を切ってしまえばひとまず済むはずだ。そうしたらまたしばらくは、実家には行かなくてもいい。
「置いていったの、送ろうか」
「いや、いいよ」
 そっちで処分してくれれば、と言いかけて、やめた。そうすれば実家に手間をかけさせないし、行かなくてもいい。居心地の悪さに緊張することもない。だけど。
「……これから、また行くから」
 行って帰ってきたら、ロールキャベツが食べられるかもしれない。頭の中にあったのは、そんな単純なことだった。



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2018年08月25日

レナ先生のいる夏の家 2

 氷の入ったミントティーと、小皿に丁寧に盛り付けられたクッキー。どうぞ、と勧められるままに一口ずついただくと、その美味しさに肩の力が抜けた。
「美味いだろ。今朝一番に焼いたクッキーなんだ」
 正面に座った子供が得意気に言う。暗い青色の髪は夏の夜、瞳は絵葉書で見た海のような色をしている彼は、レナ先生とは似ても似つかない。けれども随分親しいようで。
「グリン、初めて会うお客様に対する言葉遣いじゃないよ。礼儀正しくね」
「わかってるって。紳士的に振る舞いなさい、だろ」
 口をとがらせる子供の頭を、レナ先生は持ってきた紙の束で軽く叩く。そしてたった今武器にしたそれを、テーブルに置き、私のほうへと押しやった。
「こちらが原稿です。次回からは郵送しますね」
「ありがとうございます。拝見しても?」
「どうぞ。お茶もクッキーもまだありますから」
「いえいえ、おかまいなく」
 と言いつつも私は片手に原稿、もう片方の手にグラスを持ってしまう。並ぶ文字を目で追いながら、爽やかな風味を喉に通す。ああ、なんて美味しい。気づけばクッキーももう一枚齧っていた。
 綴られた物語は、そんな明るい夏の昼間を、真っ黒なクレヨンで塗りつぶすような不気味なものだったけれど。この人は間違いなく、ホラー作家のレナ・タイラスなのだと思い知らされる。粘ついた沼に引きずり込まれるような感覚が、先ほどまでとは違う緊張感を私に与える。
 読み終わったとき、なぜか小皿にクッキーが増えていた。いつのまにか追加してくれたらしい。
「あ、すみませんでした」
 慌てて謝る私に、レナ先生はにっこりした。穏やかで、邪気のまったくない笑み。どこまでも作品とギャップが大きい人だ。
「真剣に読んでくれていましたね。嬉しいです。……面白かったですか?」
「怖くて夜道を歩けませんよ。でも先が気になってどんどん読んじゃう。あ、念のため表現とかは問題ないです」
「そうですか、良かった」
 刺激の強い作品を書く人だから、簡単なチェックは原稿を受け取ってすぐにやっておくように。数少ないまともな引き継ぎ事項だ。簡単といってもどこまでやればいいのかわからなくて、わざわざ校閲部へ行って自主研修をしてきたのだが、実際の原稿は思っていたよりマイルドだった。
 怖かったけれど。今までに読んだレナ先生の作品に、引けを取らない怖さだったけれど。なんとも力のある掌編を仕上げたものだ。マイルドなのは使っている言葉で、そこから引き出される想像は自分の頭が再生したもののはずなのに鳥肌がなかなか戻らない。掲載したら、きっとまた大きな話題になるだろう。
「読者の反応が楽しみですね。先生のファン、明らかに増えてますし」
「そうですか? 人を選ぶものを書いてると思うんですけど」
「お話の展開が面白いですもん。私、先生の担当になれて良かったです。責任も重大になっちゃいましたけどね。私がモチベーション下げるようなことしたら、先生、遠慮なく言ってください」
 担当とすれ違いが起きてしまい、それがきっかけで書かなくなってしまう作家もいる。先輩はレナ先生と本当に上手くやっていた。弊社からヒット作を連続して出せたのは、そのおかげもいくらかあるだろう。私が不安なのは、その状態を壊してしまうことだ。レナ先生が今まで通りに書けるようにしなくては。弊社からいい本を出せるようにしていかなくては。私は膝の上で拳を強く握りしめた。
「じゃあマトリさん、僕から一つお願いです」
 ぴん、と人差し指を立てて、レナ先生が言った。私の名前を呼んで。そういえば、先輩のことも名前で呼んでいたっけ。はい、と返事をした私に、笑顔のまま続ける。
「ときどきここに遊びに来てください」
「遊び、に?」
「はい。ドネスさんは忙しくて、なかなかここまで来られることがなかったので。もちろんマトリさんが忙しければ、無理にとは言いません。でも、こんな大きな家に住んでいて、お客がいないのはちょっと寂しいんです」
 独り暮らしですし、とレナ先生は肩を竦める。すると私の疑問を、私より早く子供が口にした。
「俺がいるじゃんか。毎日でも泊まるのに」
「グリンにはお父さんとお母さんがいるでしょう。ちゃんと帰らないと」
「でもさ、俺、助手だよ? 母さんにも先生をよく助けるようにって言われてるしさ」
「それでも家があるなら帰らなきゃ。……ああ、すみません。この子は僕の助手で、グリンテールといいます」
 子供はレナ先生の家族ではなかったのか。助手、とはどういうことだろう。子供の視点に立ったネタ出しでもしてくれるんだろうか。
「よろしく、マトリさん。俺は大抵ここにいるから、マトリさんが遊びに来てくれるならよく顔を合わせることになると思うよ」
「は、はあ……。ていうか、私が来て邪魔にならないんですか。先生はもっと静かにひとりで作品を仕上げているのかと思っていました。編集部でも、先生のお顔を知らない人が多かったですし」
「そんなことはないですよ。たしかに、外に出るのは渋っていますけれど。グリンが来てくれるから、うちは毎日賑やかですしね」
 たしかに、このグリンテールという子がしょっちゅう出入りしているなら、まずひとりで黙々と仕事をするというわけにはいかないだろう。むしろ子供の相手をしながら、よく物書きができたものだ。
「それに、ここにはいろんな人が来るんです。僕はそれでも仕事ができますから、マトリさんもどうぞいらしてください。クッキーも、お好きならケーキでもアイスクリームでも、たくさん用意して待ってますから」
「いえいえ、作家さんにそんなことさせるわけには。……先生、いつお仕事してらっしゃるんですか」
「いつだってしてますよ。さぼってるように聞こえるかもしれませんけど、心配しなくてもちゃんと」
 先生の仕事のしかたは、私には想像できないような独特のペースがあるのだろう。子供がいても気にせず、お菓子を作っても有効に時間を使える、そういうやりかたが。それは私が口を出すことではない。私は私の仕事を全うすればいいのだ。
 改めて挨拶をして、この家を辞する。庭に出て大きな屋敷を振り返る。一人で住むには広すぎる家は、お客が複数来てやっとちょうど良さそうだけれど、そもそもレナ先生はどうしてこんなところに住んでいるのか。
「謎の多い人だなあ……」
 暮らしのことだけではない。先生にまつわる妙な点は多く、けれどもどれも私のようなぽっと出の新担当が踏み込んでいいものかわからず――おそらくは余計なことをしないほうがいい。私たちの関係はあくまで仕事相手なのだから――今後の付き合いについては模索して、ちょうどいい距離を掴み保っていかなければならないだろう。
 そう思っていたところへ、おーい、と背中に声がぶつかる。マトリさん、と呼ばれたので振り向いた。さっきまで聞いていたのだから、見ずとも声の主はわかっていたのだが、ぎりぎりまで気づかないふりをしたかったのだ。
「これ、先生がお土産にって」
 グリンテール少年が、両の掌を広げてくっつけたくらいの大きさの包みを、私に向かって掲げていた。可愛らしいラッピングは、これも先生のお手製なのだろうか。だとしたらセンスがいい。
「ありがとうございます。でも、こんなに気を遣っていただかなくても」
「先生、お客さんが来るとすごく喜ぶから。だからマトリさん、本当に遠慮しないで、仕事の用事以外でも遊びに来てよ」
 ニッと笑う少年から包みを受け取り、私は笑顔を作って頷いた。こちらが距離をとろうとしても、この子は、先生も、詰めてきそうだった。正直、やりにくい。
 そんなことを考えながら鞄に入れた包みはやけに重くて、甘ったるい匂いは罪悪感を呼んだ。先輩は何故、私にレナ先生を任せたのだろう。


 かたちのあるものを作る人は素晴らしい。彫刻でも、絵画でも、文章でも。中でもわたしは文章がいっとう好きだ。美しい文章、心が躍るような物語を書き残せる人というのは、輝いて見える。
 その輝きが永遠のものであればいいのに。そう願うけれど、なかなかうまくはいかないものだ。作品が素晴らしいからといって、作家本人までもが聖人であるわけではない。残念なことに、純然たる清廉潔白というのは、案外実在しないものなのだ。
 であれば、美しい作品を、その人の生涯で最も美しい瞬間のまま永遠のものとして残すことができれば、夢や憧れが壊れることはないのではないか。それどころか、人々によってより美化され、しかもそれが否定されることのないまま、伝説となることができるのでは。
 わたしはわたしの素晴らしいと思う作家を、伝説の人として昇華させて差し上げたい。綺麗なものは綺麗なまま、作品と一体となって保存されればいい。誰の夢も傷つけない、最期まで誉れ高い存在であるように、お手伝いさせていただきたい。
「……大きな賞をとって、素晴らしいスピーチをして。国中があなたの輝きに注目している今こそ、あなたの喪失は惜しまれて伝説になる」
 血だまりの中に伏す、昨晩の文学賞受賞式で大賞をとった作家。賞をとるよりもずっと前から、わたしはあなたの作品が好きで評価していた。いつか誰もが認めたときこそ、伝説になるべきだと思っていた。それが今夜、果たされたのだ。
 作家の突然の死は新聞記事を飾り、多くの人が悲しみ、思い出とともに作品について語り合うだろう。こんなに素晴らしい作品を書く人格者であったと褒め讃えるだろう。それこそが理想の「喪失」。最上の美談。わたしが手伝い、綴られる、リアルな物語。
「ありがとうございました、先生」
 さようなら。でも、ご安心を。先生の魂はいつまでも人々の心に生き続けますから。
 手伝いが失敗してしまったこともある。作家が生き延びてそのままフェードアウト。それはそれで物語として成立しないでもないけれど、わたしはより理想的な結末を見たい。
 せっかく、サイン会で大勢のファンの目の前で命を落とすという衝撃の展開を用意しようとしたのに。あの人は控えていた編集者に庇われ、その後二度と人前には出なくなった。当時の名前で作品を発表することもない。
 でも、わたしにはわかっている。彼は文壇に戻ってきていて、新たな作品を新たな名前でよにおくりだしている。ジャンルと文章の癖が変わっていないのだから、気づかないはずがない。だから現在の名前が広く知れ渡り、再び表に出ることになるその日が、彼が今度こそ伝説になるときだ。わたしが間違いなく伝説にしてあげる。
 それがあなたと世界のためになる。あなたを讃える世界を、わたしが見ていてあげる。その日が来るのをわたしは待っていてあげるから、あなたもわたしを待っていてね。
「レナ先生。また必ずお会いしましょうね」
 月のない夜を歩きながら、一度だけ目が合ったあなたに約束した。



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posted by 外都ユウマ at 02:06| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月04日

イヌマさんとカネコくん 〈二重生活〉

「イヌマさんって恋人いたことある?」
唐突な問いに、危うく口に入れたパンの欠片をこぼしそうになった。もうとっくに三十代のおっさんだというのに。
そうすると、そのおっさんに遠慮なく過去の恋愛遍歴について尋ねるこの若者はなんなのだろうか。
「学生の頃はね」
口許を拭って、冷静を装い答える。だがそれも今更で、こちらの動揺をにやにやと窺いながら、まだ二十代も前半の彼は「へー」と軽い相槌を打つ。
「じゃあそれ以降いないの?なんで別れちゃったの?」
「朝からうるさいよカネコ君。君こそ彼女とかいるんじゃないのか」
「俺はいませんよー。カノバレしてエンジョーするとまずいし」
けらけらと笑い、彼はこちらが分からない言葉を操る。意味をやっと手繰り寄せ、炎上という言葉とSNSが結びつく。
「血縁でもないおっさんの家に住み着いてるのは、炎上の原因にはならないのかい」
「さあ?そういう例にはまだ当たったことがないからなあ」
フレンチトーストの最後の一口を飲みこんで、彼は目を細める。シワの少ない顔だが、笑うと目尻がくしゃっとなる、その表情がいいのだと年の離れた妹は言う。
妹は彼のファンだ。彼の出演する舞台は可能な限り見に行くし、ブロマイドは大切にしている。少しでも覗こうものなら「お兄、キモい」と一蹴される。
本人がうちに住み着いてるとも知らずに。
「イヌマさん、俺今日バイトの後稽古ね」
「じゃあ晩飯は外だな」
「だねえ。イヌマさんのご飯が食べられないのは残念」
「カネコ君が作った方が美味いじゃないか。これだって」
「簡単だよ、これ」
ごちそうさまでした、と手を合わせ声を揃え。朝食が終われば、それぞれの生活へ。
彼は役者、俺は会社員。奇妙で誰にも話せない生活は、彼と俺のあいだでゆるゆると続いている。
「いってきます、いってらっしゃい」
「いってらっしゃい、いってきます」
その言葉で、毎朝切り離しつつ。
posted by 外都ユウマ at 23:42| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レナ先生のいる夏の家1

 草花の匂いが湿り気を帯び、鼻腔に、肌に、まとわりつく。汗と混じり合うそれを、タオル地のハンカチで拭うけれどきりがない。帰ってシャワーを浴びたい。今この瞬間、胸に抱えている緊張とともに、全て洗い流してしまいたい。
 何度目かの溜息を吐いてから、ハンカチをしまう。一歩踏み出すごとに近づく、広い庭のある一軒家の玄関。扉の向こうには、私がこれから担当することになる作家がいる。初めて会う人だ。知っているのはその人の作品と、基本的に表に顔を出さないということだけ。その姿を知らない編集者は私だけではないのだった。
 そもそもの担当編集者は私を指導してくれていた先輩であったのだが、彼は異動に伴って、それまで抱えていた仕事を後輩たちに割り振っていった。これはそうして私に与えられたうちの一件だ。先輩曰く、「一番大変な仕事」だという。何をもって大変なのか、詳細はとうとう教えてもらえなかった。これで引き継いだといえるのか、甚だ疑問である。
 ――まあ、先生は良い人だよ。スケジュール通りに動ける人だし。だから気負う必要はないんだけど。
 けど、何だ。何度も尋ねたのに、答えはついにはぐらかされたままだ。不満は日に日に不安に変わり、現在は緊張として私の中に座り込んでいる。
 先生は良い人。それも本当かどうか疑わしい。甘く湿った空気に囲まれた家に住む作家先生の作品は、主にホラー小説だ。もちろん仕事として読んだが、あまりに描写がえげつない、精神にくるタイプの作品で、ショックからしばらく他のことが手につかなかった。世間に衝撃を与えた話題作とは、つまりそういう意味らしい。
 だからよほど陰気で、惨殺された人の幽霊みたいな人物なのではないかと、私は勝手に作家について推測していた。たとえば髪が長く黒々としていて、そのあいだからぎょろりとした目が覗いているような。そうしてペンを握りしめ、仕事の邪魔をするような編集者にはペン先を振り下ろし――。
「……いやいや、そんなの犯罪だから」
 妄想を、頭を振って追い出そうとする。先輩がそんな目に遭って帰ってきたことはない。なかったはずだ。いつか誰かのサイン会に付き添って、どういうわけか大怪我をして入院したことはあったけれど。そういえば、あれも私には詳細を話してくれていなかった。
「そんなことより、仕事しなきゃ。先生に挨拶を。それから雑誌に載せる掌編の原稿を受け取る」
 気を取り直して立ち止まる。もうドアは目の前だ。うるさい心臓を押さえるように胸に手を置き、深呼吸をしてから、空いているほうの手で呼び鈴を鳴らした。ジリリリ、という音が外側まで響く。それからまもなくして、足音が駆けるテンポでこちらへ近づいてきた。
 私は違和感に首を傾げる。どうにも音が軽いような気がしたのだ。そう、まるで、子供のような。
「どちらさまですか」
 そしてドアの向こう側から問いかける声も、まるっきり子供のものだった。先輩はこの家に子供がいるなどということは言っていなかったと思うが、なにしろ引継ぎが下手な人だから、言い忘れたのかもしれない。あるいは不要な情報だと思ったのか。作家が職業である以上は、家族関係って結構大事だと思うけれど。家で働いている場合は特に。
「サフラン社から参りました。レナ・タイラス先生はご在宅ですか」
 半分訝しみながら、定型句を述べる。すると相手も疑問符が大いに含まれていそうな口調で弊社の社名を復唱する。子供の声は、たぶん男の子だ。
「担当の人、男の人じゃなかったですか」
「変わったんです。先生にはすでに申し上げているはずですが」
「ふうん? ……ちょっと待ってください」
 足音が遠ざかる。まだドアは開けてもらえない。太陽の光と熱が、じりじりと肌を焼く。つい時計をしている手首を確認した。それから鞄の中のハンカチを気にする。
 意識がドアの向こうから離れたのは、ごく短い間だった。
「すみません、サフラン社の方ですよね。お名前を伺ってもよろしいですか」
 ドアを隔てて、さっきとは別の声。落ち着いた、柔らかな雰囲気。それなのにどきりとしたのは、それまで足音や他の物音が一切聞こえなかったからだ。まるで、突然玄関に降り立ったような。
 少し慌てて、私はつっかえながら返事をした。
「は、はい。マクラウドから引き継ぎました、マトリ・アンダーリューと申します」
「マトリさん。ドネスさんから電話で聞いてます。今開けますね」
 前の担当で私の先輩、ドネス・マクラウドは、作家への説明を怠ってはいなかったらしい。もしかしたら私よりも事情を詳細に話しているかもしれない、という疑惑が湧いた。しかしそれも含め、今まで私が抱えていた不安や疑い、そして緊張は、ドアが開いた瞬間、束の間消えた。
「はじめまして。レナです」
 優しげな微笑みを浮かべる口もと。友好の見える瞳は金色。Tシャツにジーンズというラフな恰好で迎えてくれたのは、私とそう年が変わらないと思われる男性だった。
 この人が、あのえげつない小説を? 心を抉って、悪夢を見せるホラーを? にわかに信じられないが、作家と作品は別であるともいう。そもそも私は、作家レナ・タイラスを女性だと思っていた。名前からも、作中に描かれるリアルで共感すら覚えてしまう情念の数々からも。
「外、暑いでしょう。お待たせしてしまってすみませんでした。中へどうぞ」
「はあ、どうも……。おじゃまします」
 私の妄想をほとんど裏切って、レナ先生は存在していた。



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2018年05月19日

商店街西、坂の上、縁結びアパート。(4)

 片付けをしていて、大変なことに気がついてしまった。礼陣大学の入学式は、学校ではなく公民館で行なわれるのだ。この町の公民館がどこにあるのか、方向音痴のわたしは直々に確認に行くことにした。それにしても、今のうちに気がついてよかった。
 地図とスマホと財布というおなじみのセットをバッグに入れ、部屋を出るとまたもや九鬼先輩に遭遇した。すでに驚かなくなっているあたり、わたしはこのアパートに順応し始めたのだろう。
「よう、今日はどこに?」
「公民館まで。わたし、入学式を公民館でやるって知らなくて。九鬼先輩なら公民館の場所知ってますよね」
「もちろん。案内してやろうか」
 暇そうなので、素直に案内してもらうことにした。九鬼先輩は二〇六号室から時澤先輩を召喚し、またこの三人で出かけることになった――のだが。
「おいおい、慧と一日、女の子連れてどこ行くの。ていうか、その子新入りじゃん?」
 階段を下りたところで、変な大人に捕まった。一〇一号室の前の段差に腰かけていたその人は、髪をツーブロックにして口の周りに髭を生やしている。人によってはかっこよく見えるのだろうけれど、正直その人には似合っていなかった。
「ヒロさん、どうも。外にいるのに煙草吸ってないなんて珍しい」
「この子は礼大の後輩です。つまりヒロさんの後輩でもあるってわけで、これから入学式会場の下見に行こうとしてるんです。まりちゃん、この人は礼大のOBで、ヒロさんていうんや」
 なんと、この見た目がちょっと残念な大人はわたしの先輩らしい。あんまり納得できないまま、わたしは自分の名前を告げて頭を下げた。ヒロさんと呼ばれているその人は「茉莉花ちゃんか、可愛いね」と褒めてくれたけれど、あまり嬉しさはなかった。
「オレは平松浩。五年前の春に礼大卒業して、そのままこの町の企業に就職してるから、このアパートには長く住み続けてる。九年も住んでいれば、新しく入って来た人を迎えるのも、人が出ていくのを見送るのも、もう慣れたもんだね」
「九年……」
 今のところ四年しか住むつもりのないわたしには、ちょっと大きな数字だ。言葉を失っていると、時澤先輩が問いをぶつけた。
「で、ヒロさんは煙草じゃないなら何してはるの。部屋、一〇二号室やないですか。ここ人んちの前ですよ。邪魔んなりますよ」
「邪魔とは失礼な。ちゃんと一〇一号室の住人に用があって待ってるんだよ。お前らが茉莉花ちゃんにいろいろ教えてるみたいに、オレも新入りの世話してんの」
 ヒロさんが言い返した直後に、一〇一号室のドアが開いた。身長はわたしより高いけれど、顔立ちはまだ幼い男の子が、ひょこりと出てくる。そういえば、高校生だっていっていたっけ。
「ヒロさん、お待たせ。あ、上の階の方ですか。こんにちは」
 男の子は部屋から出てドアをきちんと閉めると、わたしたちに向かってとてもきれいに一礼した。このびしっと決まった角度からして、体育会系なのかもしれない。こちらも思わず姿勢を正し、こんにちは、と声を揃えて返した。
「俺、錫木真生っていいます。この春から礼陣高校の一年生です」
「へえ、礼高か。じゃあ部活はもう決まってんの?」
「はい。礼高剣道部、ずっと憧れだったんです」
 先日は結局一歩出遅れて、話ができなかったそうだから、初めて見るはずの九鬼先輩の怖い顔。しかし少しも動じず、むしろ爽やかな笑顔で返事をする錫木君に、わたしは感心するばかりだった。時澤先輩まで「大した子やなあ」と呟いている。そして九鬼先輩はというと、「だからか」と何か合点がいったというように頷いていた。
 九鬼先輩はこちらを振り向くと、にやりと笑った。やっぱり私には、悪い笑顔に見えてしまう。
「わかったぜ、在さんが真生と笑いながら喋ってた理由」
「え、そうなんですか?」
 わたしがそのことを実はずっと気にしていたということが、九鬼先輩にはばれていたのだろうか。わたしには笑ってくれなかった、という問題の解決にはならないけれど、糸口くらいにはなるかもしれない。九鬼先輩の説明に、わたしは真剣に耳を傾けた。
「真生は礼高生、在さんの後輩にあたるんだよ。在さんには弟がいて、その人も礼高、しかも剣道部だった。その話で盛り上がったんだろ」
 九鬼先輩が錫木君に確認すると、彼は頷いた。
「そうです。不動産会社の常田さん、だと紛らわしいんですよね。在さんとは礼高と剣道のことで話が合って、引っ越してきた当日は楽しくお話させていただきました。在さんは高校時代に生徒会長も経験していて、弟さんは全国大会で団体準優勝したときのメンバーだったとか。強豪としての礼陣高校の話は、やっぱりいいですね」
 あの真面目な在さんと談笑するだけの話題を、錫木君は十分に持っていたということだ。不確かな「縁結び」なんかにうつつをぬかしていたわたしと違って、錫木君の話は在さんにとってリアルだった。つまり、そういう差だったのだ。
 それにしても、在さんの経歴もなかなかすごかったようだ。生徒会長……あまりに似合いすぎる。剣道の強い弟がいるという話まで加わると、なんだか物語の中の人みたい。
「真生、剣道部の見学に行くなら、そろそろ出たほうがいいぞ」
 ヒロさんの声で、わたしは我に返った。そうだ、わたしも公民館までの道を覚えなければ。
「錫木君、用事があったのに引き留めてごめんね。剣道、頑張って」
「ありがとうございます」
 またも礼をびしっと決める錫木君。こんなにしっかりしているのに、世話なんて必要なのだろうか。錫木君と一緒に歩きながら「さっきの、でかいのが慧、そんなにでかくないのが一日、女の子が茉莉花ちゃんな」と説明しているヒロさんを見ていると、溜息が出そうになる。
「本当に真生君の世話するの、ヒロさんでいいんやろか。そのうちヒロさんが真生君に世話されそうや」
 時澤先輩の容赦ない一言に、しかしわたしと、九鬼先輩までもが頷いた。

「アパートに住んでるやつには、もうほとんど会ったんじゃねえのか」
 公民館の場所を無事に確認した帰り道、九鬼先輩が言った。澄田さん、杉本さん、弥富さんにも会ったという話をすると、そう返ってきたのだ。
「そうですね。もう十人に会いましたから、あと三人でコンプリートです」
 わたしが頷くと、時澤先輩が手をぱたぱたと扇ぐように動かしながら苦笑いした。
「あとの三人には会うチャンスほぼないで。二人はほとんどアパートに帰って来おへんし、一人は逆に部屋から出て来おへん。まりちゃんがどうしても会いたいなら、運がないと」
 コーポラス社台は現在満室だ。だから住人は十四人いるはずなのだが、どう頑張ってもすぐに会えるのは自分を除く十人なのだという。九鬼先輩も渋い顔で頷いた。
「一〇六号室の人は先月から入ったんだが、その当日以来見てねえな。なんか放浪癖があるらしい。礼陣にいる親戚は、いつものことだから大丈夫って言ってたけど。一〇七号室の人は写真家なんだが、全国を回って撮影してるからなかなかアパートに戻らない。礼陣で個展を開くときにはいるから、そのときが狙い目。二〇五号室の人はそもそも人と会うのが苦手で、仕事も在宅だからなかなか出てこねえんだ」
 コンプリートは難しいな、ということだ。別にコンプリートしなくてもいいのだけれど、放浪癖があるという人や、部屋から出てこない人は、はたして大丈夫なのだろうか。顔も知らない他人のことを、つい心配してしまう。
 その三人を除く「会える人たち」には、わたしはもう会えたようだった。それなりに会話もしているし、九鬼先輩と時澤先輩に至ってはこうして一緒に出掛けるまでになった。たった数日で、こんなに人と知り合えるものだろうか。ただ、同じアパートに住んでいるというだけで。
「もしかして、ご利益?」
 コーポラス社台は、縁結びアパート。その噂が、もしもいい加減なものではなく、本当だとしたら。――なんて考えたら、きっと在さんには嫌な顔をされるのだろうけれど。
「そう思っててもいいんやないの」
 しかし時澤先輩は、わたしの呟きを微笑みで受け止めてくれた。
「ご利益だって信じたいやつは信じればいい。在さんが嫌なのは縁結びとか、それ目当ての人じゃないんだぜ、たぶん」
 九鬼先輩はわたしの考えていたことを読んだように言う。
 アパートの人たちとの出会いがご利益にしろただの偶然にしろ、わたしはあの場所で暮らしていくのだ。人と関わりながら、この町で大学生活を過ごすのだ。それだけは変わらない、たしかなこと。
 思い切り伸びをして、春の空気を吸い込んだ。始まりの季節の空気を。



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posted by 外都ユウマ at 11:49| Comment(0) | 創作文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする